すずのおと
小さな子供が泣いていた。
鬱蒼と茂る木々が光のほとんどを遮る山中。細い獣道に立ち尽くしていた少年は、ついさっきまで堪えていた涙をとうとう零し始めた。
押し殺したようなすすり泣きは、森に吸い込まれて消える。それを聞きつける人間は誰もいなかった。
少年は目を擦りながら歩き始める。父親に連れられて通った獣道を逆に辿る。
やがて、少年はふと泣き止んだ。
少年の声が消えると、静まり返る山の中。
鳥のさえずりすらない森の中で、ちりちりと金属質の音がした。
鈴が鳴っている。
少年は道から外れた草藪に目を向ける。
ちりちり。ちりちり。
藪が左右に分かれ、草を踏んだ足跡がその中へ続いていた。
鈴の音はその奥で鳴っていた。
少年は首を傾げ、顔を拭ってからそちらに近づく。
絡まり合った低木のアーチをくぐる。眩しい光に目を閉じて、開けると、少年はアスファルトに立っていた。
きょろきょろと周囲を見回す。少年が立っているのは町中、家の最寄りのバス停だった。
首を傾げてから、少年は家の方へ歩き出す。
古びたアパートへ辿り着いて、扉を開けると、父親が目を見開いて振り返った。
なんで帰ってきやがった。
怒号とともに灰皿が飛ぶ。少年はそれをこめかみで受け止めて、ふらふらとよろめいた。
父親は舌打ちして立ち上がり、少年を足蹴にする。床に倒れた少年は黙って身を丸め、背中を蹴られながら耐えた。
しばらくして、父親はため息をつき、少年の手を掴む。少年を車に乗せ、乱暴に発進した。
三十分ほど運転して、山の麓で車を止めると、獣道へ少年を連れて行く。
ここで待ってろ。すぐ戻るから、動くんじゃないぞ。
そう言って父親は道を引き返した。
それは数時間前と同じ言葉だった。
再び置き去りにされた少年は、しばらくその場にじっとしゃがみ込んでいた。やがて、耐えきれなくなったようにしゃくり上げる。
ちりちりと、また鈴が鳴った。
顔を上げた少年の前の斜面に、小さな洞穴があった。鈴の音はその奥で鳴っていた。
少年は身を屈めて洞窟に潜り込む。
四つん這いでしばらく進んでから立ち上がると、少年は家の近くの公園にいた。ジャングルジムから這い出したところだった。
少年がアパートへ辿り着くと、ちょうど帰ってきたばかりの父親が振り向いた。
どうなってやがる。
ついさっき開けたばかりのビール缶を少年に投げつける。怒鳴られ、少年はじっと身を丸めた。
壁際に追い詰めた少年を何度も蹴ってから、父親はビールの匂いを被った少年を車へ放り込み、再び車を走らせた。
一時間ほど走って、再び山奥へ少年を連れて行く。
今度こそ戻ってくるんじゃねえぞ。
父親は吐き捨てて、少年を置き去りにした。
少年はその場にうずくまった。
ちりちり。
鈴の音がしても、今度は顔を上げなかった。
ちりちり。ちりちり。ちりちり。
頭の周りで執拗に鈴が鳴る。少年は膝を抱いて顔を伏せ続ける。
げこ。
不意に蛙の声がした。
顔を上げると、少年の目の前に、父親の身長と同じくらいの大きさの蛙がいた。
げこ。げこ。
喉を鳴らした蛙が、口を大きく開けた。舌が少年目掛けて飛び出した。少年は目を瞑った。
べろり。
ぬるりと生暖かい感触。
目を開けると、少年はアパートの階段に立っていた。
部屋には誰もいなかった。隅に座ると体が痛んだ。
しばらくじっとしていると、車の音がした。すぐに階段を上る荒っぽい足音が聞こえる。少年はびくりとする。
やがて扉を開けて父親が帰ってきた。
なんでまたいやがる。
父親は怒鳴った。
少年は首を傾げた。父親は怪物を見るような目で少年を見てから、また怒鳴った。
いい加減にしろよ。邪魔なんだよ。死んでくれ。
父親が手を伸ばした先には包丁があった。父親は喚きながら刃を振りかざす。
げこ。
蛙の声がした。
少年の前に、いつの間にか大きな蛙がいた。
ぽかんと口を開けた父親へ、蛙は舌を伸ばした。
べろり。
少年は目を瞑った。
気がつくと、見知らぬ大人たちが少年を覗き込んでいた。
お父さんはどこに行ったか分かるかい。
少年は黙って首を振った。あの巨大な蛙はどこかに消えていた。
とりあえず警察を呼ぼうか。学校に連絡した方がいいのかな。
大人たちは困った顔を付き合わせる。
少年は黙って手を見下ろした。握り込まれていた拳に妙な感触があった。
開くと、中には古びた銀の鈴があった。
振ってみると、ちりちりと音がした。




