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三階まで

最初の3話は過去に投稿したものです。



 エレベータが到着する、軽やかな電子音が鳴った。「1」の数字が薄いオレンジの光に染まる。沢井はスマホに目を落としたまま、扉の中へ入る。

 視界の端に黒い靴先が見え、一瞬身を震わせる。人が乗っていることに全く気が付いていなかった。



「すいません」

 ぶつかりかけたことに謝罪の言葉を発し、顔を上げる。鏡になっている奥の壁に、自分の間の抜けた顔が映った。中年の男が柔和な表情でかぶりを振る。



「大丈夫ですよ」

 言いつつ、男は狭いエレベータの隅、扉脇のパネルに身を寄せる。

「あ、すいません、三階を押してもらえますか」

 男に言うと、沢井は反対側に立ち、再びスマホに目を落とす。



 意識の端を些細な違和感がひっかく。何が気になったのか分からないまま、沢井はソシャゲを進める。



 画面左上の時刻表示は午前零時を過ぎたところ。バイト帰りの沢井は、疲れ切った体を壁に預け、ぼんやりとスマホ画面を眺める。普段なら決して服を触れさせたくない煤けた壁だが、それも気にならないほどには疲れている。

 今一つ映像にも集中できない。光を散らして戦う美少女たちの後ろの、エレベータの茶色に変色した床や引っかいたような傷が残る壁が目に入ってくる。



 いっそ目を閉じてこのまま寝たいくらいだ。だが、エレベータが三階に着けば、すぐに自分の家で眠れる。

 シャワーくらいサボっても許されるんじゃないか、半分薄れた意識の中でそう自分に言い訳する。



 それにしても、随分と上昇が長い。今頃家についていてもおかしくないはずなのに、まさか停まってしまったのか。



 いつの間にか閉じていた瞼を開け、階数表示に目をやる。まだ二階を通り過ぎたところ。

「なんか、このエレベータ遅くないですか」

 中年の男に向けて言う。彼は居場所なさげに佇んでいたが、沢井の声を聴いて慌てて視線を彼に合わせた。



「そうですか?」

 曖昧な笑みとともに男はそう答える。

 耳を澄ませる。エレベータが動いている音はする。

 眠さのあまりに体感時間が狂っているのか。首を傾げる。



 男は何か言いたげにこちらを見つめている。そのまま再びスマホに視線を戻すのも躊躇われて、沢井は所在なさげに視線をさまよわせた。



 大家が管理を怠っているのか、ひどく古びたエレベータ。階数表示のパネルの光は妙に茫洋としているし、壁は明らかに本来の色ではない灰色。扉の下のほうには茶色い染みが付いているが、まさか酔っぱらいの吐瀉物の名残ではないのか。ひどく曇った鏡には隅にひびが走っている。沢井は鏡に映ったエレベータのパネルをぼんやりと見やった。三のボタンが灯っている。




 唐突に、気づきは訪れた。




 沢井の背筋を冷たいものが駆け上る。眠気を吹き飛ばして余りある、つま先から脳天までを冷やすような衝撃。



「どうかしましたか?」

 パネルの前に立つ中年の男は、穏やかな笑みで問いかけた。沢井はかろうじて首を横に振る。




 この鏡に、パネルが映るはずがない。その前には男が立っているのだから。




 鏡に映らない男を凝視する沢井に、男はいぶかしげに首をひねる。一歩踏み出そうとする気配を察し、沢井は慌てて背を向けた。

 視界には汚れた壁。そこだけを見つめ、耳をふさぎたい衝動と戦う。男の歩みで、エレベータの床が軋んだ。



 思えば、一階まで降りてきたエレベータに、男は初めから乗っていた。目的地を押すこともなく、再び上がるエレベータに乗り続けた。

 一歩、男がまた足を踏み出して床が軋む。わずかな音すら聞き取り、思わず肩が跳ねる。



 いつになっても、エレベータが三階へ到着する気配はない。



 三度床がきしむ。すでに男の気配はすぐ後ろ。姿は見えなくとも、存在そのものが沢井の背中に伝わる。



「どうかしましたか?」

 なんの個性も感じられない男の声。耳に生暖かい息がかかるほどの距離。沢井は必死に壁を見つめる。



 エレベータはいつになっても三階にたどり着かない。

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