三、謙虚なる者の土地
三、 謙虚なる者の土地
相変わらずあちこちに無数に点在する岩を見ながら砂漠での旅は続いていた。フェクタもだいぶ慣れてきたようだ。当初はあれだけ警戒していたアステリスに対しても、次第に彼女を理解してきたのか、なつきはじめている。もっともアステリスは照れているのか本当にうっとおしいと思っているのかはわからないが、とにかくあまり彼女を構いはしなかった。が、嫌っているのでも無論ない。リレンを発って三日目、ほどなくあの有名なヴェッテルダムティー寺院に近付いてきた。砂漠の果てに、寺院の影がうっすらと見られた。
「しまった……」
アステリスはかなたにけぶってみえる寺院の影を見ながら鳥駱駝の上で汗だくになりつつ呟いた。聞き取ったジラルダが、
「道でも間違えたかね?」
尋ねると、――もっとも砂漠には道などないのだ――アステリスは静かに否定した。
「え? あ、や……近いよ。ハッキリ言やぁこっちのほうが近道だね」
言いながらアステリスははあ、とため息をついた。
「どうしたね君がため息など珍しい」
「……近道なんだけどね……」
アステリスは参ったなあ、とため息をついた。どうもうんざりしたような表情だ。
「?」
ジラルダとフェクタが不思議そうな顔をしている間に、寺院はどんどん近付いてきた。
やがて絵に描いたようなキリリとしたシャープな線を黒く空に浮かばせている寺院が手を伸ばせば触れられるくらいに近付いてきた。辺りにはさすがに巡礼や僧侶の影が増えてきている。寺院の入り口が見えるくらいになると、あちこちに井戸が見えはじめ、長衣に身を包んだ女性が水を汲んだり、黒い衣を着た僧侶があちこちを行き来するの姿も頻繁になってきた。アステリスはうんざりを通り越してげっそりとした顔に変わってきている。
「ぐあああ」
突然アステリスがものすごい声をあげたので、フェクタはびくりとして彼女のほうを伺い見、ジラルダは驚いて声をかけた。
「どうしたのだね」
しかし返答は得られなかった。騎乗の彼女の姿をみとめた幾人かの僧侶が、それぞれ近づいてきたからだ。アステリスはげんなりしてがっくりと首を垂れた。
「でたな坊主どもお……」
「おおアステリス」
「アステリス」
「ああああああああーっうるせえうるせえ通せこのバカ坊主どもっ」
「アステリスに心の平和を」
「アステリスに穏やかな光を」
「おおアステリス」
「アステリスに信じる心を」
「うるせえうるせえ」
「平和な者は祈りを知る」
「信じる者は謙虚になる」
「だああああああーっ! 通せ通せ通せったらクソ坊主ッ」
アステリスは鳥駱駝を走らせた。見る見る寺院が後ろに遠くなっていく。ジラルダの駱駝もつられて走ったが、あまりの事態にフェクタはそっと振り向いたほどであった。
黒衣の僧侶たちはなにごともなかったかのようにまた列をなして歩いている。ジラルダは首をかしげた。勧誘か? いや、ヴェッテルダムディー寺院はその歴史と伝統で世界に名を轟かせている。傭兵など勧誘しなくとも、信者には事足りているはずだ。
「だあ……疲れた……だからあそこの近くを通るのはイヤなんだよ」
心底疲れた態でアステリスは鞍にしがみついている。
「いったい彼らはなんなのだね?」
「あー?」
アステリスは声をかけられて初めて連れの存在に気が付いたかのように顔を上げた。
「ああ……」
アステリスは幾分真顔になって前を見た。再び荒涼と広がる砂漠。
「ありゃああたしが昔助けた連中だ。砂漠の真ん中で盗賊に襲われてたから助けてやった
んだよ」
「……愚問だがいつもの戦い方でかね?」
「? そーだよ」
「ふむ……」
ジラルダは押し黙った。僧侶があの光景を見たら、……それはああいう反応にもなるだろう。ヴェッテルダムティーは敬虔かつ伝統ある寺院としては世界的に有名だ。砂漠のど真ん中という最悪な場所に立地しているにも関わらず巡礼が年中絶えないことからもそれらは充分納得できる。
「以来うるさくってさあ……なんとかあたしを改心させようと思ってるみたいなのねー。無駄だっつーの」
「まあそうだが……彼らも無駄な努力を」
「そんなことはないよくらい言えないの?」
アステリスはじろりとジラルダを睨んだ。
「おやこれは失礼。そんなことはないよ」
「遅いんだよタコ」
アステリスは憮然として呟いた。
しかし僧侶たちの気持ちもよくわかる。いくら自分たちの生命を助けたとはいえ、日常刺激とはいっさい無縁の生活を送る僧侶たちに、あの凄惨な戦い方で目の前を血に染められてしまっては、彼女を改心させようと思うくらいは、ヴェッテルダムティーの僧侶たちなら当然だろう。
「しかしよくそんな持ちあわせがあったな」
「あー?」
「僧侶たちだよ」
アステリスは真顔になってジラルダを見た。
「……報酬を約束したのではないのかね?」
「坊主がそんな金持ってっかよ。タダだよタダ」
「熱でもあったのかね」
アステリスの口元がひく、と歪んだ。まあ、二人が出会ったあのディアの荷物受け取り所、あそこでのアステリスの態度を考えれば、ジラルダがそんなことを思ってしまうのも無理はない。
「……正気だったよ。ああそーですともよ。坊主なんかから金が受け取れるかっての辛気くさくて」
「……」
ジラルダはしばらくアステリスを見つめていた。その視線もその表情も、実に愉快そうな笑みをたたえていたので、アステリスは気恥ずかしいような気がして怒鳴った。
「あんだよ!」
「いや……そうではなくて単に助けたかっただけだろう」
「あー?」
「君は出るところからは取るがそうでないところからは取らない。違うかね?」
「……十年かけて支払った夫婦もいたよ」
「それは『仕事』だからだ。砂漠という隔絶された場所では誰も他に助けはない。年配の僧侶ばかりが盗賊に襲われていたら……君でなくとも無報酬で助けるだろう」
アステリスはジラルダを睨んだ。
「……決めつけんなよ。言っとくけどあたしゃあ坊主は嫌いだ。だからあいつらから報酬をもらおうとは思わなかった。それだけさ」
「しかし君くらい仕事に冷淡なほど忠実ならば嫌いな僧侶を見捨てるくらいなんでもなかったのではないかね」
「……」
図星だったのか。それとももうこれ以上は話したくなかったのか……アステリスは答えなかった。
「結局君は優しいのだよ。奴隷商人のときもそうだった」
「詮索が好きだね」
アステリスは別段怒っているふうでもなく、むしろ呆れたように言い、鳥駱駝の腹をトン、と蹴って早足で行ってしまった。その後ろ姿を見てフェクタが心配そうにジラルダを見上げた。怒らせたのではないかと案じている顔だ。
「大丈夫。照れているだけだよ」
「聞こえてんだよ」
アステリスは少し前で呟いたが、それは憮然としたものではなく、苦笑まじりのものであった。