9.二人で堕ちていく
「…これは嬉しい雨だよなっ?アオ」
柔らかい笑みを浮かべるジャルイ。
雨に嬉しいなんて言葉を使ったりはしない。嬉し涙かと尋ねているのだ。
……ぜんぶ知っていたのね…
私は彼のために嘘をついた。
でも彼は私のために嘘をついていたのだ。
彼は最高の魔術師だ。
自分以外の者が加護の魔術に攻撃を仕掛けていたことも察していたのだろう。……それはたぶん私だとも。
――彼は私よりも私を知ってくれている。
視力を失っていても、私の微かな手の震えや息遣いや声音などから疑いは確信へと変わったのだ。
『…やはり、アオだった』と。
いつ知ったのだろうか――きっと最初から。
私の下手な演技に気づかないふりをして、私の望みを叶えようとしていた。
――私のための優しい嘘。
私の心を最後まで守ろうとしている。
付き合っていた頃、話の流れでお別れの時について語ったことがあった。
『私、歳を取ってお別れの時が来たら最後は笑って終わりたいな。これからの人生、大変なこともたくさんあるだろうけどそんなのすべて忘れて、ジャルイの笑顔を見ながら安らかに逝きたい。だから、二人で楽しい思い出を沢山作ろうね』
『もちろん、アオと一緒に楽しい人生を歩む。だけど逝くのは俺が先だ。アオがいなくなった世の中なんて想像もしたくない!だから俺よりも絶対に長生きして、アオ』
まだまだ先の話なのに、彼は私の肩をガシっと掴み真顔で言った。そのちょっと拗ねた口調が可愛かった。
『ふふ、約束するわ。私が看取るからあなたは最高の笑顔を見せてね』
『良かったー。俺も約束するよ、アオ』
それは口約束でどっちが先かなんて分からないのに、彼は目を細めてとても嬉しそうだった。
「そうよ、嬉しい雨。だから温かいの…」
「そうか…、ゲホッ…。そうだと思った。雨、止んだみたいだね」
もう涙は止まっていた。枯れたのではない、あの約束を果たす時が来たから。
「アオ、月に照らされて君の顔がよく見える。凄く綺麗だ、惚れ直しちゃったよ」
月が出ているのは私が教えた。
彼の目に映っている私の顔の半分は、青黒く染まったままで綺麗とはほど遠い。
「お月様のおかげね。私ね、ここに来れて良かった。また一つ素敵な思い出が増えたわ。ありがとう、連れてきてくれて」
「また来ような、アオ。たくさん思い出増やそう」
――思い出はもう増えない。
「また来年も来ましょう。もしかしたらもう一人増えているかもしれないわね」
――子供が生まれることはないし、来年だってない。
「…来年だけじゃなくて、ずっと…っ、だ。アオ」
私の頬に触れていたジャルイの手が徐々に冷たくなっていく。
力が抜け離れていく彼の手を、今度は私が両手で包み込む。
何度も擦って温めようとしても、彼の手は温もりを取り戻すことはない。
「なん…だか、眠くなったな。ごめん、ちょっとだけね…る…、アオの料理が冷めちゃう…な」
「温め直せばいいわ、ジャルイ」
「ごめんな…すぐ起きる…から」
「…大丈夫、ゆっくり休んで。ジャル…ィ、おやすみなさい…」
彼は穏やかな笑みを浮かべている。
それは苦痛など感じさせない、今まで見てきたなかでも最高の笑顔だった。
「アオ…おやす…み…」
彼は約束通り私よりも先に逝ってしまった。
月明かりが照らしているはずなのに、もう私にもその輝きは見えない。
「ジャルイ、もういいよね?あなたよりちゃんと長生きしたわ。だから、もうあなたを追いかけても許してくれるよね……」
冷たくなった彼の顔を手探りで触りながら、唇へと口づけを落とす。
私は彼に重なるようにゆっくりと倒れ込む。
「あたたかい…な…」
私の体も冷たくなっているから、もう彼の体を冷たいとは感じなかった。
――私は幸せだった。
彼もそう思って逝ってくれてたらいいな……
もう永遠にそれを確かめることはできない。
「…ジャ…イ、あいし…て…――」
最後の言葉を言えずに私は逝った。
◇ ◇ ◇
「お兄さんはここでなにしてるの?迷ったの?」
「違うよ、花を摘んでいるんだ」
俺は女の子に突然声を掛けられた。こういうことは珍しいがたまにあるので、その時は普通に話すことにしている。
ここは俺――ジャルイとアオサの思い出の湖のほとりだ。奥深い森の中にあるので滅多に人も通らない静かな場所。
俺とアオサは永遠に彷徨っている。もうどれくらいの時が経ったのか…。
少し離れたところに馬車が止まっていて人影が見える。たぶん、この子の家族だろう。
「私はエルサよ。あそこにいるのがお父さんとお母さんとお兄ちゃん達なの。本当は知らない人と話しちゃいけないんだけど、お兄さんは悪い人に見えないからいいよね?」
「はっはは、悪い人じゃないよ。ジャルイだ」
エルサは幼いのにお喋りが上手な子だった。
家族で商売をしていて買い付けに行く途中だったが、この森に入って迷っているらしい。
「同じところをぐるぐる回っているの。もうエルサ、飽きちゃったー。この森に人は住んでいないってお父さんが言っていたけど、お兄さんは住んでるの?」
「住んでるよ」
「いつから?一人なの?こんな静かな森で淋しくない?」
商人の子だからだろうか。
エルサは物怖じせずに気になったことは何でも聞いてきた。
「ずっと前から奥さんと一緒に住んでいるんだ。ここは思い出の場所だからね。静かだけど気に入っている」
「子供はいないの?」
エルサは無邪気に聞いてくる。
子供だから結婚したらコウノトリが赤ちゃんを運んでくると信じているのだろう。
「子供はいないよ」
「じゃあ、寂しいね。ずっと二人だけなんて飽きちゃうでしょ?」
子供らしい容赦ない質問。
だが、不快に思うことはない。
エルサに悪意などないのは分かっている。俺の姿は、清い心をまだ失っていない子供にしか見えない。
「エルサはお父さんやお母さんと生まれた時から一緒だろ。もう飽きちゃったかな?」
「ううん、飽きないわ。だって大好きだもん!」
「そうだろ?大好きな人とずっといても飽きることはないし、淋しくもないんだよ。俺はね、奥さんを愛しているからずっと一緒にいたいんだ。辺鄙な場所だろうと、どんな形だろうとね」
「どんな形ってなーに?」
呪われて永遠に彷徨っているとは言えない。
子供を怖がらせたら、アオサに叱られてしまう。
「二人だけの世界ってことかな」
だから曖昧な言葉で誤魔化しておいた。
「分かった!ラブラブってことね」
エルサの言いように苦笑いする。近頃の子はずいぶんとおしゃまさんのようだ。
恥ずかしがり屋のアオサに教えてあげよう。
もっと積極的に愛の言葉を囁いてくれるようになるかもしれない。
彼女は言葉にするのは照れるようで、俺の十に対して半分くらいしか返してくれない。
その代わりに態度で示してくれるのが可愛いけどな。
『ジャルイ…』と遠くから愛しい妻の声が聞こえてくる。
「あれがお兄さんの奥さん?凄く綺麗な人だね。あっ、手を振ってくれてる。こんにちはー!うわ、笑顔も可愛い。あんな奥さんがいたら淋しくなんてないね」
俺が喋っていたから、俺達の姿が見える子供だと分かったのだろう。
遠くからエルサに向かってアオサが微笑んでいる。
「ほら、家族が心配する前に戻りな。あの道を真っ直ぐに行って大きな杉の木のところで右に曲がれば森を抜けられるよ」
「ありがとう、お兄さん。またね!」
エルサはちゃんとお礼を言ってから家族のもとに駆けって行った。
あの子も今度ここを通る時には俺達が見えなくなっているかもしれない。
それは大人になるということで、仕方がないことだ。
淋しくはない。
――俺にはアオサがいる。彼女が隣にいればそれでいい。
呪いは俺達を永遠に結びつけた。
いつかこの呪いから解放される日が来るのだろうか。
俺は終わらなくていいと思っている。
今まで聞いたことはなかったがアオはどう思っているのだろう。
否定されたら嫌だけど、意を決して聞いてみることにした。
ふっ、あのおしゃまな子の影響だな……
俺はエルサの背を見送ったあと、アオサのもとへと急いで向かった。
「俺は生きている時も幸せだったけど、今も幸せなんだ。終わりたいとは思っていないから、その努力もしていない。まあ、なにを努力すればいいかも分からないけど。アオは幸せだと思って――」
「ずっと幸せに決まってるでしょっ!だってジャルイが隣にいてくれるんだ…から…」
アオサは俺の言葉を遮って、俺の望む言葉を告げると、俺の胸でわぁんわぁんと声をあげて泣いた。
暫くして落ち着いてから話を聞くと、ずっと怖くて聞けなかったという。
――俺が幸せなのかと。
俺は初めてアオサを本気で叱った。『俺の愛を疑うなんてっ!』と。
それからすぐに反省する。
「ごめん、俺の伝え方が悪かったんだな。これからもっと分かりやすく気持ちを伝える、回数も増やすから」
「えっ、……」
アオサは照れながら分かりやすく慌てている。
はっはは、どんなアオも可愛い。
困っているのも本当だけど、それ以上に嬉しそうだから今から実行しよう。
「アオ、愛してるよ。二人でならどこまで堕ちてもいい。もしここに呪われた奴が来たら全力で天国に送る、邪魔だからな。アオもそう思うよなっ?」
「邪魔とか言っちゃだめよ。でも天国に行って欲しいな」
まだ見ぬ呪われた他人にも優しいアオサ。
気に入らない、アオは俺のことだけ見てればいいんだ。
俺が拗ねていると、背伸びしたアオサが俺の耳元で恥ずかしそうに囁いてくれた。
「どこまでも一緒にいてね、ジャルイ」
「もちろん、いつまでも…」
俺はここにいるから、本当に天国があるかどうか知らない。天にあるかもしれないし、人間が勝手に言っているだけで本当は存在しないかもしれない。
だが、ここは紛れもなく俺とアオサの天国だ。
(完)
最後まで読んでいただき有り難うございました。