8.運命が変わる②
何度も時間を巻き戻ったけれど、そのことはいつも私しか覚えていなかった。
――でも今回は違ったのだ。
ジャルイも知っていた。だから私を助けるために運命を変えよう――ベルガナを殺そう、としたのだ。
いつ、どうして、そしてどこまで彼が知ったのかは分からない。
きっと尋ねたら教えてくれるだろう。
でも私は聞かなかった。聞いてこのあとに私達が取るべき行動が変わるなら聞く。でも、もう何を知っても私達の運命は変わらない……。
私とジャルイを蝕む呪いの魔術は解くことは出来ない。
この呪いは解くことを前提として施していない。魂に絡みつき、体に耐え難い苦痛を与え、そして救いのない死へと導く。
もう私の体のなかはボロボロで、自分に残された時間は長くないだろう。そして、私以上に呪いに覆われている彼も同じ。いいえ、もっと酷い状態のはず。
それなのに彼は私の前で穏やかに笑っている。
私は失敗した。
でも次代の魔術師長と期待されるほど優秀な彼は成功したのだろう。あの血は返り血だった。彼は加護の魔術をすべて壊し、物理的にベルガナにとどめを刺すことが出来たのだ。
だからこんなふうに笑っているのだ、私を守れたと安堵して。そうでなくては、私を連れて急いで逃げようとしているはず。
いま彼は立っているのも辛いはずだ。その苦痛に身を任せ崩れ落ちたほうがよっぽど楽になるだろう。
――そんな状態なのに、私のところに帰ってきてくれた。最後の一瞬まで私とともにありたいと望んでくれた。
ジャルイ、ごめんね。そしてありがと…う…。
運命は変わった。
私はベルガナの手によって命を落とすことはない。でも、その代わり私だけでなく彼も死ぬことになった。
彼を巻き込んでしまい胸が張り裂けそうなほど苦しい。
それなのに、私のもとに最後の力を振り絞って戻ってきたことを、私は浅ましくも嬉しいと思っている。
――たぶん、もう運命は変わらない。
また巻き戻るかどうか分からないけど、……そんな予感がした。
「あれ?アオも濡れているね?ごめん、俺の水しぶきが掛かったんだね」
彼は私の頬に手を伸ばし触れた伝う涙を、雨だと勘違いする。
「…もうっ、ジャルイが頭を振るから私にまで掛かったわ。今から髪も拭いてあげるから大人しくここに座っていてね」
「やった!俺、アオに髪を拭いてもらうのが凄く好きなんだ」
彼の手を取ってさり気なく椅子へと座らせ、湿った髪を丁寧に拭いていく。手拭きはすぐに真っ赤に染まる。
彼の息は荒く、体を襲う痛みに耐えているからだろう、小刻みに震えている。だから私の手の微かな震えには気づかない。
痛いよね、苦しいよね……
彼の苦痛を少しでも和らげてあげたい。
いま横になって休むことを勧めたら『なんで?アオが作った美味しいご飯を一緒に食べようよ』と彼は笑みを浮かべて答えるだろう。
彼は残り僅かな時間を私と過ごすことを望んでいる。
その気持ちは痛いほどよく分かる。だって、私も同じだから……。
彼が先か、私が先に逝くか分からないけれど、最後の一瞬まで彼が笑っていられるようにしたい。
だから、ジャルイの嘘に私も嘘を重ねあわせよう。
「ねえ、アオ。今からあの湖に行かないか?」
いきなり彼はそんなことを言い出す。結婚記念日に行けないからだろうか。
きっと、そうね……
運命が変わろうともあの日には辿り着けない。
「転移魔術を使おう。ちょっと行ってすぐに帰って来て、それからアオ特製煮込みハンバーグを食べたい。だめかな?アオ」
「ううん、だめじゃないわ。私も行きたい」
無理させたくない。でも、彼が望んだから私は止めなかった。
転移魔術を使えるのは数人だけで、ジャルイもその中の一人だ。そして勝手に使うことは固く禁じられている。
でもお互いにそれに触れることはない。分かっているのだ、もう先のことを案じる必要がないと。
「アオ、俺に掴まって。行くよ」
彼はそう言うと残された力を振り絞って転移魔術を展開する。
この魔術は失敗すれば体が千切れ別々の場所に飛ばされることもある。普段の彼ならば万が一にも失敗など有り得ないけど、今の状態なら成功するほうが難しい。
――辿り着けなくても構わない。
失敗を恐れてはいなかった。彼と一緒ならどうなってもいい。
結果、転移魔術は成功した。
二人で大木を背にして寄り添いながら、月明かりに照らされた湖を見つめる。
湖は深い森に囲まれているので、私達以外には誰もいない。
静寂のなか、私とジャルイの息遣いだけが聞こえてくる。
彼は息をするだけでも苦しそうだ。
私の息も苦しくなっているけど、彼の荒い呼吸によって私の音は掻き消されていく。
「俺はアオのことが凄く好きだ」
「私もジャルイのことが大好きよ」
彼は真っ直ぐな言葉を紡いでくる。だから私も同じように返す。
いつもなら照れてしまって何も言えないときもあるけど、今だけは言葉を惜しまない。
「なあ、俺と結婚して後悔してない?」
「ジャルイと出会え良かったわ」
「俺はアオを幸せにしてる?ゴッホ…」
私が彼の背を擦ると『風邪ひいたかも…』と言ってくる。そうじゃないと彼が一番分かっているのに、私のためにまた嘘を重ねる。
その優しい嘘に心が抉られる。
ごめん、……ごめんね……
「これ以上ないほどに幸せ。私はあなたを幸せに出来てる?」
――出来てやしない。だって、彼を苦しめている。
「幸せだよ、隣にアオがいて。ありがと‥ぅ、俺から離れないでいてくれて…」
それなのに、彼は幸せだと言ってくれる。こんな苦しめているのに、隣にいていいと言ってくれた。
私は声を殺して泣いた。
想いを短い言葉にして伝えあう。
もっと伝えたいことはたくさんあった。でも、もう無理だった、二人とも…。
私達は、彼がすっぽりと包み込むように私の体を抱きしめ座っていた。
だんだんと彼の体が私のほうへと傾いてくる。
「アオ、ごめん。重いよな……」
彼はもう自分の体を支えられないのだ。見えない目からは血が流れ出ている。
でも気づいていない。……いつから感覚も失っていたのだろう。
「雨がまだついているわ…」
彼の血を手で拭い、その手で自分の涙も拭いた――赤かった。
「膝枕をしてあげる。遠慮しないで、ねっ?」
「ちょっとだけ、甘え…させ…て」
ジャルイの体は崩れ落ちるようにゆっくり倒れていく。
もういいから、もういいの……。
私は膝の上にある彼の髪をそっと梳きながら『疲れたなら少し寝て』と耳元で囁く。
もう頑張らなくていいから、無理しないでいいの分かっているから、と言ってあげるべきなのかもしれない。
――でも、出来なかった。
それを言ったら、彼がすぐに消えてしまいそうで怖かったから。
苦痛から開放して楽にしてあげたい、でも死んで欲しくない。
『お願い、死なないで……』と言いそうになる口を片手で押さえる。
最後まで彼の嘘に気づかないふりをすると決めたのに、それを破るの?
それは彼のためか、それとも自分のためかと、自分に問い掛ける。
……たぶん、自分のため。これ以上愛する人が苦痛に喘ぐ姿を見るのが耐えられないのだ。
「アオ、泣いているの?」
上目遣いで私を見るジャルイ。
その目にはなにも映っていないけど、私の涙が彼の頬を濡らしていた。
「…これは雨よ」
「とても温かい雨だね、アオ。この雨は俺だけのものだな」
彼がそう言って私の頬に手をあてる。雨が彼の大きな手を濡らしていった。
『アオの泣き顔は俺だけのものだな』と彼が照れながら言った台詞を思い出す。
――彼は見えなくても気づいている。




