7.運命が変わる①
――ゲホッゲ…ホッ…。
口元を押さえた手には真っ赤な血が付いていた。
私は急いで流し台まで行くと勢いよく水を流し、真っ赤に染まった水が透明になるまで何度も口をすすぐ。
もうすぐにジャルイが帰ってくる。血が付いていたら彼を心配させてしまう。
口元を拭い血がついてしまった手拭きを屑籠の奥に押し込み、顔をあげると、そこには鏡に映った自分がいた。
「あっ……、なんで…」
もう血はついていなかった。
けれど、顔の右半分が青黒く染まっている。恐る恐る顔を鏡に近づけると、それは痣ではなく細い文字がびっしりと刻まれているものだった。
――呪いの魔術だ。
それは加護の魔術に攻撃を仕掛けた時に発動し、攻撃した術者に返ってくる反動のようなものだ。
術者の体を内側から破壊し、時には魔術式が体に刻まれることもあると教わった。
実際に見るのは初めてだけど、これがそうなのだろう。
自宅に帰った私は食事の用意を済ませると、家からベルガナに対して魔術を展開した。
『ベルガナ、お願い。………死んで』と心の底から祈りながら。
王宮自体にも、彼女の部屋自体にも、そして彼女自身にも加護の魔術は幾重にも掛かっており、私の力では彼女に辿り着くことも出来なかった。
失敗したのだと感覚で分かった、……彼女は生きていると。
最初から分かっていたことだ。爪痕を残すくらいしか私には出来ないことくらい…。
だが成否に関わらず、その反動は容赦なく私の体を襲ってきた。今も続く絶え間ない痛みに、ただ歯を食いしばり耐える。
体の内側がどうなろうとも、痛みは目に見えないので構わない。
でもこの顔はまずい。
青黒く染まった顔を必死に擦っても、やはり消えはしなかった。
出来れば顔には出て欲しくなかったな……。
私の目から涙が零れ落ちる。体を襲う痛みで泣いているのではなかった。最後のその時まで彼の笑顔を見られなくなったのが悲しいのだ。
――この顔では誤魔化しようがない。
本当は、ベルガナに仕掛けた攻撃が失敗し彼女からの刺客に命を奪われるその時まで、ジャルイの笑顔を目に焼き付けておくはずだったのに……。
遠隔からの魔術の攻撃なら私に辿り着くまで時間が掛かる。だから、捕縛されるよりも命が消えるほうが先で、いつものように彼の腕に抱かれて終われるはずだった。
「顔じゃなかったら良かったのにな。……神様は意地悪だわ。会ったら文句を言わなくてはね」
そう呟きながら、私は涙を手で拭っていく。
思わず神の名を口に出したが、もう私には関係がなかった。神のもとへ召される資格を失ったのだから。
呪いの魔術は魂にも絡みつく。汚れた魂は死しても彷徨い続け、その苦痛とともに永遠に時を刻むのだと言われている。
一人ぼっちで永遠に彷徨うのは怖い、でも後悔はしていない。
ジャルイが帰ってきたら、なんて言い訳をしようか。間違って呪われたみたいだと笑い飛ばそうか。
「最後まで笑っていて欲しいな…、ふふ…」
鏡に映る私は、無理矢理笑みを作っていた。
彼の笑顔を見たいなら、自分が泣いていたらだめだから。
いつの間に雨が降り出したのだろう。シトシトと屋根を叩く音が聞こえてくる。
――ギギッ…。
玄関が開く音がした。ジャルイなら『ただいま』と言うはずだけど、声が聞こえてこない。
どうやら彼よりもベルガナの魔の手が先だったようだ。
きっと刺客に襲われ倒れている私を帰宅したジャルイが見つけ、いつものように彼の腕の中で私は最後を迎えるのだろう。
彼のために作った夕食が無駄になってしまうなと思えるほど、私は覚悟ができていた――もう慣れているから。
「……ただいま、アオ」
その声にハッとする。
ジャルイの声だった。いつもと違って小さな声だけど、彼の声を聞き間違えるはずはない。
私は綺麗な手拭きを持って、彼を出迎えるために急いで玄関へと向かう。
まだ彼と過ごす時間があるのが嬉しくて、体を襲う激しい痛みなど構わなかった。
そして、その瞬間、自分の顔のことなど忘れてしまう。
少しでも長く彼のそばに……。
「ジャルイっ、おかえりなさ…ぃ…」
「雨に濡れてびしょびしょだよ。ああ、良い匂いだね。アオ特製煮込みハンバーグだ。お腹がペコペコだよ、早く食べたいな」
「‥…っ……」
彼は部屋に漂う夕食の匂いに嬉しそうな顔をする。その表情は今の彼の姿とあまりにもかけ離れていてた。
ジャルイの全身は濡れていた。
雨にと言っていたが、そうではない。
確かに雨にも降られてはいたが、むしろ全身を染めている血が雨によって少しは薄まった感じだった。
どれほどの血が彼を濡らしていたのか…。
ジャルイのものではない。もしこれほど出血していたら動けないはずだ。
「ジャル…イ…、どうして…」
「ん?ああ、ごめん。玄関が濡れちゃったな。いきなり雨が降ってきたから傘を持ってなくてさ」
玄関を濡らしてすまなそうな顔をしていたが、彼は躊躇することなく答えた。
でも私が聞きたかったことはそんなことではない。
この状況で、傘の話が出るなんて変だ。
どう見てもそれはなにかの血で、雨ではない。
それに彼は、青黒く染まった私の顔をその目に映しているのに笑っていた。
――何も言ってこない。
まるで見えていないかのようだった。
……あ、あぁぁぁぁぁぁ……。
私は漏れ出そうになる叫び声を懸命に飲み込む。首を横に振りながら『嘘、嘘よ…』と心のなかで呟く。
「アオ、いつもみたいに拭いてくれないの?自分でも拭けるけど、やっぱりアオの柔らかい手が一番気持ちいいんだよな」
彼は袖で無造作に顔についた雨を拭きながら、甘えた口調で私にそうお願いする。
雨に彼が濡れて帰ってくると、私は必ず手拭きを持って出迎えるのが習慣だった。
だから、今日も私が持っていると思ってそう言ったのだ。
――ジャルイの綺麗な瞳には私の姿が映っているけれど、何も見えていなかった。
私は震える手で彼についた血を優しく拭いていく。
手拭きに血が移ると、彼の肌がはっきりと見えてきた。
彼の体には怪我はなかった。
けれども、びっしりと細い文字が彼の肌を覆っていた。赤黒く見えたのは血のせいだけではなく、このせいだったのだ。
それは私の顔に刻まれたものと同じ。
――彼は呪いの魔術に蝕まれていた。
「…ジャル…イ、ジャルイ、ジャル…」
「はっはは、どうしたの?アオ。俺の帰りがそんなに待ち遠しかった?それなら凄く嬉しいな。俺もね、凄く会いたかったんだ。……だから帰ってきた」
私は震えそうになる声を必死で抑え、彼の名を呼びながら涙を流す。
彼にはその涙が見えていないから、茶化すような口調で私に応える。
ジャルイが何をしてきたのか分かった。……たぶん、彼は私と同じことをしたのだ。
そうでなくては、こんなふうになっていない。
呪いの魔術は加護の魔術を壊す時の反動。そして王族にしか加護は掛かっていなかった。