4.自分のための優しい嘘〜王妹ベルガナ視点〜
『正式に離縁が決定いたしました。出立の日は三日後でございます。奥様――いいえ、もうベルガナ様とお呼びするべきでございますね』
『な、なにを言っているの…。意味が分からないわ。旦那様はどこにいるのっ!』
『離縁は成立しておりますので、もうあなた様に旦那様はおりません。では、失礼いたします』
淡々と伝える公爵家の家令の口から、私のことを案じる言葉は一切出なかった。
五年前、私の意思などお構いなしに他国の公爵家へ政略で嫁がされ、そして五年後にはこの仕打ちだった。
夫であった公爵は私に会うことも拒絶し、三日後に見送ることさえしなかった。
公爵家の使用人達は深々と頭を下げ見送ったが、どの顔も無表情で、私との別れを惜しむ者は誰一人いなかった。
そして迎えに来た母国の者も、気まずそうに私から目を逸らした。
どうしてっ、どうしてっ、どうしてっ……。
国のために好きでもない人の元に嫁いだ。
それなのに、夫となった公爵は、孤独な妻に寄り添おうとはしなかった。
婚姻前から付き合っている恋人もそのまま。私より友人との付き合いを優先する。
やめてと言っても『こちらはそういう文化だから』『これは社交だから』と言い訳ばかり。
私はすべてを捨てこの国に嫁いできたのに、彼は何一つ手放さない。
……狡いわ…、私だけが犠牲になるなんて。
吐き出せない気持ちに私は眠れなくなった。
『…で…、こんな…では…』
『奥様?』
『‥っ……なんでもないわ、下がってちょうだい』
独り言が多くなっていった。
それでも夫は私に寄り添ってくれない。
待っていてはだめなのね……。
私の気持ちを理解できないのなら、彼が理解できるようにしなくては。
だから、私は彼の大切なものを一つずつ壊していった。
私は母国に友人を置いてきた、だから彼の友人を。
それに長年仕えてくれた侍女もここにはいない、だから彼の乳母を。
それから、……たくさん丁寧に壊していった。
『君は狂ってるっ!』
『ふふ、私を変えたのはあなたでしょ?』
だって彼が私の孤独をいつまで経っても理解しないから――してくれないから悪いのだ。
私は正しかったはず。
それなのに離縁され母国に戻ると、私は『憐れな王妹』になっていた。
心無い噂が社交界では流れ、あれほど帰りたいと望んでいた懐かしい王宮も、私にとって心地よい場所ではなくなっていた。
――居場所がない。
家畜のようにあちらへこちらへとやり取りされた挙げ句に、最後には笑い者になった。
王である兄が私に勧める新たな居場所は『年寄りの後妻』という惨めな立場だった。
厄介払いをしたいのだ。
利用価値がなくなった王妹を自分の目に映らない場所へと追いやろうとしている。
いや、いやよっ!
そんなの私に相応しくないっ。
一度目の婚姻で王妹の務めは十分に果たしたから、次は幸せになってもいいはずなのに。
そう、私にはその権利がある。あんなに隣国で苦労したのだ、その分を取り戻すのは当然だった。
――そうでなくてはおかしい。
誰か一人が損をするとしても、それが私である必要はないわ。
そして私は運命の相手を見つけた。
『私には妻がおりますので…』
私が好意を伝えると彼はそう告げてきた。また拒絶されたのだ。
――ギリッ…。
心が軋む音が聞こえてきた。このままでは私は壊れてしまうと思って、必死に踏みとどまろうと足掻く。
いいえ、違う、違うわ。
彼は拒絶したのではないわ、きっと…。
私は必死に愛しい人との短い会話を思い返し、そこに隠されている彼の本心を読み取ろうとする。
誰だってすべてをさらけ出すことはない。
ましてや高貴な身分である私を前にしたら、畏れ多くて話せなかったはず。
だって見たでしょ?あの表情を。とても辛そうに私を見つめていたわ。
あれは『妻さえいなければ、私はあなたの手をこの場で取ったものを‥』とそういう顔だった。
それにあの目は『愛しています、ベルガナ様』と熱く語っていた。
…そう…そうよ。そうに決まっているわっ!
『あなたは彼に愛されているの、ベルガナ』
私は、心の奥で震えている惨めな自分に優しく話しかける。
ほら、もうそんなところで泣かなくていいのよ。
私だけはあなたの味方だから…、ねっ?
誰も助けてくれなかった。
誰も幸せにしてくれなかった。
誰も優しい言葉を掛けてくれなかった。
だから私が自分を幸せにしてあげる。
『ベルガナ、あなたは間違っていないわ。今度こそ幸せになって…』
どこまでも甘く優しい嘘に私は救われる。
嘘か本当かなんて関係ない。本当になれば、些細なことは誰も気にしなくなる。
だって、誰も私のことなんて気にしていない。だからこうなった……。
「ベルガナ、再婚相手のことなんだが…」
兄がまた差し出してきた姿絵には、しょぼくれた老人が描かれていた。私には相応しくない相手だ。
「お兄様。実は私、慕っている方がおりますの。その方には妻がいるのですが酷い女性で、彼は離縁を望んでおりますわ。離縁したら、彼の元に嫁ぎたいと思っております」
「その者は誰なんだ?」
「魔術師のジャルイです。彼も秘かに私を想ってくれておりますの」
兄である国王も将来有望と評されるジャルイの名に満足そうに頷く。
「二人の関係が先というわけではないのだな?」
醜聞だけを気にする兄。
「もちろん、疚しい関係ではございません。お兄様。彼の妻は最低な人なんです、噂も流れておりますから確認してくださいませ。だから先に離縁が決まっていたのです」
……そう、もう噂という嘘は半分は真実になっている。
「物事には順序がありますから、時が来て正式に紹介できるようになるまで温かく見守ってくださいませ。お兄様」
兄はほっとした表情をする。それは私の幸せを喜んでのことではなく、厄介者がいなくなるのと安堵してだった。
ほら、……私が私を幸せにして何が悪いの?
『なにも悪くないわ、ベルガナ。あなたは正しい…』
もう心のなかで蹲っている私は消えていた。
――難しいことはない。ただ優しい嘘を本当にすればいいだけ。