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沈丁花の咲く家  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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ホリーホックホーリー㉛


「俊葵。ここに居たのね…はい!」


洋子が、地元だけで販売されている乳酸飲料のプラスチックボトルを手渡した。


「うん。ありがと、」

「あなた、これ本当に好きね。」

「うん。」

そう言って、プルトップに指を掛ける。幼い頃はいつも洋子に開けてもらっていたが、今は楽々と開けられる。その事にも時間の移り変わりを感じる。


「ヨーロッパに行ったら、しばらく飲めなくなるわね。」

「お母さんが持ってきてくれたらいつでも飲めるよ。」

「馬鹿なこと言って、ふふふ。」

洋子も、同じ飲み物を開栓して、手摺の向こうの海を眺め始めた。



俊葵は再来月、イギリスのアートスクールに入学する事がほぼ決まっている。


添削を受けるつもりで涌井に送り続けていたプリントを、涌井自ら、スイスの“アルル国際フォト”名物、‘フォト フォーリオ レビューに持ち込んでいたのだ。

アルル国際フォトとは、1969年から開かれている写真のアートフェスティバルであり、

フォト フォーリオ レビューとは、写真のセレクションだ。プロアマ入り乱れて、評論家、キュレーターに自らの作品を売り込む。

作品の出来不出来もさることながら、プレゼン力がセレクションの行方を左右する。だから、レビューに本人ではなく、師匠。それもプリントの神、涌井が参加したのは異例中の異例だったと思う。どれだけの視線ーー決して温かいものばかりではないだろうーーを浴びたのかと思うと身が縮む思いがする。


先々週、戒田邸の俊葵の元に、国際電話が掛かってきた。

掛けてきたのは、涌井だと声で分かったのだが、なにせ涌井が興奮していて、何を言っているか分からない。

取り敢えず話してみて。と代わった相手は、パリフォトという写真だけのアートフェアの主催者の一人だった。

アルル国際フォトで、俊葵の作品を気に入った評論家に紹介され、パリフォトで数点展示したところ、その中の一点がパリのフォトミュージアムに買い上げられたのだそうだ。

希望ならばアートスクールに声を掛けてあげるし、ミュージアム買い上げの実績が出来たから、学費無料の上に奨学金が出る可能性もある。というのだ。

電話を掛けて来たのが涌井でなければ、にわかには信じ難い話だ。


願っても無いチャンス。

しかし、これだけは言っておかなければならない。と、俊葵は深く息を吸った。


「私の作品を気に入っていただきとても嬉しいです。アートスクールなど願ってもみない幸運です。ありがとうございます。

しかし、言っておきたいことがあります。私は、最近まで、ある事件の報道でマスコミに追われていました。不名誉な報道もされました。

私が、どちらかのアートスクールに入学したとして、その学校に迷惑がかかる可能性があります。」


しばらく、沈黙が流れた。


「で?」

「は?」

「あなたは、ヨーロッパに来る気が有るの?無いの?」

「あ、有ります!」

「ふふ。よろしい。では、書類を送ります。一度パリに来て下さい。Mr.涌井に代わります。」

最後にまた、ふふと笑われて、電話は、さっきよりいくらか落ち着いた涌井に代わった。


アルル国際フォトでも、パリフォトでも、涌井は本人が来場していない理由、つまり俊葵の抱える事情を最初から、正直に話していたのだそうだ。

むしろ、それをセールスポイントのように使ったらしい。


『彼はどうしてもここに来たかった。だけど、家の前にマスコミは張り付き、通っていた高校は彼を追い出すように繰り上げ卒業を決めた。彼はしばらく、日本国内において、自由に撮影する事も学校に通う事もできないだろう。残念ながら日本はまだそういう国なんです。

しかし、これはあなた方にとって、チャンスです。今なら彼をヨーロッパに呼ぶ事が出来る上に、その才能が花開く瞬間を目撃する事が出来るんですよ。』


俊葵がヨーロッパに渡って後、アルル国際フォトで涌井とセッションしたその評論家を訪ねた際、彼が涌井の熱弁を身振り手振りも情熱的に再現してくれたのだった。



フェリーが速度を落とした。入港の準備だ。

くるりと船の向きが変わる。

風が止み、重油の匂いが甲板に流れ込む。

船は岸壁にピタリと横付けにされ、フワリと止まった。


ターミナルの外には…


「とーしき!」

真っ黒に日焼けした真司が待っていた。

「おー、お疲れ!仕事は?」

「今日明日は休みもらった。」

「そっか。サンキュ、」

「叔母さま。荷物持ちます。」

「あら、ありがとう。」


そして三人が歩き出すと、レンタカーの運転席から出て来たのは、


「まあまあ、西崎さん。ありがとうございます。」


「いえ。どうぞ。」

と言って、後部座席のドアを開けてにっこり微笑む。


「またぁー、西崎さん。議員秘書のクセが抜けてないんじゃないの?」

後部座席の反対側に乗り込み、俊葵が揶揄うように言うと、

西崎は、

「今も秘書ですから。」

ルームミラー越しに、口端を引き上げた。


あれから西崎は、正式に橋本 幸一参議院議員の公設秘書を辞した。

幸一は自らの非を認め、西崎に謝罪し慰留したというが、西崎はそれを固辞したらしい。


そして以前から誘いを受けていた糺の会社に秘書として入社したのだった。


「秘書さんに、ウチの片付けを押し付けてしまってすみません。」

洋子が謝ると、

「いえ。片付けを申し出たのは私の方ですし、私の仕事始めは、()()()に関わる事だと決まってますから。」

と言って西崎は、はははと笑った。


「確かに、」

洋子と俊葵の声がハモった。

その上、笑う西崎も、ジャージの西崎も中々のレア物で、洋子と俊葵は思わず顔を見合わせて笑い合った。


程なくして車は、島の頂上の橋本家に到着した。


「今座っちゃったら根っこが生えちゃうわ。」

洋子は、荷物の中から線香を取り出した。


シキミの束を抱えた西崎を先頭に、四人が急な斜面を墓所に向かって下りていく。

真司がささっと、暮石の埃を払うと、俊葵が花活けから枯れたシキミを抜き取る。


「あら、私たちが来る前にどなたかお参りしてくださったのかしら?でも、このシキミの枯れ具合、最近でもなさそうね。」


「ああ、それは深見先生ですよ。ほら朱子さんは、深見さんの教え子だったから、」

西崎が言った。


「ああ、そうでしたわね。」


洋子が手提げの中から、ミカンや干菓子を取り出す。

俊葵は、ポットからお茶を注いだり、ミニサイズの日本酒の瓶を開けるのを手伝ったり忙しい。


その様子を見ながら西崎は、深見の事を思い出していた。


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