神様の飛び石②
その日の晩のまだ早い時間、飛行機はシドニーに向かって出発した。
事故現場に一番近いというキャンベラ空港には関空からの直行便がないためらしかった。
葵は、片時も俊葵の側を離れなくなっていた。
飛行機の待ち時間のためのホテルでも、ベッドに一人で寝たがらなかったので、俊葵が添い寝をしてやったほどだ。
機内では、どうなることやらと思っていたが、
離陸時、俊葵の手をぎゅっと握っていた葵は、巡航になると通り掛かったCAに毛布の追加を頼み、あっさりと体を丸め眠ってしまった。
俊葵は出国する前の祖父と西崎の様子を思い浮かべていた。
渋面を浮かべたままの祖父に、相変わらず能面のような西崎。二人は何かを知っているのだ。知ってて言わないのだ。
祖父は、何も無駄なことをしない。無言でいる事ですら意味を成す。という事は・・・
ん、むにゃ、
葵が小さく唸り、体の向きを変えた。するり、肩から毛布が足元に落ちる寸前に掴かみ、かけ直してやる。
俊葵はシェードを下げて外を見た。下は厚い雲に覆われていて何も見えない。首を捻るようにして上を覗けば、星が無数に瞬いているのが見え、暫し、息をするのも忘れて見入っていた。
あとどれくらいで着くのかな?と考え、時計を探す。すぐに自嘲が漏れた。
ーー現地に着けば何か明るい展開が待ってるとでも思ってる?ーー
ため息を一つ吐き俊葵は、しばしの惰眠をむさぼる為目を閉じたのだった。
シドニーに到着してみると、別の便を迎え入れた直後だったらしい空港ターミナルは、さながら日本の地方空港のようだった。時間が時間なだけに、疲れは見えるものの、乗客からは楽しそうな雰囲気が伝わってくる。
一方、入国審査の列に並ぶことなく、物々しい男達に連れて行かれる俊葵達一行との対比は際立っていて、物珍しさから容赦ない視線が浴びせ掛けられた。
俊葵はその不躾な眼から葵を守るように、脱いだ上着を頭に被せ、前を歩く祖父と西崎の背中に着いていく。
夜半過ぎという時間もあり、一旦ホテルに入ることとなった。搭乗中ずっと眠っていた葵を、はじめは西崎が抱き上げようとした。しかしとても嫌がったので、代わりに俊葵が赤ん坊の縦抱きのように抱えている。
人を抱きかかえるのは初めてだったが、身長が170㎝を超えていた俊葵が140㎝強の葵を抱えることは造作も無かった。
俊葵と葵は、大人達とは別の部屋を与えられた。
本当は俊葵も大人達と一緒にいて、その話が聞きたかった。しかし、俊葵がそこに行くということは、葵も同席するということだ。
そうなれば、決定的な知らせを心の準備もなしに聞かせることになるやも知れない。情報は欲しいが、それにも増して、葵のメンタルが心配だった。
その時、控え目のノックが響いた。
横たわった葵が目を覚ましたかどうか確認すると、スゥーと変わらない寝息を立てたので、ほっとしてドアに急ぐ。
覗き穴の先に居たのは、さっき空港に出迎えてくれた女性だった。
「葵ちゃんの様子、どうかしら?」
俊葵が黙って頷くと、女性はにっこり笑う。
「じゃあ、葵ちゃんの分は目が覚めたらね。これは俊葵君の分。」
と言って、手にしたトレーからそーっとラップを除けた。
出てきたのは、海苔に包まれた大きなおにぎりが3個。
俊葵は驚き、思わず、ふくよかで羽二重餅のような頬をした女性の顔をじっと見た。
女性は、少し顔を赤らめて、
「ホテルに頼んでおいたの。シドニーは日本人も沢山住んでて、訪れる日本人観光客も多いから、日本食を出すホテルもレストランも多いのよ。味は日本で食べるより、落ちるかもしれないけど、外国で故郷の味をいただくとホッとするものよ。さ、食べて食べて、」
と言って、トレーと共にぶら下げてきたポットから、ほうじ茶を注ぎ始めた。
考えてみれば、搭乗前も搭乗中も飲み物ばかりで、固形物を口にしていない。俊葵はペコっと頭を下げると、おにぎりに噛り付いた。
女性は、黙々と食べる俊葵にニコニコとしながら、葵の様子にもさり気なく目を配っている。
「あのぉ〜、あなたは父の…知り合い…ですか?」
手にご飯粒を付けた俊葵のために、分厚いタオルをお湯で絞ってくれながら、女性は舌を出した。
「いいえ。直接には存じ上げないわ。
あらら、まだ名前も言ってなかったわねぇ〜申し遅れました。私、井上 沙織と言います。シドニーの総領事館にいるのよ。」
俊葵は目を丸くする。
「総領事館勤めって、外交官ですか?」
「あ、今こんなおちゃらけた感じの人が?って、思ったでしょ!」
といたずらっぽく笑っている。
今度は俊葵が顔を赤らめる番だった。
「んー、半分正解で半分不正解だな。外交官におちゃらけた人はいても結構なの。うちの大使なんて、安来節が外務省 一上手いし、」
「…やすぎぶし…」
俊葵は言葉を失った。
スマートな大人の代表のような外交官が頬っ被りで、着物を捲り踊っている・・・
「後の半分は、ブッブー!私は外交官ではありません。理事官なの。父が貿易会社の海外駐在員でね。私は子供の頃の大半を海外で過ごしたの。外国語をいくつか覚えたのはその時。高校生の時に日本に戻ったけど上手くいかなくてね。だから外務省に入ってまた国外に出たのよ。」
そう言ってちらっと俊葵の顔を見遣る。
「そうですよね。日本は違いを受け入れにくい慣習っていうか文化っていうか、」
コクコク、井上が頷く。
「俺はこんな見た目ですけど、日本を出たのは今回が初めてなんです。」
井上は目に見えて驚いている。
「父は海外の報道関係の仕事で、小さい頃から父の話し相手で、俺も葵も英語は難なく使えるんですけど、」
大きく頷きながら訥々《とつとつ》と話す俊樹の話を聞いている。
「こんな見た目でなければ、しなくて済んだかなって経験は割としてると思います。」
「うんうん。」
「それに、必要以上に日本人らしく振る舞おうとしてしまうというか、」
「そうそう。私、お茶やお花や日舞ができれば良いのかと思ってお稽古事やりすぎて倒れたこともあったな。」
「ふふ、」
「あ、笑ったな!」
井上はウサギのような口角をさらに上げて嬉しそうに言った。
「あ、すみません。俺も似たようなことあったんすよ。体も大きい方だし、喧嘩を売られることも多くて、柔道や合気道や…」
「そっか。性格に合わなかったんだね。格闘技、」
俊葵が黙って頷く。
「で、今は?」
俊葵のカップにお代わりを注いでくれる。
「誰とも話さなくても良いし、喧嘩吹っかけてくる奴の事は大人に言い付ける。って開き直ったら、上手くいってるって程じゃないけど、ラクにはなったかも、」
「ウンウン。俊葵君は、自分で切り抜けてすごいすごい!私は海外って殻に戻っただけだからさ、」
その井上の言葉に、俊葵はブンブンと首を振る。
「そんなことないっす。自分の向いていく方向を見つけて歩いている人が殻に戻っただけなんてことがあるはずないっすよ。」
井上は目を見張った。
その目がじわじわと潤み始める。
それを見て俊葵は慌てた。
目尻を曲げた人差し指で拭いながら井上は、
「うわぁ、なになに、私感動してる。ティーンエイジャーに励まされて感動してるよ!」
と言い、テヘヘと笑う。
「俺も感動してるっす。女性泣かしたの初めてだから。」
俊葵が言うと、井上は頭を叩く仕草をし、俊葵が頭を押さえるというやりとりが続く。二人はまた、顔を見合わせて笑った。
それから井上は、葵がまだ目覚めないのを見ると、今の間に少しでも寝るほうがいいと言って、葵の毛布をかけ直し、出ていった。
俊葵は思いがけない打ち明け合戦と笑ったことで気持ちが軽くなり、短時間ながらも深い睡眠を取ることができたのだった。
次の日の朝、と言ってもシドニーに到着した時には既に日付けは変わっていたから、同じ日の夜明け前と言うべきか、に、俊葵達一行は、事故現場とされるスノーウィー山地へと向かった。
領事館が手配した小型観光バスの窓際に陣取った葵は、新芽芽吹く木々越しに上ってきた朝日に見入ったり、果てしなく続く柔らかな緑に覆われた草原のあちこちに、色粉を振りまいたような場所を見つけると、「あ、お花畑…」と呟いたり、「ね、カンガルーとかワラビーとか見えないかな?」と、話し掛けてきたり、普通どころか、いつもよりはしゃいでいるようにさえ見える。
俊葵の方は景色を愛でる気にはとてもなれなくて、だからといって変にテンションの高い葵の相手は到底務まりそうもなく、辟易としていた。
トイレの休憩のために寄った、コーヒーショップが併設されたガソリンスタンドで、ため息を漏らすと井上は、「じゃ、席替えね。」と言って葵のトイレに同伴し、戻ってきた頃には、まんまと葵の信頼を勝ち得ていた。
俊葵は、二、三列後方の井上の席に移り、目を瞑ったり、機械的に車窓を眺めながら、
安心して、というのもおかしいが、葵の反応に気兼ねすることなく物思いに沈むことが出来た。
シドニーから、スノーウィー山地の山々を巡るトレッキングコースの入り口までは500kmもあるとの事だった。
500kmといえば、俊葵の住む町から富士山までの距離にほぼ匹敵する。
スノーウィー山地の辺りはスキーリゾートだと聞いた。そのスキーも先週からオフシーズンに入ってしまい、使える公共交通機関は何もないと言う。
バスが急にスピードを落とした。
昨夜の大雨のせいで路面が滑りやすくなっているのだそうだ。
春の初めによく雨が降るのは俺のせいじゃねぇ〜と、ドライバーが見事なオージー訛りで怒鳴った。さすがに笑う者は居なかったが、少しばかり空気を緩める効果はあったようだ。
窓の外では平和に途切れることなく、紺色を帯びたような緑の細長い梢が折り重なるように見えている。それは東山魁夷の山の絵にも似た不思議な色で、『ああ、あれはユーカリよ。』と、休憩の際に井上が教えてくれた。
コアラがユーカリの葉しか食べないことは俊葵でも知っている。もしかしたら、と、梢と梢の間に時々目を凝らしていた事は誰にも言わないことにする。
コツ、パタ、コツ…
リズミカルとは言い難い音で目を覚ました。
乗り物で俊葵の眠りは浅い。その聞き覚えがある音に眉を顰めた。
きっと、前から二列目に陣取っている幸一が貧乏ゆすりをしている。
皆は、さも、それが聞こえないかのように振舞っているが、そんなはずもない。
外国の、こんな密室空間でも、幸一はやはり幸一だった。
バスのエンジンが更に唸りを上げた。
徐々に勾配がきつくなってきたようだ。
ーーようやく、山らしくはなってきたか、山梨や長野のような驚くような高さの峰には程遠いけど…
トレッキングって、気軽な山歩きのような意味合いだったはずだから、これから行く所もこの程度の高さの山なんだろう。山梨や長野のような山なら、登山、えっと、クライミングだな。
トレッキングコースってからには、整備された山道のようなものなのかな?
それにしても、俺、父さんから登山や山歩きの話を一度も聞いたことがない気がするーー
ジャーナリストを生業とするだけに、一葵は人一倍好奇心旺盛な男だ。もし今までやったことがあるなら、得意になって、俊葵や葵に話して聞かせていただろう。
スノーウィー山地の麓の町スレドボに着いたのは、日も傾きかけた頃だった。
ーーん?トレッキングコースに向かっているんじゃなかったのか?ーー
風景に人工物が混ざり始めた一時間ほど前から、俊葵は違和感を感じるようになっていた。
ところが、そう感じているのは俊葵だけのようで、車内はむしろ落ち着いている。ふいに、通路を挟んだ席にいる大使館員の男性と目が合った。が、慌てたように向こうを向かれてしまった。
その不自然さに、さすがの俊葵も気付く。
何か、予定を変更するだけの情報がもたらされたのだという事に、