ダフネに捧ぐ⑯
「二人とも遅かったわね。西崎さんがお待ちかねよ。」
洋子が明るい声で言った。その声が出せるのは、今日俊葵の身の上に起こった出来事を洋子が知らないからだ。そう考えると俊葵はまた気が重くなった。
すると、糺が俊葵の横っ腹を肘で小突き、
「ほら、また人の立場になって!」
と耳打ちしてきた。
「う、うん…ごめん。」
俊葵が謝ると、
「そうじゃないだろう?」
と囁くや糺は、
「ああ、警察に尾行されててね、西崎さんがウチに来るのをあの人達に知られたくなかったもんだからさ、時間差で帰って来たんだよ。」
と、ありえない内容を洋子に向かい、通常会話の音量で喋ってしまった。
「なん、てこと…叔父さま、もっと言い方が…」
俊葵が抗議するも、
糺は聞かず、洋子も大して動じず、洋子も「あら、そうだったのねぇ〜」などといつもの笑顔で、スタスタと廊下を歩いていった。
俊葵は首を傾げながら後をついて行く。
西崎は、ダイニングで夕食を取っていた。
俊葵も糺も二神の事務所から直接帰って来たので腹が空いていた。お互いペコリと頭を下げるだけの挨拶をし、それぞれの食事に専念し始めた。
俊葵が西崎に会うのは、葵の中学入学の際に書類やお祝いを届けてくれて以来だから、四年ぶりになるだろうか。
その時から痩せ型だった身体は更に細く、痩せたと言うよりは窶たと言った方がしっくりくる。
食事を終え、食後のコーヒーを待つ間、俊葵は糺と話す西崎を観察していた。
「…それじゃあもう、お義兄さんの所には?」
「ええ。荷物は今日引き払いまして、」
「えっ、西崎さん、祖父さんの秘書辞めるんですか?」
西崎は頬を引攣らせ、コクリと頷いた。
「公設秘書なので、すぐにというわけにもいかないのですが、先生のお宅にいただいていたお部屋を出るように言われたので、取り敢えずそちらを先に、」
「なんてひどい、」
それを聞いた西崎はまた寂しそうに笑った。
「まあ、それは…」
「良いに付け悪いに付け、我が家は国会議員の身内です。何を話してもこの家から外に漏れないことは西崎さんもご存知でしょう。 よかったら、何があったのか話してもらえませんか?」
糺がそっと膝を詰めた。
「ええ。戒田社長には、二神もお世話になっている事ですし、もちろん信頼しています。」
西崎はコーヒーを置いた矢野に頭を下げ、
「しかし…」
とまた、言葉を濁す。
「良いに付け悪いに付けと申し上げたでしょう?橋本 幸一の身内だからこそ言ってるんですよ。悪い話も良い話と同じくらい大事だと思ってます。なあ?俊葵、」
俊葵は頷いた。
「そうですよ。西崎さん。私は橋本 幸一の実の妹ですけれど、周りのおべっかや煽てにはもう、反吐が出そうなんですの。」
洋子が目をきょろりとさせて剽げた。
糺がこんな仕草をしたのを前に見たことがある。その時も確か誰かの元気がない時だった。
塞いだ様子の西崎を和ませようと、咄嗟に同じ仕草をする洋子と糺は、本物の夫(婦)唱婦(夫)随なのだなと、俊葵は思った。
「フフフ、分かりました。どうせ辞めるんだから、って事ですね。」
西崎は自虐的に笑って、辞める決心をした経緯を話し始めた。
西崎が、幸一の異変に気がついて二年弱。最近、特にここ一年ほどは、国会議員の公設秘書らしい仕事はほとんど与えられておらず、つい二週間前まで、来年アメリカの高校に留学を予定している葵に付いて、一週間ほど渡米していた。つまりそういう仕事しかさせてもらえていない。
「まあ、あーちゃんの留学も初耳で驚いたけどね。失礼だけど、西崎さん英語できたっけ?」
「いいえ。恥ずかしい話ですが、」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないよ。僕も英語は苦手だしね。つまり、英語ができない人をわざわざアメリカにやるって、お義兄さんはどういう了見なのかと思いましてね。」
「それはその…当てこすり…なんじゃないですかね。」
そう言葉を詰まらせながら言う西崎の口元は微笑んでいるが、きつく握られた拳が細かく震えていた。
「当てこすりねぇ。そんな訳ない事ぐらい西崎さんには分かってるでしょ?
さっき自分で言ったんじゃない。お義兄さんの様子がおかしくなった時期、二年半位前だって、それなら原因にも心当たりありますよね?」
それを聞いて俊葵は思った。糺はとても用心深い。
辞めるつもりだと言ってはいても西崎は未だ幸一の秘書だ。ここで話された事をいつ幸一に話してしまうかも分からない。
糺は、高峰 稀世果の死に、幸一が関わっている可能性を捨てていないし、幸一が俊葵を嵌めた蓋然性もあると思っている。
だからいま、得意の話術で、西崎を追い込み、西崎自身の口から高峰 稀世果の名前を引き出そうとしているのだ。
「フフ、僕は仕様もない人間だ。妬んでいると思われたくないから、どんなに先生に疎まれても辞表を出さなかった…」
またも西崎は、自らを嘲るように笑った。
それが痛々しく、誰もが無言でその様子を見守っている。
「先生が僕を遠ざけ始めた二年半前…一致する出来事は一つしかない。
そう、高峰 稀世果です。」
西崎はそう言って顔を上げた。目尻が少し光っている。
矢野を含めた戒田家四人は、その笑顔の退廃的美しさに息を呑んだ。
「ありがとう西崎さん。よくぞ話してくれました。
これは是非にもあなたの口から聞かねばならない話だった。」
糺が手を伸ばし、西崎に握手を求めた。西崎は薄く笑ってその手を握り返す。
手に力を込めたまま、
「僕の話も聞いてもらえますか?」
糺は、西崎の目を覗き込んだ。
「フフフ、橋本 幸一の周りの男達はどうしてこうも強引なんでしょう。分かりました。聞きましょう。でないと手を握り潰されてしまいそうだ。」




