神様の飛び石
「橋本君。すぐに荷物を纏めて、私に付いて来て、」
午前中の授業が終わったばかり、喧騒のピークにあって、日頃は温厚な担任教師の声がなぜかよく響いた。
一瞬教室がシーンとする。
今、この、ふっくらとした女性教師にその理由を問いただすよりも、なるべく早く言われた通り教室を離れ、その道すがら理由を聞く方がいい。俊葵はそう判断し黙って頷く。
心配そうに声を掛けてくる友人達に後で連絡するとあしらいながら、俊葵は教室の後ろの個人ロッカーの扉を開いた。
担任と二人して廊下を急ぎながら告げられたのは、父親が事故に遭ったということ、迎えの車が校門前まで来るという事だけだった。
俊葵は中学生が一人で受け止めるにしては重い情報を、警戒を解かないように気を付けながら聞いていた。
俊葵は曲がりなりにも代議士の孫である。身内に不幸が有ったと騙る誘拐の可能性をほんの小さな頃から言い聞かされている。
ーーむしろ、そうであった方が・・・ーー
俊葵は、玄関の土間に叩きつけるようにして取り出したローファーに、半分足を突っ込んだまま走り出した。
俊葵の、そんな淡い期待はすぐに打ち砕かれた。
祖父である地元選出の参議院議員、橋本 幸一が迎えの車の後部座席に収まっていたからだ。
息急き切って俊葵に追いついた担任教師は、滅多に見ない地元の有名人に恐縮至極だった。
後部座にはもう一人、途中の小学校で拾われた葵が小さい体をさらに縮込めて座っている。
ドアが閉まると車は音もなく走り出した。
「お兄…ちゃん…」
俊葵の顔を見あげると、葵はシクシクと泣き始めた。
泣きたいのは俊葵とて同じだったが、前座席の二人と祖父の存在がそれを食い止めてくれた。俊葵はただ、葵の背中を摩り続けた。
「俊葵さん。今日これからの事をご説明します。」
滑らかに走る車の助手席から静かな声がした。この男には何度かあった事がある。幸一の秘書で西崎と言った。痩せ型で顔に表情というものが無く、人好きの俊葵でもこの男は苦手だった。
「はい。」
俊葵が答えると、西崎は前を向いたまま、よろしいとばかりに頷き、パラリと手帳をめくる。
「一葵さんが事故に遭われたのは、旅先のキャンベラ郊外です。先生と葵さんと俊葵さんと私は、これから関空に飛び、シドニー直行便に乗ります。」
「ちょ、ちょっと待って…俺も、葵もパスポートなんか持って…」
その時、隣の葵が俊葵の詰襟の袖口を引っ張った。
「お兄ちゃんお兄ちゃん、パスポートならあるよ。お父さんが作ってくれたじゃない!それよりねぇ〜キャンベラってどこ?」
「キャンベラはオーストリアだよ。そうか、パスポート…そうだな。」
そう言うと俊葵は、弾力のある厚いシートに背中を預けた。
世界中を仕事で飛び回っている一葵だが、観光旅行はほとんどした事がないそうで、さらに珍しいことに、今回は俊葵と葵を誘ってきていた。
ほとんど行く気になっていた二人だったが、結局その家族旅行は幻に終わった。
今は島を離れた二人が身を寄せている、大叔母の洋子が二人の帯同に猛反対したのだ。
一葵にしては粘り強く説得を続けていたが、洋子の固い意志を覆す事ができないと分かると、「そっか、」と引き下がり、その後は音沙汰が無くなった。
出発日も、旅行先も、俊葵と葵には知らされてはいなかった。
空港に着くと、俊葵達は応接室のような所に押し込まれた。たちまち数名のスーツの男達が神妙な顔で訪れ、二、三言幸一や西崎と言葉を交わすと早々に退散していった。
出されたお茶に手を付けないのも悪いかと、思い始めた頃、大叔母の洋子が俊葵と葵の荷物を持って現れた。
「俊ちゃん、あーちゃん!」
二人の顔を見るなり、洋子は膝を折って抱きついてきた。
洋子の体の温かさに、俊葵は初めて目頭が少しだけ熱くなるのを感じる。
その抱擁は、幸一の冷徹とも言える声が掛かるまで続いた。
「洋子、時間が無い。頼みたい事を説明する。」
グスッ、
鼻をすすりながら、洋子は頷いた。
・・・向こうから逐一状況を報告するからそれに沿って動いて欲しい…二人の学校への届け出…あるいは万が一・・・
そんな事が、大人の間でぼそりぼそりと話し合われていた。
コンコン、
ドアがノックされた。
「そろそろ時間です。」
西崎が腕時計に目を落としながら言った。
「あ、これこれ、」
洋子はハンドバックから二人分のパスポートを取り出し、西崎に手渡した。
「たしかに。お預かり致しました。」
「二人をよろしくおねがいします。」
洋子が深く頭を下げる。
西崎も無言で頭を下げ、手続きのために部屋を出て行った。
「パスポート、洋子叔母さまが預かっててくれたんだね。」
俊葵が呟くと、
「ええ。一葵からパスポートの手続きを頼まれていたのよ。そのまま一葵に渡さなかっただけ。」
そう言って洋子は涙と化粧でぐちゃぐちゃになった顔で小さく笑った。
こんにちは。新井 燃え香です。
去年から今年にかけてのオーストラリアの大火と大雨、心を痛めております。
この章を書いている時、まだ火事のことを知りませんでした。
書き続ける事を随分迷いました。投稿するのも迷いました。
それでも私の心にあるのは、緑豊かな山脈と、青い海と、赤褐色の大地です。
だから書きました。
心にあればいつか復活する。そう信じています。
楽しんでいただけると嬉しいです。