ダフネに捧ぐ②
「高峰 稀世果が、」
洋子はそう言ったまま口を閉じるのも忘れ、視線を彷徨わせている。
糺は洋子の背中に手を回し、トントンと軽く叩いてから、俊葵に目配せしてきた。
俊葵も糺も、波間の泰斗に下されたお告げと、高峰 稀世果を直接結びつけるのもどうかと思う程度には理性の勝った思考回路の持ち主だ。高峰 稀世果を端っから警戒対象としている洋子との間には温度差が否めない。
「何やってんだあの祖父さん、暇か、」
俊葵が呟く。
「まあ正直、僕もそう思ったな。あ、ありがとう矢野さん。」
矢野が湯気の立つお茶漬けを運んできた。
「お食事召し上らなかったの?」
洋子が不思議そうに聞いた。
「ああ、何を食べたのかさっぱりだよ。家に着いたらいきなり腹が鳴ってな、矢野さん済まないね。」
と、糺は照れたように笑う。
「いいえ。直ぐにできるものですし…あの、お話の邪魔になってもいけませんから、私はこれで、」
そう答えながら、矢野らしく控え目に退座を申し出た。
またもや珍しく糺は、
「まだ起きていられるなら、矢野さんにも話を聞いて欲しいんだ。いいかな?」
と、普段見せない押しの強さを発揮した。
「は、い。私は大丈夫ですけれど、奥さま、よろしいんですか?」
「もちろん。むしろ一緒に聞いて欲しいわ。あなたは家族ですもの。」
「奥様…」
矢野は洋子の隣に座り、洋子の手を握った。
「今日の会食は僕が声をかけたんだ。あーちゃんに会おうにも中々会えないし、じゃあ、あーちゃんをお義兄さんに連れてきて貰おうと思ってね。」
三人が頷いた。
「忙しいお義兄さんを出汁に使うのもどうかと思ったけどね。断られるのを覚悟で頼んだら快諾さ。まあ、それだけ見ても僕の方に分は無さそうなもんだけど、それでも、あーちゃんの意思は確認しないとと思ってさ、」
そう言って、サラサラとわさびとほうじ茶の香り高い茶漬けを啜る。
「全く、お義兄さんの神経を疑うよ。そんな場に他人を、ましてや子供を連れて来るなんて…」
ふぅ、
茶漬け椀を傾け、残りを流し込んだ糺は、
「結論を言うと、養子の件、あーちゃんには断られた。」
と言うと、はははと乾いた声で笑った。
「ああ、」
洋子が悲しげな声を上げた。
矢野が、倒れ込んできた洋子を抱き留める。
「それと、
あーちゃんは本島の中学校に転校すると言っていた。東京の高校を受験する準備だそうだ。」
と、糺はけろりと付け加えた。
「あーちゃんは、お義兄さんの後を継ぐ事に乗り気だそうだ。お義兄さんの手前、そう言うしか無いだろうとは思ったよ。最初はね、だけど、俊葵が心配してるって伝えた時に、」
矢野がほうじ茶を入れて配ってくれた。
それをズズと啜ると、
「あーちゃん、『叔母さまと叔父さまにはずっと可愛いがってもらったのに、裏切るみたいで言えなくて、お兄ちゃんが島に戻りたいと言った私のために進路を通信制にしてくれたのを分かってるから言い辛かった。お兄ちゃんには、一緒にお祖父さまの家に、って言おうと思っていた矢先に、叔父さまの養子になる話をされて、自分のことは棚に上げてかーっとしてしまったの。』って、そこまで言われるとさ、」
と吐き出すように言った。
「一緒に、って思ってくれたんだな。葵…」
俊葵が外連味のない内心をそっと漏らす。
洋子が、うっと唸り泣き出した。
糺は緩く首を振り、
「少なくとも、僕に話していた後援会とのやり取りのことは、あーちゃんには話していないみたいだった。それを聞かされていたら、一緒にお祖父さまの家に、なんて言えないだろう?」
自分も辛いだろうに糺は俊葵を気遣わし気に見てくる。
俊葵は、口の端を懸命に吊り上げ、それに応えた。
ここにいる誰しもがその結果を予想していた。ショックがないと言えば嘘になる。しかし、いきなり葵に避けられ混乱していた状態に比べれば、葵の意思らしきものが出てきて、ホッとしたというのが正直なところだろう。




