ダフネに捧ぐ
『いい香りだね。あの香りを辿ったら僕ね、目を瞑ってたって行けちゃうよ。
えーと、なんて言うんだっけ、あの花、じーん…じんちろ…』
幼な子のたどたどしい口調に、一葵の顔が綻ぶ。
『沈丁花だよ。じ、ん、ちょう、げ。』
『じーんちょ、げー、」
『あはは、俊葵には言い難いんだね。じゃあ“ダフネ”って言うといいよ。英語で、沈丁花の事だから。』
『うん!だふねー、だふねー、』
一葵はくつくつ笑いながら俊葵を抱き上げて少し歩き、芳香を放つ木の前で下ろしてやった。
俊葵は枝を掴み、その薄紅色の花弁に鼻を寄せている。
大好きな海、新しい家、綺麗な庭、何にも増して、大好きな父がそこに居る。日頃は大人しい俊葵もこの日ははしゃいでいた。
「俊葵、父さんは家をしばらく留守にするよ。いい子でお留守番できるかな?」
膝を折り、飽きずに花で遊んでいる俊葵の目線に下りて一葵が言った。
「また、おしごと?」
「そうじゃないけど、仕事よりずっと大事なことだ。とてもとても大事な・・・」
聞いているのかいないのか、俊葵は自分のハーフパンツのポケットを探り始めた。
「あ、あった!」
一葵の目の前に突き出された拳に中にあったものは、
「キャラメル?」
コクン、
俊葵のアーモンドのような大きな目が悪戯そうに細められた。
「父さんにくれるの?」
コクン、
「でも、叔母さまには内緒だよ。」
「なぜだい?」
「お風邪引いた時にね、矢野さんがくれるの。お薬飲めて偉いですね。って、でね、奥様には内緒ですよ。シーって、」
さあ、早く包み紙を剝け、と俊葵が見つめてくるので、一葵は苦笑いしながら、少し柔らかくなったキャラメルを口に放りこんだ。
「美味しいね。」
一葵が言うと、俊葵は嬉しそうに笑った。
「うん!後で矢野さんがキャラメルくれるから、僕、お薬飲むの嫌じゃないよ。父さんも頑張ってお薬飲んだからね。だからご褒美!」
一葵は苦笑いした。
「あれ?父さんお薬飲んだんじゃないのぉ?」
「いや、これから飲むところだったんだよ。」
そう言って勢いよく俊葵を抱き上げると、肩の上に乗せた。
きゃはぁー、
俊葵が歓声を上げる。
「ありがとう俊葵。お陰で元気が出たよ。大きなお土産持って帰るからな。」
くすくすくす…
俊葵は、笑っている自分の声で目が覚めた。
ーー夢?
にしては随分とリアルな・・・俊葵の薄れかけた記憶の断片を埋めるような夢だった。
沈丁花に、薔薇に、父さんの匂い…
あの後父さんは長い間帰って来なかった。子供だったから時間の感覚は無かったけど、確かにあの時沈丁花が咲いていたのに、父さんが帰ってきた頃には島のミカンが色付いていたっけ、
それほどに長い間父さんが帰って来なかったのは初めてで不安だった。
そして父さんが持って帰った大きなお土産は・・・ーー
「葵…」
あれから糺は忙しい社長業をやり繰りして二度も姫島にやって来たが、結局葵には会えなかった。
糺が島に来る日葵は、学校帰りに本島の橋本家に行ってしまい、そうかと次の日糺が、橋本家を訪ねると、その日は姫島の家に居るというタイミングの悪さだった。
それを糺から聞いた洋子は青い顔で、『稀世果だわ。稀世果が葵を操っているのよ。』と呟き身体を震わせた。
糺によると、あれから洋子は自分を責めてばかりで落ち込んでると言う。話してやってくれと言うので俊葵は昨夜洋子に電話を掛けた。
『あの時のあの村長の電話を私が取っていれば、』
「もう済んだことを言っても仕様が無いよ。」
『でも、私が転校のこと相談に行かなければ村長もそんな電話して来なかった訳だし、ああ、やっぱり全て私が…』
「叔母さま、自分を責めるのはもう止めてくれよ。それを毎日聞いてる糺叔父さまの気持ちにもなってみろよ。葵のことに関しては、深見教授にも相談してるから。ね?」
『そうね。ごめんなさい。俊葵も仕事で疲れてるのにね。』
「ううん。もう配達はバイクでできてるから、そんなに疲れないよ。叔母さまが免許取らせてくれたお陰だよ。」
『まあっ、この子ったら。今週末はこっちに来るの?』
「ああ、行くよ。また泊めて。』
「ええ、待ってるわね。』
俊葵がスクーリングに行く頃を見計らって、葵が『橋本家に泊まる。』とメールをしてきて、洋子が啓子に確認の電話を入れるというルーティーンが出来、週末を俊葵が戒田家、葵が橋本家と分かれて過ごすのが当たり前のようになってしまった。
その日、俊葵は早々にベッドに入っていた。
寝る前にカメラ雑誌を読み更けっていると、部屋のドアが遠慮がちにノックされた。
「俊葵、起きてるならちょっとお茶でも飲まない?糺さんが帰って来たの。」
糺にしても洋子にしても、一旦部屋に引っ込んだ俊葵を呼び出すとは珍しい。
「行くよ。」
俊葵はリビングに向かった。
「やあ、起こしちゃったかな?」
台詞は軽やかだが、糺の声は浮かない。
「ううん。雑誌読んでたんだ。」
「暗室を作る計画は進んでるかい?」
「一応。流しとか蛇口とかパイプとか水回り品は、解体する家があったりするんで手に入りそう。工事は、俺がバイトするって交換条件で、同級生の父親の工務店の職人さんにやってもらえそうなんだ。」
「おお、それは随分と進んでるなぁ。」
糺は自分のことにように喜んで、ネクタイのノットを緩めた。
「叔父さま。そんな話したいんじゃないでしょ。」
「ああ、うん。」
糺は、洋子に差し出されたグラスの水を一気に飲み干す。
ふぅ〜
息を吐き、糺正面に腰掛けた俊葵を見据えた。
「今まで、お義兄さんと会ってたんだ。」
「あら、珍しい。」
洋子が間の手をいれる。
「珍しいなんてもんじゃない!」
普段そんな吐き捨てるような言い草をする糺ではない。それだけの事があったのだと、
俊葵と洋子は目を見合わせた。
「相手はお義兄さんだけじゃなかった。聞いて驚かないでくれよ。そこには、あーちゃんが居た。
そして、高峰 稀世果が居たんだ…」




