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沈丁花の咲く家  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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違う名前③

一ヶ月ぶりの本島。俊葵は、オーブンに焼かれているような熱気と出所不明の騒々しさに出迎えられた。今日の予定を終えて、ターミナルでバスを降りた俊葵はもう、島に帰ることしか考えられなくなっていた。


本当に忙殺された一日だった。郵便局のバイトと家事と勉強、日頃忙しくしている俊葵だが、今日は、月に一度のスクーリングに自動車学校の入学手続と、違う種類の用事をこなし、気疲れがしていた。

時計を見る。港に向かう電車やバスの時間を逆算しても、まだ少し時間があるようだ。

取り敢えずどこかで冷たいものでも飲もう。俊葵は目に付いた喫茶店に向かって歩き出した。


昔ながらのその喫茶店には、一葵や洋子に何度も連れて来てもらった。数年前に改装され、オーナーも代替わりしているが、俊葵にとって懐かしい場所には違いない。

先代に面差しの似た四十代後半のマスターに、アイスコーヒーとサンドイッチを頼み、俊葵は、ワインカラーのベルベットが貼られた椅子にどかっと腰を下ろした。

生のミントの葉が浮かぶグラスに口を付けながら、店内をぐるっと見渡す。

壁の絵がとても個性的なのに気が付いた。


「この絵がお気に召しましたか?」


声の方に視線をやる。カウンターに一人だけいた客が俊葵を見ていた。

その口ぶりからすると、客ではないのかといぶかっていると、


「これ、全部僕の絵なんですよ。」

と言いながらその男は俊葵の方に近づいて来た。


「あ、そうなんですね。」

俊葵は、背後の壁に掛かった犬の絵を体を捻って眺めた。


その絵の犬は写実的というよりはデフォルマシオンといった具合で、絵をあまり見たことがない俊葵には上手い絵だとは思えなかった。それでも、飄々とした犬の表情は犬というより人そのもので、何やら魅入られるものがある。いつまでも見ていたい。そんな気持ちにさせられる不思議な絵だった。


わっはっはっは…

男性が大きな声で笑っている。


俊葵は、その声でハッと我に返った。そして、思った事が口に出ていた事に気がつき、穴があったら入りたい気分になった。

ちょうど、マスターが俊葵の注文の品を持ってやって来た。

「率直な感想ありがとうございます。兄の創作の糧になります。な?」

と言って画家を見上げた。


画家はコクコクと頷き、

「全くその通りだよ。君はすごく若いようだけど、独自の視点と広い視野とを兼ね備えた、瑞々しい感性を持っているようだ。それで君はその感性をどのような手段で表現しているのかな?」

と、俊葵の顔を覗き込んだ。


「感性?手段?」

アイスコーヒーのストローを口に含みながら俊葵は首を傾げた。


「絵を描く、楽器を演奏する。踊る。そういう事をしているのかって聞きたいらしいんですけど、答えなくていいです。初対面の人になんだよ。兄さん!」

カウンターからマスターが声を張り上げ、解説and叱責を同時にやってしまった。


「あ、構いませんよ。俺、そんなのやってないんで、」

サンドイッチをモゴモゴと咀嚼しながら俊葵が言うと、


「え、それは勿体ない。ぜひ、写真をおやんなさい!」

画家は鼻息も荒く言い切った。

「しゃ、しん?」

何を根拠に、と聞き返そうとした俊葵に被せるように、マスターが、

「全く!すみませんね。普段はここまでお客さんに絡むことはないんですけどね、どうしたって言うんだよ!」

今度は謝罪and叱責。

俊葵は笑うしかなかった。


食べ終わった俊葵は、電車の時間があるからと、話を続けたがる画家の元を辞した。その続きを聞きたかったら連絡して、と渡された犬に絵の名刺だけは受け取ってやってくれとマスターにも頼まれたので、礼を言ってポケットにしまい、俊葵は喫茶店を後にした。


電車の時間に余裕を持って駅にたどり着いた。さっきの妙ちきりんな体験を思い出しクスッと笑う。その時携帯がメールの着信を告げた。

開いてみると葵からで、週末は橋本の家で過ごすから食事は要らないとあった。俊葵は緩く首を振りため息を吐く。

一葵の生前も俊葵はほとんど足を向けなかった橋本家。葵は中学に入学した頃から時々訪ねるようになった。まさか、泊まりに行くほどになっているとは思わなかった。

葵を信じないわけではないが、俊葵は二、三日前から今日の予定を伝えてあったのに、葵は何も言わなかったのだ。真偽を洋子に確かめてもらおうと携帯のボタンを押す。

アナウンスが、俊樹の乗る予定の電車の到着を告げた。



















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