愛される資格⑩
俊葵は、結局、手にしていた進路調査票にまたも記入できないまま、引き出しに仕舞った。
階下のキッチンからは何やら楽しそうな声が聞こえている。俊葵は自室を出て階段を下りていった。
キッチンを覗くと、葵と矢野が餃子を包んでいる。
「叔母さまは?」
と聞くと、
「奥様はお教室ですよ。」
と、矢野が答えた。
「あ、そうだった。」
洋子は自宅で編み物サークルを主催している。週二回の今日がその曜日だ。
あの日病院で目覚めた葵は、あっさりと深見の説得に応じ、戒田の家に留まる事を了承した。
それを聞いた洋子の夫の糺は、
「あーちゃんが居なくて、叔父さま寂しかったんだ。仕事もそろそろ暇になりそうだから、一緒にどこか行ったりしようねー。」
などと呑気な声を出した。
餃子は糺のリクエストらしい。
葵が、
「今日は叔父さまの好きなものを作ってあげる。」と言ってくれたと、糺はホクホク顔で仕事に出かけて行った。
自分で全て作れる訳でもないくせに、中々高飛車な物言いだと、俊葵は苦笑したが、
葵自身、ここしばらく洋子と矢野に家を空けさせてしまっていたせいで、糺にも負担をかけたと、内心申し訳なく思っているのかも知れなかった。
玄関の方から、ガヤガヤ賑やかな話し声が聞こえてきた。
サークルが終わったようだ。五分ほど待って、ドアをノックする。
「いいわよ。」
俊葵はドアを開けた。
「あら、この部屋まで来るなんて珍しいわね。」
洋子は、レシピ本や、方眼の編み図やらを整えながら俊葵を振り返った。
天井までの大きな棚には色とりどりの毛糸や編み上がった作品がびっしり詰まっている。まさにこの部屋は洋子の城だ。
「あ、うん。進路調査票をね、早く出せって言われてるんだけどさ、」
「ああ、そうね。気になってたのに、葵の事で気を取られてしまって、ごめんね。」
テーブルの上をさっとダスターで拭き、洋子は腰を下ろした。
「ううん。俺も同じだから。」
俊葵も洋子の向かいに座る。
「中学入学の時の話、南雲先生を通してのやり取りになっちゃって、妙な具合ね。
実はね、夏休み明けの三者面談ね、あれ、一葵に行くように言ったの、私なの。」
「あ、そうなんだ。」
「意外と積極的に時間作って行ったようだから、安心していたんだけどね。」
「うん。」
「またも、央林を第一志望にしたって聞いて驚いたわ。一葵が勝手に書いたんでしょう?」
「まあ、そうだけど、」
「ずっと、それで良いのかって、あなたに聞きたいと思っていたの。だけど、成績は良いし、熱心に勉強しているようだから、これはあなたの希望でもあるのかしらって、」
「・・・・」
「進路調査票、書けなくて悩んでいるのね?」
俊葵はコクリと頷いた。
「央林に行きたい?」
うーん、と首を傾げる。
「他にどこか、いいなと思う所は?」
俊葵はため息を吐きながら、ゆっくり頭を振った。
「お金の事は心配しなくていいのよ。幸一《兄さん》が出さなくても、私達がどうとでもするわ。」
「あの…叔母さまは何か聞いてない?父さんは、お祖父さまに話してたんだろうか、その、俺の進路の事…」
「いいえ。全く聞いてないわ。
あら?もし、兄さんがあなたの進路の事を一葵に聞いてたら、央林に行って欲しいと望んだら、あなた、央林に行くとでも言うの?」
ギクッ、
俊葵の胸に軽い痛みが走った。
洋子はおっとりしているようで、時に鋭いことがある。
「高校の受験は、自分の意思で進路を選ぶ初めての機会よ。誰かに任せてしまいたい気持ちや、より評判が良い所にした方が気分が楽っていうのも分かるけど、ここは自分で決めなきゃダメ。」
「う、ん…」
うふふ、
渋い顔の俊葵を見て洋子が笑った。
「受診させるために葵を説得しようって言った時は、鬼気迫る勢いだったのに、こうやって進路に悩んでる姿を見ると、あなたもやっぱり中学生なのねー。」
その週末、糺を交えた五人は、再び姫島の家に居た。
葵が島を引き上げるに当たって、置きっ放しの荷物を取りに行きたいと言ったのと、洋子が、一葵達の遺品をある程度整理しておきたいと言ったのと、糺が墓参りを希望したのとで、全員での渡島となった。
あの日以来、葵の夜中の動き回り行動は起きていない。
その上、日に日に明るくなって、洋子も矢野も目に見えて安堵している。俊葵だけが緊張を解けずにいた。
深見への定期連絡は継続している。
この日の渡島について相談すると、日帰りなら、と言いながらも、その声は気の進まない感じで、洋子たちとの温度差がしこりのようになっていた俊葵をむしろほっとさせた。
俊葵は、家具の埃を叩いた後、埃よけの白い布をかける作業を引き受けた。
布の在り処を矢野に聞くと車だと言うので取りに外に出る。ちょうど、糺が水を張ったバケツとシキミを持って、墓への石段に向かうところだった。
「叔父さま!俺、持ちます。」
俊葵は糺に駆け寄る。
「あ、助かる。」
糺は素直にバケツを渡した。
「後でみんなで一緒にお参りするのに、」
糺の後について石段を下りながら俊葵が言うと、
「あ、もちろんそのつもりだよ。でもその前にね、一葵君に話しておきたい事があってね。」
と糺は照れ臭そうに言った。
「話しておきたい事?」
「と言うか、お願い事と言うか…」
「はぁ…」
一月前に訪れたばかりの墓はまだ春先ということもあり、ほとんど変わりがなかった。
前回供えたシキミを取り去り、水を換える作業をする俊葵を眺めながら糺が、
「やっぱり俊葵は、何にも聞かないんだなあ。」
と感心したように呟いた。
不思議そうに顔を上げた俊葵に、
「俊葵は小さい頃から、あーちゃんみたいに『どうして?』『なんで?』って言わないんだよな。さっきも一葵君にお願い事をすると言ったのに、それ以上聞こうとしない。」
糺は苦笑いした。
グシャ、グシャグシャ、
シキミを包んでいた新聞紙を丸めながら、俊葵も確かにそうだなと思った。
糺が線香の箱を開けた。風防付きのライターを横から差し出す。
火がつくと、沈香に混じって伽羅の奥ゆかしい香りが広がった。
「俺たち大人が、俊葵を早く大人にしてしまったんだな。」
長い間手を合わせていた糺が礼拝を直ると、ぼそりと言った。
「俺は、大人なんかじゃ…」
「うん。もちろんそうだよ。子供らしさを我慢させてしまったと言っているんだ。」
「・・・・」
タン、タン、トン、
軽快な足音に二人が顔を上げる。
「どこに行ったかと思ったら、二人ともこんなとこでサボってる!」
葵が腰に手を当てて石段を下りて来た。
「ご、ごめん。」
「すぐに戻るよ。」
すると葵が噴き出した。
「嘘、嘘。お昼にするから、二人を呼んで来てって言われただけ。」
可愛い小芝居に微笑むと糺は、
「最近のあーちゃん、洋子に似て怖くなってきたから、真に受けそうになったよ。」
と、俊葵に耳打ちする。
「なぁにぃ?」
葵がまた腰に手を当てている。
「何でもないない。さ、行こ行こ!」
と、糺は、葵の背をぽんぽんと叩いて、先を促した。
「葵さん。矢野さんがお楽しみを持って来ましたよ。さて、なーんだ!」
食後、矢野がいたずらっぽく笑って、保冷バックを持ち上げて見せた。
「アイス!」
「正解!」
「きゃぁ!」
葵が矢野に走り寄り、バックの中を覗き込む。
「どうしよう。抹茶も良いし、チョコも良いしー、あー、限定いちごも良いよねぇ〜決められないよぉ〜、ねぇ、お兄ちゃんはどうする?叔父さまは?」
「俺の分もあーちゃん食べて良いよ。」
「ダメよ。皆んな一個ずつ、一緒に食べるの!ねぇ、矢野さん?」
「そうですよ。葵さんの言う通りです。葵さんも大人になりましたねぇ、」
ぴたり、葵の動きが止まった。
「葵?」
はっとしたように葵は、呼んだ洋子の顔を見上げる。
そしてぶんぶんと首を振り、またバックを覗き込んだ。
「う、ううん。
あー、葵ねぇ、いちごにする!」
「女子は限定に弱いなぁ〜」
俊葵が揶揄うと、
「そうよ。そう言うお兄ちゃんは、定番のバニラ?」
「お、良いね。」
「叔父さまは、三種のチョコ!」
「苦味走った良い男だからな。」
「自分で言うから間違いないわね。ふふ。葵、叔母さまはどれ?」
「叔母さまは上品な抹茶よ。」
「まあ、」
「葵さん、矢野さんにも選んでくださいな。」
「矢野さんには、若々しいマンゴーパッション!」
「まあ嬉しい。」
さらに葵の提案で、バルコニーに椅子を出してアイスを食べようということになった。
ポカポカと暖かい日差しに、冷たいアイスクリームは最高のデザートだった。
矢野が入れてくれた紅茶を飲みながら、海を眺め、時々見える船について何か言ったり、今はどんな魚が取れるとか、帰りは漁港で魚を買って帰ろうとか、そんな話をしていた。
「大人になるって、自分のことを我慢するって事?」
ぽつり、葵が呟いた。
「え?」
四人が顔を見合わせる。
「お兄ちゃん、行きたい高校を我慢して別の高校に行こうとしているの?」
「何言ってるんだ?」
「お兄ちゃん、央林が第一志望なんでしょう?」
「う、それをどうして・・・」
「同じクラスの子のお姉さんが中学でお兄ちゃんと同じクラスなんだって、その事皆んな知ってるって、」
ギギッ、
動揺で洋子が身動いだ。
俊葵は、葵に見えないように後ろ手で洋子を制しておいた。
「二学期の始めの進路調査票には、確かにそう書いてある。」
「ほら、」
「進路調査はこれから何度もある。これ一回じゃない。」
「じゃあ、行かないってこと?」
「分からない。」
葵が睨むように見つめている。
「央林は、父さんの母校だよね。いつも話してた。」
俊葵が頷く。
「だから行きたいんじゃないの?」
「・・・・」
「央林ってすっごい難しいんだよね?だから一生懸命勉強してたんじゃないの?」
「・・・・」
「父さん死んじゃったけど、頼めば、お祖父さまも叔母さまも叔父さまもきっと行かせてくれるよ。」
葵以外、皆が押し黙ってしまった。
葵が遠く水平線辺りに視線を移した。
「父さんは、ちっとも大人じゃなかったよね。自分の事を我慢しなかった。
子供が熱出したくらいじゃあ、取材に行くの止めなかったもん。仕事変える時も結婚する時もおんなじ。」
「ああ、そうだったな。」
「お兄ちゃんも、そうしたら良いんだよ。」
「俺は、父さんの真似をしたいわけじゃない。」
「でも、父さんのせいで、葵のせいで、我慢してるのは確かでしょ?」
「我慢なだけじゃないわ。思いやりが深いのよ。俊葵は、」
洋子が口を挟んだ。
「思いやり?葵は、葵のせいで行きたいところに行けないって思われてる方がよっぽど嫌!」
葵は叫んだ。
「葵!落ち着け!本当にどこを受験するかは白紙なんだ。これは葵のせいじゃない。」
ひっく、ひっく、
しゃくり上げる葵の背中を糺がそっと摩った。
「あーちゃん。叔父さまも、叔母さまも、矢野さんも、あーちゃんと俊葵の側にいるから。だから何にも心配しなくて良いんだよ。」
言葉なく泣き続けた後、葵は糺に微笑みかけた。
「ありがとう叔父さま。葵はずるいの。叔父さまはそう言って下さるって、分かってて言ってるの。叔母さまにも矢野さんにも、お兄ちゃんにもいつもそう言って貰えないと、ここが暴れる感じなの。」
そう言って、ブラウスの胸の辺りをぎゅっと握った。
「ああ確かにな。父さんはそんな事言わなかったな。」
コクリ、葵が頷いた。
「暮石の字、」
「え?ああ、仰日?」
「うん。父さんと葵とお兄ちゃん、同じ葵の字が入ってるって、人が言ってくれる度に誇らしかった。」
「ええ。」
「葵もお兄ちゃんも母さんの顔は知らないけど、お父さんに望まれた子なんだ。って証拠だって、」
「そうね。」
「祐葵にも葵の字が入ってる。
ううん。嫌じゃないの。祐葵の事大好きだったし、」
「そうか、」
糺が優しく葵の背中を摩る。
「父さんは、葵とお兄ちゃんの母さんとは結婚しなかったんでしょう?」
「ああ、一度だけそう言ってたな。」
「どうして、祐葵のお母さんとは、朱子さんとは結婚したんだろ?」
葵は全員を見渡した。
皆が一斉に首を振る。
「父さんに聞いてみなかったのか?」
「お兄ちゃんなら聞ける?」
「聞けないな。聞く気も起きないけどな。」
皆の注目が俊葵に集まった。
「いつも明るかったけど、いつも本音を言ってるとは思えなかった。聞いたところで、混ぜっ返されるのがオチさ。」
葵がコクコク頷いている。
「それが気になったら、頭の中そればかりになっちゃって…朱子さんと、だけ、結婚したのは、あれだけ、好き、だっ、た仕事を変え…たのは…
ゆ、ゆぅ…祐、葵だけが特別だ、から…」
わあぁぁぁ…
慟哭と言ってもいい深い所からの叫びは続いた。それが嗚咽に変わるのを誰もが押し黙って聞いていた。
誰の腹の中にも重いものが広がっている。
いつしか陽は傾いていたが、誰も中に入ろうとは言わず、その代わりに矢野が毛布を渡してくれた。
しばらくして、温かくしたハニーレモンを洋子が配り始めた。
温かい飲み物で少し落ち着いたのか、葵の頬に赤みがさす。
「こんな事思っちゃいけないのに、祐葵の心臓が悪いのが羨ましかった。」
「あーちゃん…」
糺が悲痛な声で葵を呼ぶ。
葵は糺を見遣り、
「あー、叔父さま泣いちゃったぁ。」
と言いながら、糺の顔を袖で拭いてやり、カラカラ笑った。
そして、俊葵の顔を覗き込んだ。
「お兄ちゃん、お兄ちゃんもそうなんじゃない?」
「お、れ…」
「難しい央林を第一志望にできるくらい勉強頑張ったのは、父さんの喜ぶ顔が見たかったからでしょう?」
「お、れは…」
即座に否定したかった。でも頭に浮かんだのは、三者面談で嬉しそうにしている一葵の姿だった。
再び沈黙が訪れる。
島の影が海にかかり、キラキラの波を飲み込んでいく。
突然、視界に矢野が立ちはだかった。
「さあ、皆さん立ち上がった、立ち上がった。これ以上体を冷やすことはこの矢野さんが許しませんよ!」
芝居掛かった矢野の言い回しに、葵がくすりと笑った。




