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沈丁花の咲く家  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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沈丁花の咲く家②

この島は、ほとんど平地のない島で、なだらかな南西の斜面と切り立った北東の斜面でできている。細々とした近海漁業と農業が主な産業で、基幹作物はミカン。

ミカンは何より陽当たりが命だ。南西の斜面のほとんどはミカンの木で埋め尽くされ、島の港も南側にあり、ほとんどの住宅はその周辺にひしめくように建っている。


俊葵はその家を見上げていた。正確には屋根の一部だ。

家は斜面に沿うように建てられているため、家の全貌は見えない。

ここだけ舗装されたアプローチが多少いびつな円を描いている。敷地に入った自動車がUターンせずに出て行ける作りだ。


早速、砂利道とアプローチを隔てている、公共施設の入り口で見かけるようなそっけない扉のロックに手を掛けた。

事前に送られてきていた鍵を差し込む。

ロックも堅牢な門も新しいものらしく、するすると開いていく。


砂利道との境界線の竹垣にずらりと植えられた椿が切り揃えられていた割に、

100㎡はあると思われる前庭は、アプローチの舗装に所々陥没があったり、背の高い草が生えたりしていて、最低限な管理に終始したこの10年を窺わせる。


俊葵はぐるりと庭を見ながら、玄関へと足を踏み出した。

昔、妹とレンガ片で囲った花壇には植物はなく、祖父が作らせた高低二つの鉄棒には錆びが浮いている。

父親がヨーロッパから取り寄せ増やしたバラだけは枯れてはおらず、緑色の茎が黄変した葉を残してすっくと立っている。

見ないようにしていたアプローチの円の中心に一瞬目をやる。そこは小高く土が盛られていて、さながら日本庭園の築山つきやまのようだ。

その築山の中で最も目を惹く植物が、沈丁花だった。

樹高も最後に見た時より1メートル程高いだろうか、丸みを帯びた枝の先には、白、紅色二色のトランペットに似た小花がびっしりと付いている。

これほどの花付きだ。きっと誰かが手を入れていたのだろう。


「玄関は、と…」

呟くと、俊葵はそこから目を逸らせた。

目に入った3メートルほどの樹木が、それぞれミモザと月桂樹であることに気がつくと、その間に見える隙間が玄関に続く渡り廊下だと分かり、ふと笑った。

この家には、東向きに作られた玄関に向かうために、なだらかに曲がった緩いスロープが取り付けられている。

俊葵が180㎝を超える長身を屈めて、枝のトンネルを潜る。

屋根同様こんもり積もった落ち葉をカサカサと踏みしめながら歩いた。


玄関ドアの鍵も新しいものが送られてきていたのだが、

俊葵が手にしているのは手垢で磨かれ黄土色に光る鍵だった。

今回の帰国にあたって、クローゼットの奥深くしまっていたこれを引っ張り出してきた。

これで開錠しよう。するべきだ。と思った。

それがなぜなのかは俊葵にも分からない。


カチリ、

大して抵抗もなく鍵は開いた。


イタリアだかイギリスだかのアンティークの玄関ドアは、多少ガタつき、風雨に晒されて色褪めしてはいたが、内側は変わりなく美しい焦げ茶の木目を保っている。

玄関のある階はこの家で一番天井が高い。リビング、キッチン、ダイニング、浴室、二つあるトイレの一つ、がある生活の中心だ。

父親が集めた三人掛け一脚と一人掛け二脚のソファーセットやコーヒーテーブル、

ウォールナットのダイニングテーブル、ハンス J ウェグナーの椅子全てに埃よけの白い木綿布が掛かっている。

キッチンは、アールで切った入り口と斜面に面した大きなバルコニーの二ヶ所で

リビングやダイニングと回遊できる作りだ。

俊葵は流しに近寄り水道のレバーを下げた。

「水は出るのか…じゃあ電気は…」

ダイニングの壁の、カチッと大きな音を立てる船舶装備用スイッチをオンにする。テーブル上に下がっているルイス・ポールセンのモスクの屋根のようなフォルムのライトに明かりが灯り、柔らかい光が広がった。


今回十年ぶりにこの島に来ることになったのは、三週間前の、ある電話が発端だった。

その相手は祖父の代理人を名乗る弁護士で、亡くなった祖父の橋本 幸一が、この家と土地を俊葵に譲ると遺言書に記していたと言う。

それを聞いて、俊葵は舌打ちしたい気分だった。

しかし、こういう時のために考えておいた問答集を頭の中で引っ張り出し、

「相続税を支払う能力が無いので、放棄します。」と答えると、

公田きみたというその弁護士は、クククと笑い、

「すみません。俊葵さんの言われたセリフが一言一句先生の仰る通りだったものですから、」

と言ったのだった。


「何を言って…」

戸惑いがちに俊葵が言うと、


「橋本先生が、貴方ならそう言う筈だからと、相続税分と、長い間空き家だったために、傷んでいるであろう箇所の修繕費用も遺されておいでです。」

公田は朗らかにそう答えた。


俊葵は肩を落とした。

八方を塞がれてしまい、もはや受け取るしか方法はなさそうだ。

「クソ爺ィが…

あ、すみません…」

俊葵がどんなつもりでも、公田は仕事でやっているだけだ。


しかし公田は気を悪くしたどころかむしろ上機嫌で、

「いえ、はたからはとても恵まれた環境に見えても、ご本人にとってそうかどうかはまた、別問題ですからね。」

と、返してきた。


「はぁ…」


「という事で、土地建物の引き渡しをいたします。俊葵さんに立ち会ってもらう必要があります。いつならおいでになれますか?」


弁護士の公田も今日こちらに来る約束になっていた。本島の県庁所在地に事務所と自宅を構えていると聞いている。


ーーとりあえず、茶でも沸かして出迎えるか、その前にまず座る場所だーー

俊葵は、持って来た荷物が埃にまみれてしまわないように浴室に放り込み、

バンダナを取り出して頭を覆った。


小一時間、家具を覆っていた木綿布を剥がしてはバルコニーではたき、畳み、階段脇の戸袋で見つけた掃除機を床に掛けるといった作業を黙々と続けた。

同じく、戸袋で几帳面に積まれていた雑巾で、テーブルを拭きあげた頃、玄関の方で音がした。

コツリ、

革靴とタイルの軽くぶつかる音がする。

鍵は掛けていない。


ーー公田さん、そのまま入って来たのか。ーー


出迎えようとホールとリビングを隔てたアイアンのアンティークドアのノブに触れる。触れただけでドアがスーッと開いた。


「あ、公田先生。ちょうど良かった。今掃除がひと段落したとこです…よ」

この10年で身につけた対外的笑顔を貼り付け顔を上げると、

そこに居たのは思い描いたのとは似ても似つかない人物だった。

肩ほどの長さの栗毛を丁寧にカールさせ、フードの付いたラベンダー色とライトグレーのリバーシブルコートに身を包んだ20代前半と思しきニコニコと笑いかけてくる美しい娘。

たしかに直接会ったことはないが、多分これは公田弁護士ではない。


「who!」

咄嗟に俊葵は声を上げる。

娘が肩をピクリとさせた。


あちらも条件反射だった様で、すぐに気を取り直すと娘はため息を吐いた。

「誰だ、とは失礼ね!今日来ると聞いたから、時間をやり繰りして来たって言うのに…」


リン、ドーン、

その時、馴染みの呼び出し音が鳴った。

そこを動くな!の牽制のつもりでひと睨みして、娘をそのままに玄関に向かう。

ドアを開けると、あの電話の声のイメージそのままのダークスーツに身を包んだ初老の男が立っていた。


「はじめまして。渡部・公田法律事務所の公田 いさお弁護士です。」

「こ、こちらこそはじめまして、戒田かいだ俊葵です。」

おずおずとお互いの名刺を交換する。


「あ、葵さんの方が先に到着されていたんですね。」

公田が玄関の三和土たたきに並べられていた女物のショートブーツを見て言った。


「あおい?」

俊葵は開きっぱなしの扉からリビングを振り返った。


あおいと呼ばれたその娘は勝ち誇ったように笑い、身体をくねらせながらウインクを飛ばしてきた。


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