愛される資格⑨
催眠から覚めて、あくびを繰り返した葵は、再び同じ部屋の長椅子で眠ってしまった。
洋子は隣の部屋で南雲や深見と話している。
洋子が戻って来た。
「俊葵の話が聞きたいって、先生が、」
どんな話をしていたのか、血の気のない顔をして、俊葵と入れ替わりに座り込んだ。
診察室の深見は、入ってきた俊葵をちらりと見て、洋子が付けていた日誌にもう一度目を落とした。リーガルパッドに何か書きつけてから顔を上げる。
「結構分かってきたよ。葵ちゃんの動き回りの原因。」
「えっ、」
「相手が大人であれば、もう少し長く、もう少し突っ込んだ質問もできたんだけどね。でも、葵ちゃんへの負担を考えたらあれが限度だ。」
実は、ワイスの著書から興味を持って色々読んでいた俊葵には、深見のセッションがちょっと中途半端じゃないかと思えたのだ。
その思考が深見に伝わったのかと思うと顔が熱くなる。
「ところで、君は大丈夫かい?随分驚いてたようだけど、」
深見が話題を変えてくれた。
俊葵はホッとして、
「自分が原因の一つだとか…まあ驚いてはいますけど、
俺に東京の中学を受験させようとしてたって話は、俺ですら去年の九月に聞かされたばっかなのに、当時なぜ葵がそれを知ってたのか、気になってます。」
と、素直に胸の内を明かした。
深見はウンウンと頷きメモを取る。
葵の様子を見に行っていた南雲が戻ってきた。
「ああ、それについてはね、あなた方のお父さん、一葵さんが、葵ちゃんを中学から、スイスの全寮制のインターナショナルスクールにやりたいと、叔母さまにお話しされていたという事を事前に伺っていてね。
これは、葵ちゃんから直接聞き取ったわけではないから、憶測の域を出ないのだけど、一葵さんが葵ちゃんにその計画を話したのだとしたら、そのついでに、俊葵君も東京の中学を受験するんだと話していたとしても、何ら不思議ではないわけ。」
「・・・」
俊葵のあまりに薄い反応に、南雲は顔を覗き込む。
俊葵は、それに遅れて気がつき苦笑いした。
まだまだ子供の俊葵に大人の考えが全て分かるはずもないけれど、一葵は、定期船が本島との間に一日五往復しているとはいえ、離れ小島の姫島に、わざわざ家を建てるような男なのだ。そんな男が世界を散々歩き回って帰ってきたら、教育パパに大変身してたとか、どうやって驚いたらいいか分からないくらいだ。
「結局、その話はお流れになったらしいね。」
と、深見。
俊葵は曖昧に微笑んだ。
「叔母さまによると、俊葵君と葵ちゃんが小さな頃、島に住む女性がお世話をしてくれたんだって?」
俊葵は頷いた。
その女性は白井さんといった。朝食を作りに早朝やってきて、俊葵と葵が学校に行っている間に掃除や洗濯をしてくれ、晩御飯を食べさせると自宅に帰っていく。一葵が居ない時・・・ほとんどの場合においてそうなのだが・・・には、夜泊まり込んでくれた。
「父さんが秘書に転職した頃かな。白井さんが病気で僕達の所に来れなくなって、代わりに叔母さまが週末とか泊りに来てくれて、そんな時、父さんが再婚するって決まって、」
「うん。そうらしいね。再婚後、生活の拠点を東京に置くと一葵さんが言った事に、叔母さまは怒ったんだって?それで叔母さまは、俊葵君と葵ちゃんを本島の戒田家に引き取ったんだって聞いたよ。」
その経緯を俊葵は知らなかった。洋子はただ、『白井さんの代わりが見つからないから。』と言っただけだ。
ーーああ、そうだこうも言った。『俊葵を引き離したら、葵はダメだから』と、ーー
沈黙が続いた。
「葵ちゃんにとっては、普段一緒に居て一番理解してくれる俊葵君が父親で、いつも家に居なくて、驚くような言動をする一葵さんは、友達かお兄さんのような存在だったんだろうね。」
深見が静かにそう告げると、近所の児童館の帰宅時刻を知らせるチャイムが鳴った。
「ああ、もうこんな時間。もう少しいいかな?」
俊葵は頷いた。
「先程、叔母さまからも聞き取りさせていただいてね、あの、動き回りが起き始めた火曜日の昼、何があったのか詳細に思い出してもらった。叔母さまは、お手伝いさんとお茶を飲みながら、俊葵君の進路の話をしていた。『俊葵、高校どうするのかしら。俊葵が望むのなら、央林の進学を応援しても良いんだけど、』と言ったのを覚えてるそうだ。葵ちゃんは昼寝中だったらしいけど、それを聞いていたのだとしたら、」
自分の事ながら、俊葵の知らない事ばかりだ。だんだん頭が痛くなってくる。
深見は、そんな俊葵を労わし気に見ながらも話し続けた。
「中学入学の時、俊葵君の東京行きが実現していたら、今回と同じように葵ちゃんの夜中の動き回り行動が起きていたかと問われれば、それは分からないと言うしかない。
人の心は、同じ条件だから同じ反応をするとは限らないんだ。
今日、年齢退行催眠をしてみて、それで何かが劇的に変わるというわけでもなくてね。申し訳ないけど、
でも、俊葵君が言ってた通りに、葵ちゃんに自分の心を整えるという自覚を持ってもらう目的は達成されたと思う。
それに、葵ちゃんの心の中で、俊葵君が大きな支えになっていることは分かったしね、
だからと言って、俊葵君に葵ちゃんを支える役目を全て押し付けるのは得策ではない。
俊葵君だって、お父さんが亡くなって傷ついているんだからね。」
俊葵は音がするほど大きく頭を振った。
「いや、傷ついていないはずないんだよ。だからね、頼って欲しいんだ。我々を、女性に話すのが苦手なら、僕に連絡をくれてもいい。そうだな、葵ちゃんの経過を報告する定期連絡を僕にしてくれないかな?どう?」
「それなら…」
俊葵は、深見に差し出された名刺を受け取った。
「いずれにしても、最初に動き回り行動が始まった原因はまだ分かっていない。叔母さまにはお伝えしたんだが、もっと慎重に見守る必要がある。葵ちゃんには、戒田の家に移るように話してみるつもりだ。」