愛される資格④
くすくす、
密やかな笑い声に、
ピーピーと小鳥のさえずり、
ーーあ、俺、今寝てるんだ…ここはどこだ?戒田の家…
違う!島の家だ!ーー
一気に目が覚め、俊葵は勢い良く体を起こした。
カップを口に運びかけた洋子と、テーブルの上に何か置くためか体を傾けた矢野と、フォークを握りしめた葵が、目を丸くしてこちらを見ている。
すると、葵が持ち上げたフォークから、レタスがポロッと外れ、パジャマのボトムスにドレッシンがかかってしまった。
「もう!お兄ちゃんがびっくりさせるから、」
「葵さん、布巾を、」
「あ、ありがとう。矢野さん。」
「葵、もうほとんど食事終わってるみたいだから、そのまま着替えてきたら?」
洋子が言うと葵はコクリと頷いた。矢野は洋子に目配せをして、葵に続き階段を下りて行った。
急にシンとして、俊葵は洋子に向き直った。
「叔母さま、葵、起きてる。」
「ええ。矢野さんが朝食の支度をし始めた頃に、6:30くらいって言ってたわ。一葵の書斎のドアをガチャガチャとしてたみたい。『おはよう。』って部屋の中に声をかけたら、『矢野さん。おはようございます。』って返事が返ってきて、それで安心して掛け金を外したら、『矢野さん。私どうしてこの部屋で寝てたの?』って、」
洋子の顔は晴れやかだ。
危機一髪の状態を体を張って止めたのは昨日の今日なのだから無理もない。
洋子の弾む声を聞きながら俊葵は、洋子が楽観論に傾きかけている気がした。
「う〜ん、」
俊葵は唸った。
「どうしてここで寝てるの?って言ったのは、単に昨夜はぐっすり寝ていたせいとも言えるんだけど、」
「ええ、」
「この行動が始まってから、朝は、葵なんて言ってた?どんな様子だった?」
「ああ、それならね、」
洋子が階下を気にしながら、家計簿のようなノートを出してきた。
「私ね、葵が入院してから日誌をつけているの。」
それは、買い物の品目や値段。洋子の夫の糺のスケジュールなど日々の記録といったノートだった。
見開き2ページの右半分に、病院で付き添ったのが誰か、病院食のメニュー、食べた量。島に来てからも、三食のメニュー、時間、トイレの回数、テレビを見た時間、寝室に入った時間、起きた時間、事細かに書いてある。
俊葵は驚き、賞賛の目で洋子を見上げた。
洋子は照れたように頰を赤らめ、
「調べたのよ。昔は夢遊病といったのだけど、今は睡眠時遊行症というらしいわ。原因は過度のストレスとも言われてるけど、睡眠時間のばらつきがあったり、食事の内容や、カフェインの摂取も関係があると言われてるの。子供の場合、それらの生活習慣の改善で9割は良くなるのだそうよ。だから、書き始めたんだけど、」
「うん、」
「これを先生に見てもらって…」
「う、ん…」
俊葵は、水曜日のページに目を落とした。
『私と矢野さん代わる代わる三度起こしに行く。中々起きず。やっと9時起床。朝食、ココアカップ半分(120mlほど)。昨夜の物音の事聞いても答えず。言いたくないのか、覚えていないのか。朝食後すぐに寝る。午後1時起床・・・』
『木曜日: 四度目で起きる。(9時40分)トースト半分食べる(5枚切り)、オレンジジュースコップ半分(100mlほど)、昨夜の事、首をかしげて答えない。言われている意味が分からないという事か、朝食後すぐ寝る。午後1:15起床・・・』
金曜日の部分は洋子のショックが大きいからか、まだ記述が無い。
ふう〜
俊葵は息を吐いた。
これを、もう一ヶ月は続けているのだ。洋子には本当に頭が下がる。
ーーが、しかしーー
俊葵は気を引き締めた。
「叔母さま。葵は入院中から、夜中動き回ってる自覚ないみたいだよね。」
「そうね。」
「だったら、月曜日どうやって葵を病院に連れて行く?」
「え?」
「葵は、自分から来たがって島に戻ったんだ。よっぽどの理由がなければ島の外に行かないよ。あいつ、結構頑固なの叔母さまも知ってるだろ?」
「ぇぇ…そう、ほんとにそうね…」
洋子もようやくそこに思い至ったのか、明らかに肩を落とした。
しばらく目線を下に這わせた後、何か思いついたように顔を上げ、
「どう言ったらいいかしら…お洋服を見に行きましょうとか、新しいケーキ屋さんに行くとか?遊園地でもいいわね…」
と呟き、洋子が自分の携帯電話を取り上げた。
「叔母さま、それじゃあダメだよ。」
俊葵が、携帯を持つ洋子の手首を掴む。
「ありのままを話そう。葵に、」
洋子が目を見開いた。
「ダメよ。お医者さまだって様子を見ましょうって、」
俊葵はゆっくりと首を振った。
「叔母さま調べてくれたんだろ。生活習慣の改善で良くなるのは全体の9割だって、もし葵が残りの1割だったら?何かの治療はしなきゃならない。自分の異常に気づいていない人間が治療に向き合うとは、俺には思えない。」
洋子は、はらはら涙をこぼしている。
「叔母さま。こんなに葵を見守ってくれてありがとう。」
俊葵は、ノートの表紙をトントンと指先で叩いた。
「俺も葵もまだ子供で…だけど、現実は現実。受け入れないと…」
俊葵の脳裏にコジオスコ山の下山道のあの事故現場が思い浮かんだ。
ーーもう俺は、家族を無くすわけにいかない…ーー
「…そうじゃないと前に進めないから、」
俊葵のその声は掠れ、すすり泣く洋子には聞こえていなかった。
この章では、子供の睡眠時遊行についてのサイトを参考にさせていただきました。
いこーよ
https://iko-yo.net/articles/2157
ハートクリニック大船
https://e-heartclinic.com/sp/kokoro/yamai_ippan/ippan_sleepwalking.html