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沈丁花の咲く家  作者: 新井 逢心 (あらい あいみ)
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愛される資格③

春休みを一週間後に控え、俊葵はある悩みを抱えていた。

もう何度ため息を吐いたか分からない。

俊葵の目の前にあるのは、進路調査票だ。


前回の提出は夏休み明け。その資料を元に行われる三者面談に、一葵は珍しく顔を出していた。


子供たちの学校行事に顔を出すことが出来なかった一葵に、やがて俊葵も葵も行事出席の有無を問うプリントさえも見せないようになった。

ある年など、何の連絡も無しに帰って来た一葵が、「運動会行くからな。」などと言ってきた。俊葵が「父さん、それ、一ヶ月前に終わったよ。」と答えると、心底びっくりしていたその顔がおかしくて、葵と二人大笑いした事もあった。


そんな一葵がひょっこり帰って来て、俊葵が知らせてもいない面談に現れるのだから、腰が抜けそうに驚いたあの日が昨日のことのように思い出される。

その時も俊葵には進路に関して特別行きたい所もやりたい事もなかったのだが、

成績が想像より良かったと一葵が喜んだのが嬉しくて、予習復習は続けて来たのだった。


「この成績だと、央林も狙えますね。」

担任が一葵を上目遣いで見ながら言った。


央林: 央林学園おうりんがくえん。東京にある小学校から大学までの私立学校。中学高校は男子校。有名大学への進学率が高く、会社経営者や政治家の子息が全国から集まってくる。


担任は、一葵が央林出身なのを知っていたのだろう。

そう言われた一葵が、満更でもないようなのが意外だった。俊葵は、そんな一葵の新たな一面に気を取られていて、進路調査票の第一希望の欄に、央林学園高等部と記入されてしまうのを、うっかり受け入れてしまったのだった。



ーーあの時はほとんど何も考えず、二年後の四月には東京に居るんだと思っていた。だけど、父さんが死んだ今、進路をそのままにしていて良いわけがない・・・ーー


ーー相当費用がかかる東京の私立、しかも全寮制。いや、全寮制は別に悪くない。東京でお祖父さまの議員宿舎に一緒に暮らす方がむしろあり得ないし…ーー


一葵は、俊葵の中学入学の際にも央林を選択肢に入れていたのだと三者面談の後話してくれた。

だがその頃、父は再婚を控え、妻は妊娠中だった。見兼ねた洋子が俊葵と葵を本島の洋子の家に受け入れてくれ、公立校に通う手続きを取ってくれた。俊葵を引き離してしまったら、葵が新生活に馴染めなくなる。というのも理由の一つだった。


実は今、それと同じような事が起こっている。

葵の問題行動が始まったのだ。

島で寝泊まりを続ける洋子から連絡を受けたのは一週間前。

俊葵はその週末も島に行く予定にしていた。


「ごめんね。びっくりさせて。」

洋子の声は沈んでいた。

「謝らないでよ。学校の事も受験の事も置いといて、葵に何かあったらすぐに知らせてって頼んだのは俺なんだから…例のあれ、出たんだね。」

「ええ、そう…」

「詳しい話を聞きたいけど、とにかく一本でも早いフェリーに乗りたいからそれは後で。葵はどうしてる?」

「眠ってるわ。病院にも連絡したの。週明けに来てくれって、あと、俊葵に頼みたい事があって・・・」


普段より一便早いフェリーは、乗客の顔ぶれも違っている。

知り合いに会って、近況を聞かれるのを恐れ、俊葵はフェリーの最後尾に移動した。

島の家のバルコニーから見る海の次に、ここから見る海が好きだ。

しかし、いつもより一時間分明るい光の中でのこの景色も、今はほとんど目に入らない。

ついつい洋子からの頼まれ物に意識がいってしまっていた。


ーーこれが要るという事は、葵の状態が悪くなっているという事か…ーー


車で迎えに来た矢野の目の下の隈を見て、その予想は当たっていると確信した。

「奥さまは、仰らなかったんですけれども…」

矢野は重い口を開いた。


その週の火曜日から、葵の部屋で物音がし始め、次の日には高いところから物が落ちる音。さらに昨夜は、キャスター付きの椅子の上に立ち上がろうとしていた葵を二人掛かりで抱え下ろしたのだという。


葵の右腕右足には、今も折れた骨を支えるプレートとボルトが入ったままだ。ギプスを装着している場合と違って、身動きに支障はあまり無いとも言える。子供の回復力でいつの間にか筋力も戻っていたのだろう。その上無意識で動き回っているのだ、痛みがあったとしても感じていないのかも知れない。


ーー迂闊うかつだった…ーー

その可能性を考えていないわけでもなかったのに、島に居れば、そのまま良くなってくれると期待していた。


「すみません。奥様には口止めされていたんですけど、俊葵さんの気性なら、黙っていられる方がよっぽどお嫌かと思いまして…」


黙って顔を覆っている俊葵の姿に耐えられなくなって、矢野は珍しく言い訳のような事を口にした。

俊葵はハンドルを握る矢野を見遣る。

夫と死別し戒田家に勤めながら一人息子を育て上げた苦労人の横顔。


「その通り。教えてくれてなきゃ拗ねるところだよ。ありがとう。矢野さん。」

俊葵が気力を振り絞って答えると、

「ええ、ええ…」

矢野は、忙しなく涙を拭った。



飛び込むように家に入ると、ダイニングに洋子がぽつんと座っていた。

夕食にしては早めだが、手付かずの食事が洋子の前に置かれている。


「まあ!奥様、朝食もほとんど召し上らなかったのですから、これは食べていただかないと、」

ギョッとして、

「え、これお昼なの?ダメだよ叔母さま。これじゃあ、葵より先に叔母さまが参っちゃうよ。」

俊葵が言うと、洋子が腫れぼったくなった瞼を上げ、

「ごめんなさい俊葵、私が付いていながら、」

と涙声を出すとまた項垂れた。


俊葵は洋子の、皮膚のたるみ始めたひんやりとした手を取り、

「叔母さま。叔母さまはこれ以上ないくらい良くしてくれてる。俺も葵も感謝してるんだ。もう病院の予約も取ったんだ。やれる事はやってくれてるよ。」

と言うと、

「後、これ、」

頼まれ物を取り出した。


それは、昔ながらの扉が開かないようにする掛け金、打掛うちかけと、10個ほどと木ネジ、錠前とドライバーなどの工具だった。


「ええ。バルコニーに出たりしたら危険だから、取り敢えず取り付けられる所には取り付けたらどうかって、先生が、」


うんうんと俊葵は頷き、早速工具を手に取った。

葵を部屋に閉じ込めるとなるとトイレに困る。小さなユニットバスが付いた一葵の書斎に葵を運ぼうと話し合った。

幸い、この家の窓枠や建具はほとんどが木製で、俊葵にも難なく取り付けられた。

その後三人で食事を取って交代でシャワーを浴びた。

洋子と矢野には寝室で休むように言って、俊樹はリビングの三人掛けに横になった。


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