沈丁花の咲く家
『いい香りだね。あの香りを辿ったら僕ね、目を瞑ってたって行けちゃうよ。
えーと、なんて名前だっけ、あの花、じん…じんちろ…」
「沈丁花!』
思わず出た自分の声に驚き、俊葵は辺りを見回した。
相変わらずアスファルト舗装されていない勾配のきつい砂利道には、幸い俊葵以外人の姿は見えない。
「フッ、思い出と会話するとか、俺も、大分…焼きが回った、な…」
独り言を言うにも息が切れる。
俊葵は足を止め、長年愛用しているブルーグレーのフライトジャケットのジッパーを開いた。
ポケットからタオルを出し、額に流れ始めた汗をぬぐう。
ーー すぐそこだが一休みするか、確かもう少し先に・・・休めるような・・・あ、あった!ーー
道の左側に高さ四、五メートルのミカンの木が、あの頃と同じ場所で、青々とした葉を茂らせている。
その木陰に、パイプと木でできた椅子がちんまり二脚並んでいるのが見える。
野良作業の休憩用にと小学校から払い下げを受けたのだろう。
先を急いではいたが、何だか懐かしく、座ってみたくなった。
座面をスニーカーの底で踏んだり、背当てを押したりして強度を確かめると、俊葵はどっかりと腰を下ろした。
背負っているリュックサックから、港で買ったミネラルのボトルを取り出す。
ゴクリゴクリとほとんど一本を飲み干してから、息を吐くと、周りを見渡す余裕が出てきた。
背後には随分と雑草が生い茂っている。一見、そこが畑とは分からない程だ。しかし俊葵はおぼろげな記憶を頼りに目を凝らした。草間に点々とした橙色を見つけると、思わず「お、」と声を上げた。それは例えば、かつて通学路で出会っていた猫が今も健在だったとか、そういう様な「お、」だった。
見回しているうちに俊葵は、今歩いて来た道と、今日の目的地の辺りが今いる場所より低いのに気がついた。どうやらここがこの島の最高峰らしい。
「ああ、だから!コイツを目印に植えてたんだな。」
そう言って俊葵は、ミカンにしてはかなりの大木の幹をトントンと叩いた。
ーーそう言えば、ーー
ふと思い付き、俊葵は座った姿勢で体を捩った。
ーー小学校では、教室外での使用に備えて椅子や机に名前を書く習慣があったな。
ひょっとして、誰か知ってる奴の名前が書いてあったりして、ーー
黄ばんだシールが虫喰いのように残っている。
5年1組…
フッ、
「1組って、クラスは一つっきゃ無かったろがよ。」
そう独り言ちながらも、解読の眼差しは本気を帯びる。
島の小学校は15、6年前から毎年廃校の噂が立っていて、10年前にとうとう廃校になってしまった。
学年毎にクラスが一つづつ設けられるほど児童が居たのは、俊葵の二つ下の学年までだ。
俊葵は立ち上がり、椅子の後ろに回り込んだ。
「は…も…お、い…ん?」
ガバッ、
もう一脚にも顔を近づけた。
「は、し…と…き…え?」
橋本 葵、
橋本 俊葵、
これは偶然だろうか、
背中をたらりと汗が伝った。
その時、道の反対、北の方角からひやりとした風が吹いた。
腹側から入った風が汗で濡れた体をぞくりと冷やす。
くしゃみを一つした。
ふと、あの花の香りがしてきて、またくしゃみを呼ばれてしまった。
俊葵は慌ててフライトジャケットの前を閉める。
「よし!」
わざわざ大きな声を出し、頬をバシッと叩いて気合いを入れた。
そうでもしないと、このまま港へと踵を返してしまいそうだ。
あのえも云われぬ芳香が心の隙間にゆるりと忍び込んでくる。
俊葵を過去へ過去へと連れて行こうとするのだ。
あの家はすぐそこに、
こんにちは、新井 燃え香です。
ご無沙汰してます。
このお話は、pixiv様で書いておりました『風を感じるために生まれた』の俊葵の話です。
『風を…』はBL作品なのですが、こちらはBL要素はありません。ですが、俊葵というキャラクターに感情移入するあまりw、きちんと生かしてあげたい意欲が高まってしまい、過去に文学賞に応募した原稿を叩き台に再度書き起こす事にしました。
近いうちに、『風を…』も小説家になろう様に転載していくつもりです。
もちろん、『アイロニー…』も「みおぎ』もきっと完結させます。w
気長にお付き合いいただけると嬉しいです。