92話『寄る辺なく』
「うぅぅぅぅぅ……」
閑散としたTN社の食堂に、机に突っ伏したナハトの呻き声が響く。
今この場所に残っているのはナハトとイリスの二人だった。
靖治とアリサは買い物に出かけているのだが、アリサの方は眉間にしわを寄せた怖い顔をして、イリスに「あんたはそのエセ天使のこと見張ってなさい!」と言いつけてから店を出ていった。なお靖治はいつものごとくのほほんとした様子で「留守番ヨロ~」と言ってくれた。
そんなわけでお目付け役を任されたイリスであったが、目の前で机に額を擦りつけて片翼を床にまで垂れ下がらせたナハトを見て、どうしたことかと首をひねっていた。
「ナハトさん、どうしたんですか? 落ち込んでいるように見えますが、どうしてですか?」
「いや、まぁ、それは、その、なんというか、えぇ、はい……」
しどろもどろに歯切れの悪い言葉未満の声を並べて、ナハトが気まずそうな顔を上げて見せる。
「わかってますが、過去の行いというものはいつまでも消えずに付いて回るものですね」
「カードに書かれてたカルマのことでしょうか?」
「……はい」
イリスが聞くと、すぐにまたナハトは頭を抱えて顔を俯けてしまった。
どうやらナハトが気にしているのは、冒険者カードに書かれた『カルマ:ヘビィ』の項目のことらしかった。
あれはその人物の過去を何一つ隠させずに洗い出し、その悪行に準じてライト-ミドル-ヘビィの重さに似せた三段階で表される。そのことを聞いてから、ナハトは愕然とした顔で椅子に座ると、こうやってさっきから暗い顔をして苦悩にあえいでいるのだ。
端整な顔を弱気に歪めて情けない唸り声を上げるナハトは、少し間を置いて気を落ち着けると、机の木目を至近距離に見つめながら口を開く。
「どう言い繕おうが、わたくしは薄汚れた女。かつてすがっていた神への信仰も捨てて寄る辺ないわたくしが、誰かと共に歩もうなどおこがましいのでしょうか……」
その言葉について、イリスは相手に向かって唱えられたものでなく、自分自身に対して言い聞かせているような、あるいは問いかけているような言葉に聞こえた。
あまり意味を飲み込めないイリスだが、とりあえずナハトが不安を抱いているのではと検討が付いてきた。
「ナハトさんの言ってる意味はよくわかりませんが、あのカードの記載で特に問題が生じるとは思えませんよ?」
「でも、気味悪がられたりとか……」
「靖治さんがですか? ……うーん、想像できませんね……ありえるのでしょうか……?」
靖治の順応性の異常さはイリスにもそれなりにわかってきている。と言うか平常心のまま自分の首筋にナイフを突き立たせて相手を脅すような人間が、ナハトを軽蔑したりするだろうか。
ないな、とイリスは思った。まず間違いなく、ない。むしろ「それがナハトの個性なんだねー」くらい言って肯定的に受け止めそうな気がした。
多分だが、彼は過去のことはあまり気にしない性格なのではないだろうか。靖治が気持ちは、いつも今いる人と未来へと向けられている。
そしてイリスも、不思議とナハトに対して警戒したり敵視したりするような気持ちにはならなかった。理屈で考えれば信用ならなさそうな人物であるのだが、靖治はこのことを気にしないであろうし、ならばイリスは彼に従おうとなんとなく思えた。
あっ、これって思考放棄や依存というやつでは? これじゃ物言わぬ心なき機械と同じでは? とイリスは少し気になったが、再三思考してみてやっぱりナハトのことは別に問題にしようとは思えない、と結論が出た。
それどころかイリスの内には、不安がってるナハトを元気づけたいという感情があるようだった。
イリスは自分でもちょっぴり不思議だ。靖治を守ることが第一の使命であるこの身が、靖治を害する可能性を秘めた人物を労ろうなど。
でもまぁ、それでいいかと、そう思ったのだ。
「感情の機微についてはまだまだ勉強中の私ですが、ナハトさんが落ち込んでも落ち込まなくても、靖治さんは今までどおりあなたに接すると思います」
「……信頼されているのですね、彼は」
「ハイ! もちろんです!」
ナハトがようやく起き上がって顔を向けてくれて、イリスは握りこぶしを作って明るく頷いた。
「しかし精神状態が不安定なままというのは元看護ロボとして見過ごせません! 美味しいものを食べると元気になるとも聞きますし、何か注文してみてはどうでしょう? アリサさんも、ご飯の時はちょっとだけ口の端っこがやわらかくなってるんですよ!」
「そ、そうですね……では実はさっきから興味があったメニューが……」
そうしてイリスとナハトが、仲睦まじく友好を深めているころ。
買い物帰りのアリサは、食料や弾薬などの荷物を脇に抱えながら目を吊り上げながら怒鳴り声を上げた。
「ゼッテーアイツ何かあるって!」
村の中を怒り顔で歩くアリサを、ポツポツいる住人が遠巻きに眺めてきている。
ナハトのことを指し、必死に警鐘を鳴らすアリサの目の前を、同じく荷物を持った靖治が笑みを浮かべて歩いていた。
「アリサってばこだわるねー」
「あんたも見たでしょ、アイツのカルマ! ヘビィよヘビィ! 普通はあんなになんないって!」
「アリサだってヘビィだったじゃん」
「いいのよあたしは! さっき見たらゴールド-ミドルに戻ってたから!」
声を荒げるアリサは早足で靖治を追い抜くと、前に立ち塞がって足を止めさせた。
柔らかい表情をする靖治を真正面から睨みつけて、神妙そうに口を開く。
「いい? カードのカルマについては、あたしみたいに一時的に重くなるってパターンはそこそこあるわけよ。でもずっとヘビィで固定されてるってのは、確実に過去に数十人単位で人を殺してるやつよ」
「騎士って言ってたし、戦争でそういうこともあるんじゃないかい」
「ところがどっこい、戦争とかでやむを得ず殺した分は結構判定甘いからミドルがせいぜいなのよ。長期でヘビィってのは、相当やらかしてないとまずない。快楽殺人者とかと同レベルなのよ」
「ふむ……」
それはなるほど、アリサが警戒するのも無理はない情報だった。流石にナハトの正体が殺しを楽しむような人であり、今も同じようにありたいと思っているのなら、一緒にいるのは難しいかも知れない。
「やっぱりアイツさ気を付けたほうが良いわよ、ここぞって時に後ろからグサってのは御免よあたしは」
「怪しむねぇ」
「経緯を考えれば当然でしょ」
こうまで言ってもナハトに対して不信感を抱かない靖治に、アリサはため息を吐いて仕切り直す。
「だいたいアイツさ、生きる気無くして放浪して行き倒れたって話だったじゃん」
「うん」
「だったら何であいつあんなに髪の毛整ってんの!? もっと伸びっぱなしになってるはずでしょ!? あいつゼッテーワタクシフコウデスー、みたいな面しながらちょこちょこ自分の見た目整えてたりしてんのよ!」
「あー、気にするトコそこかぁ」
同じ女として、周囲の目を気にするような態度がアリサにとって癪に障るところだった。
だがやはり、靖治は笑ってそれを聞いている。
「そういうのもあるかもね。でもそっか、身だしなみ気にする元気があったなら良かったな、安心したよ」
「だーもう、このポジティブ魔人!!」
どうやっても好意的な態度を止めない靖治に、アリサが我慢しきれず道の真中で叫ぶように問いただした。
「あんた、何でそんなにあのよくわからんエセ天使のこと信じられるのよ!?」
「死にたがってたから」
短い返答に、アリサは不意を疲れたように真顔になって固まってしまった。
周りから見れば喧嘩してるようにも見える二人に横槍しようとする物好きもおらず、道の途中で見つめ合ったまま生ぬるい風が心の隙間に吹く。
それから靖治が口を開いた。
「一つ正しておこう、僕はそこまでナハトのことを信用しているわけじゃない。彼女は道に迷っているようであるし、何かの拍子に僕らが不利益を被る可能性がないとは言わない。ただそういうのをひっくるめても、彼女の願いを聞いてあげたいと思っただけだよ」
「……情が湧いたってこと?」
「そういうことになるね。死っていうものは、できれば最後に待っているものであるほうが良い」
「ったく、男って美人相手だとすーぐこれだ」
アリサが顔をそらしながら陰険な表情をして吐き捨てる。単に靖治のそれが美貌に惹かれたものではないとわかりながら。
半ば諦めつつも、もう一度靖治を見つめる。
「そばに置くならせめて警戒すべきよ。アイツの過去についても根掘り葉掘り聞いてもっとよく知るべき」
「……うん、アリサの意見はわかったよ」
アリサの考えをおおよそ把握して、靖治は改めてナハトの存在を自分の中で天秤にかける。
「けど過去を探ることについては半分賛成で半分反対。お互いの理解を深めるために聞くのはいいけど、無理矢理じゃない範囲で留めるべきだ。ナハトが嫌がるならそれ以上は聞かない」
「どうしてよ」
「じゃあ、アリサは自分の過去について僕やイリスに詳しく聞かれたいかい?」
靖治の言葉に、アリサは再び押し黙された。
視線をそらすと苦い顔をして舌打ちをした彼女は、深い息を吐いて観念したように首を振る。
「誰しも心の傷がある。時には強引に踏み込むことも必要になるかもしれないけど、今はそうじゃないだろう。不用意に傷口を暴いて痛めつけることを僕はしたくないね。僕はナハトを苦しめるために仲間に引き込んだわけじゃない」
「キザなこと言ってんじゃねー。底のほうじゃどうせひ弱な自分を守らせるためにアイツ利用したかったからってくせに」
「ふっふっふ、それはそれ、これはこれだよ」
実際、ナハトの戦闘能力は靖治にとって、彼女の美貌以上に魅力的な要素だ。イリスやアリサでは対応できない部分を、彼女が埋めてくれる可能性がある。靖治が特に期待するのはその点だ。
「それともアリサ、ナハトのことが怪しいとして、君は彼女を追放することが望みなのかい?」
「それは……」
靖治の質問に、アリサは明後日の方を見ながらポツリと呟いた。
「別に……行き場がないのは、みんな同じだし」
ある意味、靖治以上に見捨てられない想いを抱えた彼女に、靖治は眉を下げて申し訳無さそうな顔をした。
誰しも行き場がないのだ、寄る辺がないのだ。靖治だって、イリスがいてくれるから今もなお生きていられるが、彼女がいなければどうなっていたことか。
「意地悪なこと言っちゃったね、ごめんね。とにかくナハトが過去のことを語りたくないなら僕はそれでいいと思う。まあ、警戒するのも良いことだよ、それでアリサが安心できるならそうすればいい。僕やイリスには難しい役割だし、頼んだよ」
「……それ、あたしばっかしんどいんだけど」
「苦労をかけるね」
「もうちょっと労れバカ」
靖治の足に軽く蹴りを入れながらアリサが再び歩きだす。靖治も痛みをこらえて隣に付いていく。
肩を並べて歩きながら、アリサがジト目になりながら呆れた口調で話だした。
「ったく、この優男が。どうせまたアイツになら殺されたっていいとかほざくつもりでしょ」
「んー、そうだなー。でもただで死ぬんじゃ面白くないから、ナハトの心に何か遺して死ねるなら満足できそうかな。死ぬ時は記憶に一生残るくらいとびきりの笑顔がいいな、そうしよう」
「もーやだ、このヘンタイ野郎。自分の命まで使って女のコト弄びやがる……」
「僕が殺されたらナハトのことは恨んでないって伝えといてよ」
「イヤじゃボケ」
「あとお墓にはいちごパフェ供えといて」
「んな金の掛かるものやらねー、自分で食え」




