40話『賢人リキッドネス・ツリー』
「しかし、まさか主人がこのような少年とは思わなかったよ、メイドの君……今はイリスだったね」
自分のコーヒーをスプーンでかき混ぜながらアルフォードが静かに言った。
その言葉にイリスはきょとんと首を傾げて、隣の靖治は少し驚いた顔をする。
「イリス、アルフォードさんと知り合いだったの?」
「いえ、あまり覚えが……」
「十年も前のことだからな、直接話したのは一度だけだったし覚えていなくても仕方あるまい。君は以前、リキッドネス様の依頼を受けたことがあっただろう?」
「十年前……あー、ありました! そういえばあの時、ウサギの耳の男性とも話しました!」
得心して納得するイリスへ、アリサがコーヒーを啜りながら視線を向けた。
「ふーん、あんたファミリーから依頼受けてたんだ。あんまりそういうのしないってウワサ聞いてたけど」
「今までナノマシン技術を探す過程で、何かしらの依頼を請け負うことがありました。情報提供は元より、お金もあったほうが動きやすかったですし――そして、リキッドネスの能力に頼りたい時期でしたから」
「能力?」
面白げな言葉に靖治が尋ねると、イリスの代わりにアルフォードが語り始めた。
「先代……リキッドネス・ツリー様は類稀な超能力を有する方だった。未来予知や読心など、特に受動タイプの能力に秀でていたのだ。そしてその能力に足る知性と慈愛を持ったお人だった」
「へぇー」
「あの黒猫よりよっぽど信用できます!」
「黒猫?」
「あぁ、こっちの話です」
アルフォードが不思議そうな顔をしたが、無名の神の発言に関しては確証がないので黙っていた。
イリスの言葉をまあいいかと置いたアルフォードは、左胸のポケットチーフを手で押さえる。
「リキッドネス様は尊いお人だった。私欲に依らず、より多くの人が幸福に生きられることだけを考え、自らをその礎としてこの街を構築された。私を拾ってくれた恩師だ」
「立派な人だったんですね、イリスもリキッドネスさんに協力してもらったの?」
「はい。十年前、私は行き詰まっていて、今後の方針を占ってもらうべくリキッドネスと接触したのです。謁見した時の画像が残っていますが見ますか?」
「えっ、あんたリキッドネスと直接会ったの!?」
イリスの言葉に、靖治よりもアリサのほうが大きな声を上げた。
「そんな驚くことなの?」
「そりゃそうよ、200年以上も生きて大阪を統治してきた傑物。一言二言の言の葉で未来を変える、力が強いだけとは別ジャンルのバケモンよ。限られたやつしか会えないって話で、あたしだってファミリーの依頼受けたって、一度も会えてないのよ。噂じゃ見ただけで目が潰れる超絶イケメンだとか、マッスルポーズを取っただけで空間を揺らす筋肉モリモリのマッチョだとか、いつもは人目をはばかんでいるけど自分で走り出したら10分で日本列島を横断できるとかって話よ」
「ははは、直に身内の噂を聞かされるとこそばゆいな」
「イケメン……? アリサさんの言っている意味がよくわかりませんが、見せて良いのでしょうか?」
「オッケーだよ、僕は見たい」
「あたしにも見せなさいよ、噂だけで実際に会ったことないのよ」
「はい、かしこまりました!」
イリスは張り切って眼球のプロジェクター機能を発光させると、テーブルの上に画像を映し出した。
靖治とアリサに加え、過去を懐かしむアルフォードも机を覗き込む。
現れたのは、アリサが語ったようなイケメンでも、筋肉マッスルな超人でも、韋駄天の如き俊足を持っていそうなものでもなかった。
大きく、部屋の天井まで禿げた頭の先が達するほど大きく、それでいて全身からブヨブヨに太った肉が垂れ下がってヘドロのように座っている椅子にまでへばりついた、白い法衣のような服を着た人外の画像だった。
その姿を見てアルフォードは嬉しそうに笑う。
「これこれ、これがリキッドネス様だ。すごいだろう?」
「……なにこれ、ブサ」
「あはは、ジャバ・○・ハットみたい」
「これがイケメンなのでしょうか?」
「いや、全っ然違うから」
むしろ美しさから最も離れたような醜い姿に、アリサは眉を寄せてアルフォードを睨む。
「イケメンは?」
「見ての通りだな、毛もない。まあ本人は気にしなかったが」
「筋肉は?」
「9割方脂肪だ」
「スピードは?」
「私が知る限り、あの方が自分から立って歩いたことはないな」
「噂とはまるで正反対だね」
「噂には尾ひれがつくということさ。脅しには有効なんで放置してたし、むしろ我々も面白がって広めてたな」
「誇大広告えげつねー……すごそうなやつを期待してたのに」
「でもこれはこれですごいよ」
「そりゃそうだけどさー……」
どんな異形の化物かと身構えていたら、正反対のこれはこれで化け物じみたものを見せられて、アリサは拍子抜けてソファに背を預ける。
その反応を、アルフォードは愉快そうに目を細めて笑っていた。
「素形については能力の副作用らしい、脳が情報処理の負担に耐えきれるように体全体を最適化させた結果がこれなのだとおっしゃっていた。200年余りを生きてこうなったらしい」
「でもこんな見た目で、言葉だけで世の中動かしてたんだからすごいね」
「おっ、お前もリキッドネス様の素晴らしさがわかるか少年?」
映し出された画像はとてもそうには見えないが、リキッドネスは一応人類系の種である。
プロジェクターを打ち切ったイリスは、過去を思い出してポツリと呟いた。
「交渉の際、直接リキッドネスと顔を合わせましたが、他にないタイプの人だった気がします」
イリスいわく、かつてリキッドネスは言ったという。
その目には静かな湖畔に映る日の揺らめきに似た光を湛え、大蝦蟇のような口から心を揺さぶる不思議な言葉を吐き出した。
『貴方は珍しい使命を背負っている。貴方が選んだその道は、子を慈しむ母の愛のようにとても尊いものだ。その胸に秘めたる願いはいつの日か叶えられるだろう、だがそこからが真の旅路となり貴方を試す』
言の葉を並べるリキッドネスは、内に善悪の業を溜め込んだような醜悪な腕を振り上げ、イリスの未来に希望を見据えていた。
『心するが良い、今はまだ冷たき幼子よ。いずれその胸に、安らぎと苦悩のすべてを抱えながら歩く時が来ることを、そしてそのすべてを天秤に掛け、選択を迫られる日がいずれ来ることを』
「……何だか、その人自身が試しているような感じだね」
話を聞いて、靖治は何となくそう思った。
その言葉に、アルフォードもカップを片手に深くうなずく。
「そうだな、そういう側面もある人だった。決して他人を見下して値踏みするようなことはしない、相手を信じて希望を託しているようなお方だったよ」
アルフォードはウサギの耳を揺らしながら、残ったコーヒーを飲み干した。
コーサーの上にカップを戻しながら、再びイリスへと視線を向ける。
「しかしイリス、君はずいぶんと変わったように見受けられるな」
アルフォードの眼が薄くなり、イリスの姿に過去の彼女が重ねられる。
「昔の君は、表面上は明るかったがどこか冷たい女だった。何事にも関心を寄せず、自分の使命だけに殉じていた」
「そうでしたか?」
「あぁ、笑い顔の裏側では、誰にも気を許さず注意深く相手を伺っていて、気安く食事に誘ったら笑顔でバッサリ断られて思わずゾクゾクして身震いしたもの……おっと、口が滑ったな」
昔から笑っているロボットだった、けれどその内側が空虚だったようにアルフォードは思う。
「だが今は……ほんの少し、表情に心の色が混じってきた気がするよ」
「そう……ですか?」
「色っぽさって話じゃないの? 男ってエロいことばっかりだし」
「まあ、否定はしない」
「ですよね」
「おい、お前ら」
アリサのからかいに、男どもはメガネを中指で押し上げて欲望を醸し出す。
位置を正されたレンズの奥から、アルフォードは今一度靖治とイリスとを見比べた。
「それと……さっきからその少年を気にしてばかりだな」
「そうなの?」
「ハイ! あなたの守護が私の役割ですから!」
僅かな緊張からくる関節部の軋み、視線の移ろい、様々な様子から、イリスがいかに靖治へと意識を向けているのかが読み取れていた。
普通なら二人の関係がどういう背景から来るものなのか気になるところだが、アルフォードはあえて問いはしない。過去は確かに重要だが、それよりも大切なものは今の二人の気持ちなのだ。
この二人がどこへ行こうとしているのか、どうなりたいのか、それこそが未来を決定づける最も大切なファクターだと、アルフォードはそう確信しながら靖治へと顔を向けた。
「万葉靖治クンと言ったな、君はイリスをどうしたいんだ?」
老婆心半分、自分の興味が半分で話しかけてみる。
問いに対し、靖治はハッキリと淀むことなく答えた。
「僕は、この世界を見て回りたい、彼女がそれを支えてくれるならそれ以上の幸せはないです。でもイリスにはイリスの道があるでしょうから、彼女を頼ってもその心を縛らずに、対等にお互いを尊重していきたいと思っていますよ。お互いに自由でいられたらハッピーです」
「……そうか」
良い答えだとアルフォードは思った、自分を持ちながら他人を尊重する、その二つを両立することは人によっては簡単で、しかし意外に難しい。
「そういえば、その頃のイリスはなんて名乗ってたの?」
「特に名乗る名前もないので、昔の型番のXS-556Sと名乗ってました」
「ハッハッハ、私達は単にメイドロボだとか呼んでたな」
今日のところはこのくらいで話を終えることにした。
全員で席を立ち、ゾロゾロと部屋から出たところで、アルフォードはズボンのポケットから三枚のチケットを靖治へと手渡す。
「明日の朝、見習いを紹介して仕事を開始してもらう。今日の所はゆっくりしておいてくれ、今晩の食事券だ」
「ありがとうございます、ゴチになります」
「やりー、タダ飯バンザイ」
今は首にかかった爆弾のことなどは忘れて、三人はひとまず食堂へと向かうのだった。




