4話『満希那&マキナ』
妖しい女の前でころんだ拍子にハイヒールが脱げていたが、今更あんな走りにくい代物に後悔はなく、満希那は一心不乱に足を動かしていた。
「ひぃっ! ひぃっ!!」
悲鳴を溢れさせながら走るあいだにも、まだ空のオーロラはポツポツと新たな異存在を吐き出してきている。
角や尻尾を持った人間、蠢く液体生物、天使と悪魔、自律思考する殺人マシーン、遠くではビルを踏み潰す巨大な鬼のようなものが見えた。
混乱は続き、振ってきた者たちは状況に流され争い合う。車が吹っ飛び、建物が崩れ、そこかしこで爆発音が鳴り響き、悲鳴と雄叫びがこだまする。
「オーロラにドラゴンにロボに化物に九尾!? わ、わけがわからん!!!」
まるで子供のおもちゃ箱をひっくり返したような騒ぎだ、誰にも収集がつかないまま波紋ばかりが無数に広がる。
この状況で満希那が考えられるのは、弟のことだけであった。
「靖治っ! せいじせいじ靖治!! 靖治のとこに行かないとぉ!! ――わぷっ!?」
一直線に走る満希那の目の前に、羽を広げた何かが現れて顔にのしかかってきた。
この状況下で至近距離に何かが飛び込んできたことに、心臓が飛び出るほど驚きながら、慌てて顔にひっついたその毛むくじゃらの物体を引き剥がしたが、手に掴まれたそれを見て思わず脱力した。
「なんだこれ……ネコ?」
満希那が首をひっつかんだのは、誰がどう見ても黒猫であった。
しかしやはりというか普通の猫ではありえない特徴がある。
「……蝶の羽がついてる」
「にゃあーん」
そのネコは首の横から、二対の蝶のような虹色の羽が伸びていた。
身体を半分以上覆う羽を生やしたネコの、不可思議でだがどことなく愛嬌のある姿に気が抜けていたが、すぐに満希那は思い直して走り出した。
「いや、そんな場合じゃない。靖治のところへ!」
「いかん、止まれ」
だが踏み出した瞬間に手の下からしっとりした男性の声が聞こえてきて、満希那は反射的に足を止めると、眼の前にどこからか飛んできた瓦礫が歩道を割って壁を作った。
驚いて数歩下がり、満希那は手に掴んだ羽のある猫をまじまじと見つめる。
「……こ、こいつ……喋った……? はは、まさか……そんな馬鹿な話があるわけ」
「失敬な、ネコが喋って何が悪い」
「やっぱり喋ったあ!?」
イケメンボイスを発するネコにあたふたしていた満希那だったが、驚きをも吹き飛ばすような何かが新たに飛来してきた。
それが着陸してくる前に、本能的に危機感を感じてぞわりと肌が泡立った。目を剥いて首を振り向かせると、10階建てのビルにそれは落ちてきた。
それはビルの天井を突き抜けて、建物の内部を貫通すると、一階まで落ちてきてようやく止まった。
顔を青くして見ている満希那の前で、自動ドアにも反応されない黒い何かが這いずってきた。
それはまるで暗闇がそのまま形だけ持ったような存在だった。もはや生物かもわからないそれは、暗闇の下から薄紫色の触手を無数に伸ばし、動かない自動ドアを通り抜けざまに消失させながら、ビルの中から這い出てくる。
恐ろしいことに、それが這いずったあとの地面には、真っ暗闇が影のように残り続けていた。伸ばされた触手が振り回されれば、ぶつかった物体は音もなく消滅し、軌道上にあった電柱が中腹から真っ二つになり倒れ込んだ。
暗闇に何もかもを飲み込みながら、それはのそりのそりと進んでいく。目が見えないのか平気で路上で見えていた車に突っ込み、炎をも闇で打ち消しながら這いずった。
「なんだ……あれは……」
よくわからないが、あれが一番危険だと満希那は直感でわかった。恐らくはドラゴンよりも、ロボよりも、九尾よりも、何よりもヤバイ。
彼女の手に掴まれたネコが再び口を開いた。
「ダメだな、あれは人にとって良くないものだ。逃げたほうが良い」
ぶら下げられたネコは、暗闇の物体をまじまじと見つめながらそう言う。
「幸い、あれは人には眼中ないようだ。放ってけば追いかけてくることはあるまい」
それはいい、とにかく一秒たりともあれが視界に入るいちにいたくない。あれがその気になれば周囲の生き物は何もかもが意味を失う気がする。
しかし満希那は北路を戻ろうとして、とんでもないことに気が付いた。
「あ、あっちは靖治がいる病院の方だぞ!?」
あの暗闇の化物があのまま進めば、コールドスリープし続けている弟がどうなるか。
寒気だった満希那は、手に持ったネコを放り出して近くのコンビニに停められていた電動つきの自転車を掴んだ。
「何を考えておる?」
「こ、この……!!」
信じられないくらい溢れてきた力で、重たい自転車を頭上にまで持ち上げる。
満希那はよろけそうな足でふんじばって、目の前を行く暗闇に助走をつけて振りかぶった。
「靖治のところへ行かせるかバケモノォ!!!」
渾身の力で自転車を放り投げた。
わずかな放物線を描いて宙を行く自転車は、暗闇の中心部にぶち当たり、音もないまま内部に飲み込まれて姿を消した。
何かを感じたのか、暗闇が振り向いた。実際には振り向いたのかすらわからないが、周りの触手が回転したのだから多分振り向いたのだろう。
そして暗闇から放たれた威圧的な、殺気とも取れぬ奇妙で熾烈な気配に、今度こそ満希那は抗う意を失くした。
「ひっ……!」
思わず悲鳴がこぼれ、生まれて初めて腰が抜けた。
腰だけではない、それに睨まれただけで身体からあらゆる活力が奪い去られたようで、満希那は脱力と緊張の間でその時を待って震える。
やがて暗闇が数本の触手をゆっくりと伸ばしてくる。
眼の前に迫る薄紫色の肉に、満希那は震えながら見入るしかなく、触手の先端が眼前に差し掛かった。
――瞬間、青白い光を放つ巨大な機械仕掛けの拳が、満希那の目の前に打ち下ろされ、暗闇の存在を消し飛ばした。
「あ……」
何が起こったのか、理解に時間を要した。巨いなる拳が持ち上がってようやく、危険な存在が呆気もなく葬られたことに気付き、上を見上げるとそこにいたのは、さっき見たロボットのような青白い機械の人型だった。
だがそれは、決した内部に人が乗っているような平和なものではない。外装の隙間から見える内部には、青い光が血流のように点滅しており、人型から漏れ出す圧倒的な存在感に、それが生きているのだと思わざるを得なかった。
満希那は震える身体で恐る恐る立ち上がるのを、その人型は微動だにせず見下ろしていた。
「なんだんだ……お前たちは……」
理不尽さに怒りをもにじませて静かに唱える。
揺らぐ瞳を向けられた青白い人型は、青い目を宿した顔を満希那に向けながら、平坦な音声を発した。
『当方は汝の言葉を現状説明の要求と解釈し、これに応える。現在、全世界で次元境界面の崩壊を検知、異世界の存在が流入してきていると推察』
それは完璧に状況を把握し、自らの存在を謳い上げた。
『我は、デウス・エクス・マキナ。汝から見て異世界の神である』
遠くで爆発が怒る。紅蓮の先で、さっき見たロボットが複数の化物に囲まれおり、弾切れのライフル放り捨て、ダガーを手に奮迅していた。
『クッソがああぁぁぁ!!! どこだろうと市民を守るのが誇り高き帝国軍人の仕事ぉ!! かかってこいや化物共!!』
別の場所では、際限なく子を産んで人に襲わせているイモムシのような生命体を相手に、勇者たちが苦戦している。
「お互いに離れるなよ! 連携して戦う!」
「くっ、みんな助けたいのに手が足りない……!」
「生き残ることを最善に考えるんじゃ!」
「魔王四天王をもぶっ飛ばした俺の筋肉! 見せてやるぜぃ!!」
ある場所では、地上に倒れたドラゴンの上で、奇妙な念動力を操る毛のない人型生物を相手にして、ボロボロの十二単衣を振り回した九尾が鬼火を叩きつけていた。
「うっがあああ!!! 竜の他にもガンガン出てきよる! せっかく株で儲けて悠々自適のネオニートライフじゃったのに、なして東京で異種間サバイバル!? 妾、元の世界に戻れるんかこれぇ!!?」
誰もが冷静さを失い、戦いは続く。街中で火の手が上がり、どこにも安全な場所などありはしない。
すべてを飲み込んでしまうカオスを背景に、立ちすくむ満希那へと、機械神は語りかけた。
『汝、我と契約するか。されば我は叡智を与えん』
満希那は言葉も出さないまま、体の奥を震わせていた。




