226話『違えず、拒まず、安らかに』
ぬほおおおお、精神ダウナー期なのおおおお。
というわけで心の療養のために何日か休みます、次の投稿は12日の木曜日予定。
ワンダフルワールドで、万葉靖治は目と耳をえぐられ、おびただしい苦痛の中で意識を失った。
一度は決死の覚悟で戦うことを決めた彼ではあるが、その心の片隅で逃げ道を探ししていたのは当然のことだろう。
普通ならそれを願っても存在しないところであるが、靖治はただ一つ、誰にも邪魔されない逃げ場所をしっていたのだ。
無意識の本能が苦痛のない場所を探して動き出し、彼の魂は眠ることを通じてワンダフルワールドを飛び出す。
忽然と消えるように、すり抜けるように、次層の壁を突破して、世界の裏側に潜り込んである場所を目指した。
それは次元光に阻まれた外側に、ある人嫌いの魔女が建てた小世界、人の物語が最後に行き着くターミナル。
黒の記念碑と、そう名付けられた小さな箱庭に、靖治の魂は降りたったのだった。
「――――ハァッ! ハァッ……ハァッ……!!」
椅子の上に腰掛けた状態で安置されていた、平行世界の肉体に憑依し、靖治は目を見開き荒い息を鳴らした。
目に映るのは薄暗い本の山、決して明るい光景ではないのにそれまで光を奪われていた身ではこれでも眩しすぎるくらいだった。
手に力が籠もって手すりを抑え込み、椅子が軋んでギシリと鳴る。
依代となる肉体が死体であるからに発汗はなかったが、それでも靖治は激しい動揺から体をキツく緊張させ、見開かれた眼球を狂ったように走らせた。
いったいここがどこで自分が誰なのか、自己の境界が薄くなって混乱していると、後ろからしわがれた声で話しかけられた。
「大変だったみたいだな」
大人しい声に、それでも靖治はビクンと肩を震わせて驚くと、恐る恐る顔を振り向かせる。
そこにいたのは、いつもどおり本の山に腰掛けた黒の魔女であった。
「シオ……リ…………」
眼鏡の奥に見える眠たげな紫色の瞳に、靖治は力なく名前を呼んだ。
シオリは膝の上に誰かの本を開いたまま、明後日の方向へ手を向けて指をクイッと動かした、すると別の本が一冊、フヨフヨと浮いてやってくる。
お決まりの万葉靖治の本だ、靖治本人がここに来たことで記述も更新されている。
本に手をかざし、手の平から創った魔法陣を通して中身を読み込む。魔法を利用した速読、性質としてはサイコメトリーに近く瞬時に情報を読み取れるのが利点だが、じっくりと読みたいシオリは普段使わない魔法だ。
「そうか、現実じゃ目と耳をえぐられたか」
「ぐぅっ……!」
改めて言われ、靖治は激しい痛みを思い出し、とっさに瞼を強く閉じて目元を手で押さえる。
しばらく身を固めながら気を落ち着かせてから、恐る恐る目を開いて手の平を見つめた。
「ちゃんと……ある……目も、耳も……」
「ここじゃ体は死人の再利用だが五体満足だ。ひとまず落ち着けばいい、茶は出さないけどな」
「……あぁ、ありがとう」
ぶっきらぼうに述べて読書に戻ったシオリに、靖治は心の底から礼を言ってようやく肩の力を抜けた。
意地を張って立ち向かってはみたものの、やはりああまで苦痛を与えられては、精神を大きく削らされざるを得なかった。
光と音を奪われて心を締め付けられ状況から解放され、靖治は意味もなく息を喘ぎながらグッタリと背もたれにもたれかかる。
――疲れた。
一度目を閉じて、傷ついた心を休める。
この身体は良い。服は清潔で、髪の毛は梳かれていて、腐敗などしないようによく整備されている。
痛みや息苦しさはどこにもなく、ただぼうっとしていることを許される。
だが現実において、靖治の状況はただただ過酷だ。
目も耳もえぐられて、どうにもならないほどにまで追い詰められた。
いつかは帰らなければならない現実に、これからどうすればいいのかと考えるが、疲労感の中で思考はぼんやりとして道筋が見えない。
いや、疲れていなくたって答えなんて出ないだろう。何の力もない少年が世界を滅ぼしかねない邪悪を前にして、あらゆる光を奪われながらどう対処すれば良いというのだ。
「イリス……本当に死んでしまうのか……?」
悔しさに眉をひん曲げながら、靖治は背を丸めて呟いた。
靖治は仲間のことを信じている、だからアリサとナハトの二人のことはあまり心配していなかった。
あの場をひとまずでも生き残ったならば、きっと自分の力でこれからも生きていける、二人とも自分の幸せや救いを探していけるはずだ。
だがイリスだけは、あの場で死ぬのだと宣告されてしまった。
こと『死』という事象そのものに執着しているラウルが虚言を口にするとは思えない、イリスが死に限りなく近づいているのは間違いない。
本当にあのまま死んでしまうのか。立ち上がってきてはくれないのか。彼女のためにできることはなにもないのか。
しかしどの思考も無力感のもとに行き詰まり、苦さを噛みしめる。
だが悲観に耽るほどの猶予も、あの者は与えてくれなかった。
「っ……な、なんだ?」
靖治は背筋を毒虫が這うような悪寒を感じ、毛を逆立たせて思考をチュン談する。
誰その本を読んでいたシオリも、同じものを感じて物語の海から顔を上げた。
「今度のお前の相手は呆れるほど不埒だな」
靖治が座っていた椅子のすぐ隣の床に、突如として黒い大穴が空いて冷気が吹き込んできた。
破られた平穏に靖治が息を呑む前で、暗い穴の奥から皺の多い手が突き出てきて、全貌が奥から現れる。
「ほう……魂の緒を辿ってきてみれば、ここは何だ? 世界の外側にこのような領域が作られているとは、興味深いな……」
おぞましい昏い瞳が本の山を見渡した後、恐怖を浮かべた靖治のことを、悪意の塊のような眼光で射抜いてきた。
この眼、その顔、這うようにして現れた姿は、あちらと違って車椅子こそなかったが間違えるはずがない。
靖治が信じたくないほどの不吉をたたえて、ラウル・クルーガーがこの領域にまで侵入してきたのだ。
「こいつ、こんなとこまで……!!」
改めて見た老人の風貌に、靖治は恐ろしさを覚えて椅子を蹴って立ち上がりながら後ずさった。
靖治が悪夢を見たように眉間を歪めるのを見て、ラウルは不気味にニタリと笑って這い出てきた。
「だが貴様は逃さんぞ万葉靖治。我が人生の終焉に貴様の賛辞は欠かせんのだからな」
「ちくしょう! 耄碌したジイさんにこんなところまで追いかけられたくはないぞ!?」
時空の穴から現れて床に体を這わせるラウルは、瞳に強烈なドス黒い情熱を宿しながら、威圧するように指を突き立ててくる。
最悪だ。この男はどれほど靖治が逃げようとも、その一万年の憎悪によってにじり寄ってきて、無限の暗闇に引きずり込もうとしてくるのだ。
「死の因果たるお前が我が死の絶対を否定することは許されん! 過酷なる現実へ引きずり出して、我が死の甘美を受け入れるまで痛めつけて――」
だがその行進を、無音のままに現れた銀の鎖が六芒星を描いて阻んだ。
瞬間的に現れたが物質転移ではない、魔力等により具現化された力の塊。
ラウルと靖治が一瞬驚いて身を固めたと同時に、靖治の後ろ襟が見えない何かに強く引っ張られて毒虫のそばから離される。
六芒の鎖が紫電を発し、音を立てながら急速に輪を縮めて侵入者を捕らえようとしてくるのを、ラウルは後手になりながらも対応するべく魔力を汲み上げた。
「また結界の類か……そのような小細工が!」
次元の壁を超えてやってきたラウルは、ヴォイジャー・フォー・デッドの中枢と至近距離で繋がっているようなものなのだ。
肉樹から抽出した魔力を己の体を通して形にする。両腕を広げたラウルは、自らの腕を複数本の触手状に変化、分解させ、根本に作った射出口から膨大なエネルギーの魔力砲を撃ち出した。
空間を苦しめるようないななきと共に50万人分の魂から放たれたのは、現実を侵食する黒き弾。破壊の意思で放たれた魔力に、鎖は引き裂かれ消し飛んでいく。しかしラウルが真に目を剥いたのは数冊の本が飛んできてからだ。
付近の本の山から、いくつかが無造作に選ばれて飛び立った。
誰かの名を刻んだハードカバーの表紙が盾のようにかざされると、そこに浮かんで正面から魔力の弾を受け止める。
無駄だとラウルが嘲笑う暇もなかった。物語を示す本はただあるだけにして一切の干渉を寄せ付けずに、攻撃を弾き飛ばしたのだ。
「なっ……」
「あまり我が物顔で喚くなよ、ここはワタシの世界だ」
周囲に配置された本を基点にして、再び具現化した鎖による結界が展開を始める。
ラウルは急ぎ触手を刃状に変化、魔力を乗せて渾身の力で叩き込んで、そして傷一つつけれずに跳ね返された。
ありえない、とラウルは震えた。死を求めて暴走状態の魂から取り出した力が、歯牙にも掛けずに打ちのめされるなど。
「魔力により自分を象った分身を送り込み、遠隔操縦か。万葉靖治の存在を利用にして、次元光を貫いて魂の切れ端だけでもここに届けたのは立派だが、それ止まりだな」
「これは……まさかそんな……なんだこれは……この本一つ一つが、世界と同等のエネルギー量だとでもいうのか!?」
「当然だろ。人はみんな脳の中に、自分だけの世界を持っているんだからな」
六芒星の鎖が今度こそラウルの体を締め上げる前で、この小世界の主が老婆のような声で呆気なく言い放った。
ラウルが視線を向けた先にいたのは、眼鏡を掛けたローブ姿の少女。
彼女は本を片手に携えたまま床に降り立ち、ゆっくりとした歩みで前へ出た。
「ごきげんよう、ラウル・クルーガー。こういうのはあまり慣れてないが自己紹介でもしようか、ワタシの名はシオリ・アルタ・エヴァンジェリン・グロウ・テイル。まあ覚えて帰らなくてもいいのだが、どうせお前じゃ活用できない知識だ」
「一体何者だ、貴様……!」
「ただの愛読者、物語の読み手だよ。本当はでしゃばるつもりはないんだがな、ワタシを知る人間など最低限でいいのに、余計なことをしてくれる」
シオリが呆れた声で毒づく姿を、靖治は引きずり離された尻もちを突きながら呆然と見ているしかなかった。
真なる超越者。次元の壁をも己の身一つで乗り越える、絶対的な高位の存在。
そんなシオリはいつもどおりに、つまりは相手を軽く見下した態度で話しかけた。
「ところで一つ良いかなラウル、お前はその力を得るためにどれだけの年月をかけた?」
「……聞きたいのか? 我が一万年にも及ぶ苦痛を」
「あぁ、それは今はいい。ワタシが知りたいのは純粋な数字だ、お前の想念も欠かせない記述だがあくまで補足として後から読みたい、ネタバレは嫌いな趣味だ」
あっさり言い捨てたシオリは、つまらなさそうにラウルのことを見ていた。
「ところで、お前は一万年掛けてその程度のようだが、ワタシは12歳の頃には魔法使いとしての力量は頂点に達し、現在に至るまで横ばいに続いている。これの意味することがわかるか?」
告げられた数字のあまりにもの小ささにラウルは信じられずに言葉を詰まらせた。
たった12年? 馬鹿な、ありえない。
世界を破滅させる勢いで侵略を続けてきたラウルの力は、一万年の無念と憎悪の礎の上に築かれたものだ。
光の差さない石の檻の中、ただひたすら自己の内側で魔術を研鑽し続けた結果だ。
それを、目の前のちっぽけな娘が、たかが12歳の時に超えていたというのか。
絶句するラウルを見て、シオリは「ふっ」と鼻で小さく笑うと、幼い顔で苦笑しながら言葉を続ける。
「別に力量の差を笠に着て威張ろうってわけじゃない、単純な力の有無なんて世界の流れには瑣末事だ。だがなボンクラジジイ、世界を見ていけば、人が持つ力というのは、その人物のバックボーンと物語の厚さに必ずしも比例するものではないんだよ」
シオリはふと底のない天井を仰ぎ見て、話し相手から視線を外した。
「産まれた時から世界を揺るがすほどの力を備えていながら、終世それを使わずに人生を終える人がいる。その一方で、数万年の歳月を生き、大勢の人と関わり助け続けたにも関わらず、大した力を持ってはいないやつもいる。長く生きてるからって強くなれるわけじゃないんだよ」
続く言葉の宛先は朧気で、シオリは誰に伝えるでなく自らに問うかのように語っていく。
「人が得る力、備える因子、あるいは宿命を超克していく者、それらは天才にすら計り知れない何かに沿ってのものなのか? 一体、何が運命を分けるのだろうな。生と死の狭間、幸福な者と不幸な者、ワタシもその答えに興味を抱いているが、実際のところは皆目わからない」
多くの人生を見てきたシオリの眼はまるで、過ぎ去る時の流れの底に沈殿した、人々から忘れ去られた何かを見つめているかのようであった。
究極的な命への疑問を投げかけながら、シオリは再び視線をラウルへと戻す。
「お前は一万年分の怨念を着て強くなった気でいるが、その程度、なんとでもなるのが世界の常だぞラウル。ワタシはお前を見下しているし、実際にここで下してやってもいいんだが、どうせワタシがやる必要もなく他の誰かがお前を退けるだろうよ。一万年のはるか過去に向かう老僕を叩きのめす力が、未来を目指す者たちの中からきっと現れる。それは些細なきっかけで、小さな火の中から生まれ、そいつはお前を超えていくだろう。その救いの時を待ちわびていろ」
話すべきは済んだ。シオリは魔力を練り上げてラウルの頭上に固めていく、。
リソースのことなら心配しなくたって良い、この小世界に溜め込まれたあらゆる人々の記録そのものが彼女の力だ。
無造作に積まれた本の一冊一冊が『本物の物語』を触媒として、世界の裏側に広がる無秩序の闇から力を取り出した、世界創造にも等しいエネルギーを保存する魔力タンク。
何万回何億回も世界を燃やし尽くしてなおも有り余る力を無造作に扱いながら、魔女は薄く笑ってラウルのことを見送った。
「それじゃあな、あるべき場所へ帰るといい。なに、せいぜい好きにやれ。お前の物語の終幕に期待している」
振るわれる力の大きさに、ラウルも靖治も何も言えなかった。
集められた魔力による光柱が降りかかり、神をも凌ぐ鉄槌がラウルを中心として突き立てられる。
目がくらむほどの光線ともに、ありえないほどの圧力がラウルの体を叩き潰し、衝撃の余波が暴れ狂う。
遠目に見ていた靖治も吹き飛ばされそうになっていたが、シオリと彼女が集めた物語にはそよ風のようなもので、彼女も本の山も暴風の中で微動だにしない。
眩しさに目元を腕でかばっていた靖治が、光が止んでから腕をおろした時には、ラウルの姿はどこにもなく、ゆるやかに立つシオリが泰然と佇んでいるだけだった。
「思わぬ収穫だな。やつはテイルネットワーク社に登録したことはなかったが、今ので魂の繋がりができた。これでラウル・クルーガーの本が読める」
シオリがそう呟いてホクホクと嬉しそうにしている横顔を、靖治は一言も口を挟めずに見ていた。
あのラウルが、まったくほんの少しも牙を突き立てられないまま退去させられた、正に別格だ。
これが世界を渡り歩ける超越者の実力なのかと靖治が固まっていると、唐突にシオリは首を振り向かせて顔を向けてきた。
「さてと、読書スペースの掃除は済んだ。お前はどうする万葉靖治」
「どうするって……」
眠たげな視線で射抜いて問うてきたシオリに靖治は思わず口ごもり、いつもは他人の旅路に口出しなどしない彼女が唇を開かせる。
「別に、ここに残ってもいいんだぞ」
思いがけない言葉に、靖治は呼吸を忘れた。
「ワンダフルワールドに戻っても助かる見込みは少ない、下手をすれば地獄の苦しみが永遠のごとく続くだろう。だがここなら安全だ。別にワタシは付き人など必要ではないが不要でもない。部屋の隅っこで置物になるくらいは許してやってもいい」
そしてシオリはレンズの奥から思慮を忍ばせて見つめてきて、改めて尋ねるのだ。
「どうする?」
シオリの提案を聞かされた靖治は、あぁそれはいいなと率直に思った。
ここには絶対の安全がある。シオリを前にしてはラウルすら太刀打ちできない。体は死体であるが、本来の肉体よりもむしろ快適なくらいかもしれない。
ここで傷つかず、老いもせず、シオリとともに長い時間を静かに過ごす。
一緒に本を読んだり、おやつを食べたり、時にはシオリとゲームで遊んだりして、そんな穏やかさが何百年も何千年も続くかもしれない。
シオリの柔らかい毒舌を楽しみながら生きる道は、きっと自分の気性にとても合った日々であろう。
魅力的な選択肢を掲示され、靖治はその未来を想像すると安らかな気持ちでいられた。
「ありがとう、シオリ。君の優しさは温かい。けど行くよ」
靖治の決意を、シオリはじっと聞いていた。
彼女がこの提案をしてくれたことは、靖治にはとても嬉しかった。
だがそれでも、靖治はすでに自分の取るべき道を決めていたのだ。
「あっちにはみんながいる。例え残された可能性がゼロに近くても、まだ仲間のためにやれることがあるなら僕はそこに行く」
未来の不安にわずかに震え、強張り、だが澄み切った、覚悟のある声だった。
言葉に囚われずに自らの人生を生きようとする彼の言葉を、シオリはしかと受け止めてしばし目を伏せ、時間をかけて瞳を開いた。
「……そうか、それがお前なんだな万葉靖治。なら行くといい」
シオリは踵を返して床を蹴り、先程と同じ本の山に乗って再び本の開いて日常に戻り始める。
彼女は他人の道を止めない、阻まない。靖治の決意に邪魔をせず、ただ行く先を見届けようとする。
「一つだけ、ここまでワタシに付き合ってくれた義理に、アドバイスをくれてやる。お前にはもはや光すらなく音すらなく、だがそれでも残されたものがある」
腰を落ち着けた彼女は、最後に一度だけ靖治へと目を向けた。
「先に待つのが無明の地獄でも、その胸にまだ燃える篝火があるのなら、その原始の火に向かって思いっきり祈れ。渾身の力で、万感の想いで、過去を賭して、未来を懸けて。そうすればもしかしたら、お前の声もどこかに届くかも知れない。人はみんな、それくらいの可能性を持って生まれてくるんだからな」
優しい希望を語りながらシオリは本の文字を指でなぞる。
そこに書かれているのはどこかの誰かの物語。靖治と同じ重病患者の女が、家族の励まされて死の淵から蘇った話だ。
当事者たちが奇跡だと泣いて喜んでいる場面に視線を落とし、シオリは勇者へと言葉を送った。
「お前はそれをもう知ってるだろう? 万葉靖治よ」
人を愚かだと嫌う魔女に靖治は熱いものを呼び起こされる、と同時に彼の意識が急速にこの小世界から抜け出し始めた。
靖治が本来の居場所に戻ろうと心の底から思えたからだ。
彼の意思に呼応して、仮初の肉体に収まっていた魂が本来の居場所へと向かい始めていた。
相変わらず難敵が相手で、状況は悪く、彼の心には恐怖があった。
ただそれでも、靖治は希望を胸に抱いて帰って行くことができたのだった。




