223話『意地』
「イリスが死ぬ……このまま……?」
ラウルから教えられた事実に、靖治はクラリと頭が歪む感覚があって、床に手を突く。
ただでさえ眼孔の痛みと疲労で朦朧としたところに、この精神的ダメージは靖治を揺らがすのに十分すぎた。
吐き気がする、心が暗闇に滲んでどうして自分がここにいるのかわからなくなる。
自分が死ぬことは構わない靖治でも、イリスの不幸は耐えられない。
明らかに覇気が抜け落ちていく靖治の後ろ姿を見ていたラウルは、車椅子の上からわずかに同情するように首を振った。
「不憫よな、しかし好都合でもある。お前には我が同胞となってもらわねばならんのだ。そうでなければワシの気が済まん」
憐れみを抱きつつも、強情にもエゴを表せるラウルは車椅子から生やした触腕の一本を掲げ、その先端を研ぎ澄ます。
「ワシの一万年と同じ、何も視えず、何も聴こえず、誰にも触れてもらえぬ、暗黒の世界に落ちるがよい」
ラウルの行動に慈悲はない、ただ己の欲求のままに背を丸めた靖治をも毒牙に掛けようと後ろから襲いかかり。
――やめて!!――
そこに、靖治の懐から飛び出てきた光球がラウルの顔にぶつかって視界を遮った。
音もなく飛び回ってラウルの周囲を撹乱しようとしてくるそれに、ラウルは片眉を吊り上げると自らの手を持ち上げる。
「羽虫が……こんなものが手引していたとはな!」
魔力を腕に込めたラウルが、昨日の青騎士との邂逅から得たデータを元に対霊体術式を組み上げ、拘束魔術を光球にむかって発動させた。
鎖のように連なった文字列が二重に光球を縛り上げ動きを止めると同時に、その真の姿を露わにさせる。
光の内側からぼんやりと現れいでたのは、長い髪を伸ばした年端も行かぬ子供、天羽月読の姿だった。
―――きゃっ!!―
「霊体か。昨晩の青い騎士の霊と似ているが、微妙に違う性質を持っているな」
青騎士ロムルは本来ならこの世から去るべきを己の意思力により縋り付いたものであるが、月読はそれとは違い本人の意志とは別にここに連れてこられた存在だ。
そこに何かを感じ取ったラウルは、拘束された月読を興味深げな眼で見上げる。
「お前、今回の襲撃にあたって侵入してきた者ではないな。此度の戦いはイレギュラーが多すぎると思ったが、そうかお前が最初から潜んでいたのか……」
思案したラウルは拘束術式から月読の魂を詳細に読み取ると、別の魔術を起動させて月読のデータを元に災厄術式の中枢部分を調べ始めた。
「検索に一件ヒット。同一の波長を持つ人物が肉樹内部に収納済み……そうか、別世界の同一人物か! 死後の魂が、同じ人間に惹かれてきたか! この世界ならそういう偶然くらいはあるだろうが……妙だな。例え同一存在とは言え、それだけで引き寄せられるはずがない。それならばもっと多くの霊体が侵入しているはずだからな」
「だが見たところお前一人、何か特別な才能でもあったか……それとも他に要因が……?」
――……死んだ私がどうしてここに来たのか、私にもわからない。でも呼ばれた理由はわかる――
「なに?」
――ここにいるみんなが、あなたから解放されることを望んでいるから。あなたは倒されるべきだから、私もここに来たんだ!――
年若くして死んだ魂でありながらも、その言葉は透き通った鐘の音のようだった。
けれども強い訴えを聞いたラウルは、悲しげに目元を伏せて吐き捨てる。
「……下らん。悪が淘汰されるべきなら、何故ワシは一万年ものあいだ閉じ込められなければならなかった」
ラウルは苦虫を噛み潰したような顔をして、拘束魔術ごと月読を動かして肉樹の壁面へと叩きつけた。
単独で戦う力を持たない月読はなすすべなく、ひび割れた内壁からに肉樹へと埋め込まれていく。
「戦いは続く。ワシは世界を死の霧で覆い続ける、そのためにも不測の事態には備えねばならん。貴様は霊体のサンプルとして実験材料になってもらおう」
――そんな…………っ――
複数の封印結界で厳重に蓋をされ、月読の存在が蓋を閉じられていく。
その光景を、靖治は見ることは出来ないまでも耳で聞いて感じ取っていた。
イリスの傍らで座り込んだ靖治は、愕然として何も出来ずにいた。
正直打つ手がない、行動しようにも何もかもが無謀だ。
わからない、何をすればいいかわからない。
迷いを感じた靖治は、無意識の内にイリスへと手を伸ばしていた。
横たわったイリスの胸の上に手を添える。服の下に広がる金属の感触があり、その下から弱々しいコアの鼓動が伝わってきた。
人間を模して作られたらしきイリスの鼓動は、段々とゆっくりと、死へと近づいていっている、これを止めるすべを靖治は知らない。
もう諦めても良いかもしれない、これまでの人生もずっとその繰り返しだったのだから。
もはや進退窮まった、行く先が破滅しかないのなら「それならしょうがない」と腹をくくって大人しくしてもいい。
どうしても降りかかる苦痛が嫌ならば、ラウルの言葉くらい認めてやっても良いかもしれない。死ぬほど悔しいことだが、死ぬことすら受け入れている自分なら、そんな情けない自分も許せるだろう。
でも、死に逝くイリスは”まだ”生きていた。
「…………何のつもりだ?」
背後から飛んできたラウルの声の位置から、自分が立っていることに靖治は気付いた。
自分が何をしようとしているか知った靖治は薄く笑うと、目が見えないにもかかわらずしっかりとした足で振り返る。
「僕一人なら……何もできずに逃げ惑うしかなかったかもしれない……」
靖治は怖かった。立ち向かっても無駄なのはわかりきってた、それどころか抵抗すればするほどラウルは余計にその意思を挫こうと痛めつけてくるだろう。
それでも靖治は、目も見えないくせに拳を握って胸の位置で構えた。
「でも、イリスがいるなら、戦う」
「……正気か? 痛みと恐怖で頭が壊れたか? そんな状態では何もできないし、そもそもその機械はじきに人間で言う死を迎える、何の意味もない」
「あぁ、そうだ、意味はないだろう。それがどうした」
意地になってるだけだ、そんなことはわかってる、でも靖治にはこれだけは捨てることはできなかった。
「僕は……生きるためにずっと、いくつも諦めてきた……」
絞り出した声は、靖治が思ったより何十倍も熱かった。
「本当は、たくさん友達を作って一緒に遊びたかった。熱い日の下でサッカーをして、友達の家でゲームして、映画館で笑ったり熱くなったりしたかった……学校に行ったら肩を並べて勉強して、運動会で家族の前で目一杯走って見せたかった……街を自由に歩いて、色んな場所に行ってみたかったんだ……」
短い半生を振り返り、次々と捨て去ってきた情景が胸の奥に蘇ってくる。
「父さんと母さんにずっと心配をかけた、姉さんに与えられるはずだったたくさんの時間を僕が奪った。苦労を掛けるのは嫌だったけど、嫌がることを諦めて、生きるためにしょうがないって言葉で何もかも済まして、残されたものだけで笑って生きてきた。新しく何かを捨てる時が来ても、いつだって笑って手放してきた……」
そうして靖治は可能な限り身軽な体と心で、綱渡りの人生を歩いてきた。
だから靖治は決断の時に迫られれば、自分の持ち物ならば何だって捨てることができた。
「だけど、イリスの未来だけは諦めない。僕を助けてくれたみんなには、僕よりずっとたくさん幸せの中で生きて欲しいから」
腹から声が出る、絶望的な状況なのに細胞の一つ一つに力がみなぎってくる。
それが生きるためにすべてを捨て尽くしてきた男が、それでも”諦めたくない”と歯を食いしばって手を伸ばせる答えだった。
「例えイリスが死ぬのが一分後でも十秒後でも、イリスのためにやれるだけのことは何だってやる……彼女がまた立ち上がってくれた時のために、僕が先に挫けていられるか……イリスのための道を、僕が作るんだ……!!」
薄ぼんやりしていた少年が、凄まじい執念を背負って立つ姿に、ラウルは口をつぐんで食い入るように見つめていた。
何の力もないと諦めているはずなのに、その下から這い上がろうとする男は、握った拳を振り上げて我武者羅に突撃した。
「うわぁああ!!!」
何も見えない中で声だけを頼りに殴り掛かる。
だがあまりにも闇雲な攻撃だ、ラウルが少し車椅子を引いただけで方向は外れ、そもそも靖治が殴りつけた位置はラウルが元いた場所よりかなり手前だった。
拳が空を切り、靖治はバランスを崩して、派手な音を立てながら倒れ込んでしまった。
完全にラウルの居場所を見失ってしまったようだが、息遣いに焦りを浮かばせながら必死に起き上がろうとしてくる。
「はぁ……はぁ……クソ、このっ、どこだ!? どこにいる!! そこかっ!?」
まだ靖治の左腰には拳銃のグロックがあったが、暗闇の中で使うのは却って危険だ。
冷静に、けれども無鉄砲に、靖治は立ち上がって拳を振り回し、なんとか少しでもラウルに仇なす可能性を作ろうと暴れ回る。
その無力で健気で、けれども気高い姿に、ラウルは力なく首を横に振った。
「……ワタシの世界に、もっとお前のような男が多ければな」
けれどもラウルは手心を加えない、慈悲を持つにはあまりに遠くに来すぎた。
次の瞬間には伸ばされた二本の触腕が、両側から靖治の頭部を襲い、耳の穴から鮮血を飛び散らせた。
「ぐっぁぁああああああああああああ!!!」
眼孔の痛みにも負けぬ感覚が迸り、靖治は絶叫をあげたが聴こえなかった。
両耳から血を垂れ流す靖治はいよいよ痛みに耐えきれず膝を突き、床に崩れ落ちる。
ラウルが凶器から送り込んだ魔力が靖治の命を無理矢理延命させているが、そうでなければとっくにショック死してもおかしくない。
倒れ込んだ靖治が体をビクビクと痙攣させる姿を見下ろして、ラウルが肩を落として聞けるはずもない言葉を投げかけた。
「鼓膜は愚か三半規管まで破壊した、これでもはや立ち上がることも……」
その言葉の途中で、靖治の拳が床を叩いて黙らせた。
血を流す彼は、身をねじ切るような痛みの中で、それでも声を絞り出して床の上でもがいた。
「い……りす……まだ…………っ」
尚も立ち上がろうとして、しかしその途中でバランスを崩して倒れ、それを繰り返す。
どうしても靖治が抵抗の意思を見せるなら、ラウルにはこれを排せねばならなかった。
「……仕方あるまい、手脚を切り落とすか。何、死なせはせんよ」
触腕を振り上げて狙いを定める。一本ずつ切断すると同時に、死なないだけの治癒だけをすればいい。
「これで終わりだ。暗闇の中でもがくのに飽いたら、ワシと共に死を求めようぞ。お前という男に理解してもらってこそ、死の奇跡も有り難みがある」
そう唱えて、無力な靖治に悪魔の鎌が振り落とされようとする。
その刹那、ひときわ大きな銃声が響いたかと思うと、ラウルの胸にめり込んだ銃弾が車椅子ごと不死者を押し倒して、靖治を襲った触腕をギリギリのところで退けた。
倒れ込んだラウルは、虚の外に広がる暗雲を見上げながら、理解が追いつかず血を吐きながら疑問を顔に浮かべる。
「グッ……カッ……?」
かなり威力の高い弾だ、一撃で胸部周辺が破壊された、いやそれよりも誰が撃った?
触腕を支えに車椅子を起き上がらせるラウルが見たのは、靖治の体を左肩に抱えて、右手に太いリボルバーハンドガンを構えたハヤテだった。
血を流し、靖治ともども辛そうであるのに笑みを絶やさず銃口を突きつけてくるチンピラみたいな狼人に、ラウルは損傷修復しながら再びの憤りを発した。
「キッサマァ……まだ邪魔をするつもりか」
「グヘヘ……ゴキブリみてえにしぶといのが、オレらロクでなしの長所でい」
「抜かせ、分別の付かん馬鹿者が。最早何も出来んくせに、虫の息で出てきてどうなる」
無力と言うなら靖治だけでなくこの男もそうだ。傷だらけで、封印術も破られて、この状況下でラウルに対抗する術はない。
にも関わらず、逃げ出すでもなく立ち向かってくるなどと、理解できぬとラウルは吐き捨てた。
するとハヤテは短く唱えた。
「2分19秒」
意味不明の時間にラウルが顔をしかめる。
ハヤテは薄気味悪い笑みを浮かべたまま、したり顔で言ってみせた。
「コイツが拳を握ってから、オレが割って入るまで稼いだ時間だ」




