221話『想念の大穴にて』
2月24日
休むぅ~
跳ぶ。跳ぶ跳ぶ跳ぶ跳ぶ跳ぶ跳ぶ跳ぶ跳ぶ、跳ぶ。醜悪な肉の檻が人生を閉じ込めようとしてくるのを、ハヤテは必死に脚に力を込めて、自由を謳歌するかのごとく跳ぶ。
だが触腕の下をくぐり抜け、床を跳ねて風を巻き起こすたびに全身に負担が襲い、灰色の毛の下では皮膚が裂けて出血が始まっていた。
身に宿すのは五千年も生きた大化性の力。例え9分の1の分霊であろうと、たかだか100年程度しか生きられないハヤテの矮小な器には大きすぎる。
九尾の力の本質など害毒に極まりない、脚を突き出すだけで肉が爆ぜて骨が蝕まれる、まるで血の中で爆弾が暴れているかのようだ。
身体能力と同時に治癒力も底上げしているが、治るよりも壊されるほうが遥かに早い。
けれどもハヤテは一切顔に苦痛を表さない、それどころか全力を発揮して肉体を跳躍させる奮う楽しさに喜び狂って空間を駆け抜ける。
触腕を蹴り飛ばした時に血が飛び散り、肉樹の虚を紅く染めていく、その後ろから彩衣の言葉がハヤテへと囁かれた。
『それでどの手を使う?』
「ベタなとこだが封印術だ、不死相手ならまあこれだろ」
『安牌じゃな、じゃが何を使う?』
目の前には一万年を超えた不死ラウルが車椅子に座しながら、鋭い眼差しに剥き出しの殺意を表している。
殺すのはほぼ不可能、なら代替案として考えられるのが封印による無力化だ。だが臭いものを閉じ込めるとなれば箱が必要だ。
『封印術とならば、相応の入れ物がなければならぬぞ。対象の肉体を変質させて魂を封じるのや、空間そのものに閉じ込める方法もあるが、それには時間帯や環境を整えねばならぬ。ここは敵の城、利用できるものなどそうはないぞ、どうする?』
「――いや、ある!」
グッと脚に力を込めたハヤテが一度の跳躍で一気に距離を詰め、ラウルの頭上から右手に伸ばした爪を叩きつけようとした。
ただの牽制の一打であるがラウルは最大級の警戒を持って受け止めようとする。魔法陣を浮かばせて五重の魔力防壁を作り、更にその下から肉を研ぎ澄ませナイフのように尖らせた触腕の一突きを繰り出した。
金色の霊力をまとったハヤテの爪が目の前の防壁をガリガリと砕き崩して進み、五枚の壁を超えて威力が弱まったところで肉の刃が手の平を串刺し血を撒き散らした。
しかしハヤテは怯まない、むしろ痛みを覚えながらも更に愉しそうに顔を笑わせる。その姿を見て、ラウルが恨み深い眼で睨み上げた。
「忌まわしい……忌まわしいぞ貴様。今までワシの前には多くの若者が立ち塞がった、その誰もが彼らなりの高潔さをたたえてワシに抗おうとしてきたというのに、何故、私利私欲だけでそこまで戦える……!?」
「へっ、ジイサンがそういうやつ以外、見てなかっただけじゃねえのかい? オレなんてそこらのヤンキーと変わりねえからな!」
ハヤテは貫かれた右手に力を込めて引き寄せると、反対の拳を振りかぶりラウルの顔面を殴り抜いた。
だがその程度ではラウルもまた怯まない、痛みなどとうに忘れた身であるのだ。老いぼれは自らの手をかざすと、魔力波による一撃でハヤテの体に浴びせ、遠方へと吹き飛ばした。
「チンピラがそんなにも必死になるか!! 血まみれになってなぜ笑みを崩さん。理解できぬわ」
「楽しいぜ、オレぁ今生きてるんだ! 身を燃やし、魂を燃やし、オレはいま『人生』を走ってる、コレ以上に楽しいことがあるかよ!!」
体勢を整えたハヤテが、風穴の空いた右手を急速再生させ塞いだ後、ブンブンと振り回して調子を戻す。
しかし無理な再生で皮がなく筋肉だけを繋いだだけだ、こんな無理な再生を続ければ遠からず死ぬだろう。
死を隣りに置いての決死の戦法なのはラウルにも見て取れた、にも関わらず人生の素晴らしさを謳うかの如き狼人のふるまいに、ラウルは震える手で胸をかきむしって恨みを吐き出した。
「楽しいだと!? ワタシはこんなにも努力し、身を尽くし、すべてを捧げた末に奇跡を、人生の成果を成そうとしているのに、そんなワタシを前にして楽しいだと!!?」
狂乱して怒鳴り声を響かせるラウルの切迫した様子を前にして、ハヤテは襟首を引っ張って胸元に風を送りながらおかしげに笑っていた。
「ククク、だから言ったろラウル。真面目すぎだぜアンタ」
軽薄に言い捨てられて、ラウルが目元を深く歪めて憤怒を浮かび上がらせ、椅子の肘掛けを血管が現れた手で握りつぶした。
「吹けば跳ぶような脆弱な命の癖して、死に急ぎながら楽しいなどと言えるなら、ワシよりお前のほうがよっぽどバケモノだ!!」
「だったらバケモノライフを満喫してやるぜヒャッハァー!!!」
調子づいた歓声を上げてハヤテは身を横向きに回転させると、金色の尾を大きく伸ばして遠距離から直接横薙ぎに振るってきた。
だが悪手だ、不死者相手に真正面からの攻撃など愚行、ただ相打ちになるだけでただの生者は一方的に被害を受ける。
ラウルは横から襲いかかってくる金色の柱に見向きもしないまま魔力防壁を展開し、八本の触腕すべてに呪詛を込めて槍のように突き出した
強烈なハヤテの一撃の前に防壁は四散、触腕は突き刺さりながらも破壊され車椅子ごとラウルの体が吹き飛ばされる。
だが今の反撃でハヤテの受けたダメージのほうが大きい。打ち込まれた呪詛が肉を腐らせ、尾から茶色い煙が吹き上がり溶けた肉が床に滴った。
対するラウルは全身の骨が砕け、内臓が破裂し、目玉の片方が衝撃のあまり飛び出したがそれだけだ。ひしゃげた車椅子ごとすぐさま再生を開始し、眼球が元通りに収まった顔をハヤテへ向けて鼻で笑う。
「そんなものか、やはりただの人など軟いものだ」
「あぁそうかい。だがこっちはもう準備は完了したぜ、見てみなオレの星を!!」
「何……?」
星という言葉に一つの予感を覚え、ラウルは視線を周囲の床へと向けて見渡した。
先程からハヤテの体から飛び散っていた血液が、いつのまにか床の上を滑って秩序ある図形を描き始めていた。
吹き飛ばされたラウルが座す位置を中央とし、描かれているのは真円とその内部に収まる星の形。
「この陣は……血で描いた五芒星か!」
「テメェは言ったな!奇跡を起こす条件は、多くの人間の想いが集まることだと! 同感だぜ、そしてここにもそれはある!」
ハヤテは五芒星の魔法陣の端でしゃがみ込むと、血に塗れた両手を床について霊力を送り込ませる。
すると陣が紅い光を放ちながら浮かび上がるが、異変はそれだけにとどまらない。この陣形に呼応する形で、肉樹そのものが激しく揺れ動き、脈動を開始した。
本来の支配者であるラウルは即座に理解した、この男は再び災厄術式に働きかけている。
だがやり方はさきほどとは大きく違う、術式そのものをハッキングして掌握するのではなく、新たにまったくべつの回路を張り巡らせているのだ。
侵食が止められない、霊力の回路は術式を構成する魂たち、つまりは取り込んだ犠牲者たちの魂を渡り歩くかのように繋がっていく。
「ここで取り込まれた奴らは、苦しんで死にたいって夢の底でのたうち回りながら、自分をそこまで追い込んだやつへの恨みは決して忘れてねえ! 心の海の底の底、イドの深淵で復讐してやりたいって爪を研いでるぜぇ!?」
繋ぎ合わされた霊力の糸が、死にたいと願っていた人々の心に食い込んで、奥底に隠し持っていたラウルへの反逆心を引き出した。
虚の内側に浮かび上がった犠牲者たちの顔は苦痛に塗れたままであれど、そこから今までにない声が沸き立つ。
――おぉ! おおおぉ!!――おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!――
まるで歓声のように、戦いに赴いた戦士が覚悟を歌うかのように、強く生気の溢れる雄叫びが木霊する。
復讐の機会を得た者たちが、無意識のうちなれども心の刃を具現化させる。
虚の内側に浮き出ていた苦悶顔の喉奥から、紫色に光る糸のようなものが次々と伸びいでると、それらは宙空で紡がれてまとまっていき、太ましき五本の注連縄の形をなした。
「霊力全開放!! 連綿と紡がれる怨嗟の糸、苦痛は捩り狂うて縄と成る。テメェが創り出した死の城そのものが、お前を縛る要石だ!」
ハヤテの霊力が床に描かれた五芒星に注ぎ込まれると、五つの頂点から五つの柱がせり出していく。
このそびえ立つ五本の柱の周りに注連縄が張り巡らされ、縄のいたるところから雷を模して邪気を祓う紙垂がたらされる。
そして完成した結界の中心、ラウルの直上部分に黒い意思が集まって渦巻くと、人一人を飲み込む程度の球体を創り上げた。
「封印結界、応報螺旋大縛海!!!」
逃れ得ぬ五方の結界の内側で、ラウルが頭上を塞ぐ黒き球を見上げる。
その直後、ラウルの体が車椅子ごと重力を無視して浮かび上がり、椅子から生えた八つの触腕が球体に吸い込まれそうになる。
「この、球体のようなものは……」
「お前に踏み躙られた者共の想念をもって生み出された封印の異界。喜べよ、お前専用の異世界だぜ」
この場に生まれた新たな小世界、ラウルだけを招く封印に触腕の一本が引き寄せられて捕まると、猛烈な勢いで内側に飲み込まれ、ラウル自身もまたとてつもないパワーで吸い込まれた。
「おおおおぉお!?」
「テメェが集めてきた、50万人分の怨念の海に沈んでいきな!!」
苦悶の声が凝縮され、人の魂50万に相当するだけの霊的質量を持った黒い球体は、さざなみすら立たぬ引力の海。ブラックホール。
ラウルの体を掴み取り、超重量により引き寄せて内側へと沈め込める。
球体の中に落ちて行くラウルはもがくように触腕を振るわせるが、あらゆる力が押さえ込まれ内部に格納されていく。
八本の触腕はそのことごとくが飲み込まれ、それらを自切し単身逃れようとしてもなお、浮かび上がったラウルの体は逃げられず、老人の半身が球体に埋まった。
ドプンと水たまりのような球体に身を埋めたラウルは、一瞬不愉快そうに顔を歪めながら、急速に異界の内側に飲み込まれ、完全にその姿をこの世界から消した。
できあがった封印結界を見上げて、ハヤテに取り憑く彩衣が気を抜いた様子で息子に話しかけた。
『終わったか、自業自得と言うやつかの』
「…………いや」
だがハヤテの口から零れた言葉は否定であり、それを正しいと認めるかのような声が響いた。
「――――下らん。まったくもって下らん、そうするしかないのはわかるが、だからこそ呆れてしまうな」
しわがれた声が彩衣の心胆を凍えさせる。
ハヤテが予想しながらも引き攣った表情を見せる前で、球状の異界に白いヒビが走った。
わずかな穴でも開けば、後はもう簡単だった。
「一万年の昔、ワシを封じた者共と同じことをするとは。ワシは封じられた一万年、望みを抱き続けられてきた魔術師なのだぞ?」
異界の周囲に、新たな魔法陣が展開された。
前方に、後方に、右方に、左方に、上方に、下方に。
全六面に敷かれた魔法陣から、銛のように固められた魔力がいくつも内側に伸びだして、異界の外側に突き刺さった。
「その一万年を、石の中で何の努力もせずに閉じ込められていただけと思うのか。意味もなく怠惰に時を過ごしていたとでも思うのか」
重い声とともに魔法陣から現れた魔力の塊が異界の殻と繋がると、ヒビをこじ開けようと全方位に引っ張り始める。
ギリギリとこじ開けられ、異界のヒビが全体に走っていく。復讐の黒き意思が、ラウルの憎悪にねじ伏せられていく。
息子とともに見ていた彩衣が息を呑んだ直後、耐えきれなくなった小さな異世界は粉々に砕け散って、内側から現れたラウルが眼下にしゃがみこんでいたハヤテの姿を睨みつけた。
「封印の術など、あらゆる要素について反証を用意しておるわ馬鹿者めが」
悪態を漏らしたラウルが右手を掲げると、注連縄の結界より更に上に巨大な魔法陣が現れて肉樹の虚を塞いでみせた。
ラウルがこの場で組み上げた魔術ではない、災厄術式そのものに組み込まれたカウンタートラップだ。
外側の実体だけで100メートルを超えるヴォイジャー・フォー・デッドは全身を魔力回路として力を循環させると、加速された力が指向性を持って魔法陣から放たれ、地を割るような大激雷となって堕ち、外側の結界すらも圧倒的暴威で踏み砕いた。
粉微塵になった結界の欠片が飛び散る下で、ハヤテは頬を引き攣らせながら精一杯笑みを作った。
「だよなぁ。これで終わっちまうようじゃ、面白くねえよな」
強がりを言うハヤテの頭上から第二撃。
今度は結界も解いて完全な力を振るえるラウルが、頭上に集まった魔力を自身の両腕に集めて弓矢のように引き絞ると、一条の黒き彗星として打ち降ろしてきた。
これまでの相手を舐め切ったラウルとは違い、多くの犠牲者のもとに培った力を全力で振るわれて、ハヤテは冷や汗をかきながら全速力で飛び退いた。
ハヤテの目の前に堕ちた魔力の矢が、爆撃のような音を立てて床を破壊するのを見て、彩衣が焦りを浮かべて怒鳴りつける。
『カッコつけとる場合かバカモン! ハヤテ、お前他に手はあるんじゃろうな!?』
「ククク、一万年も生きやがって存在強度をバカ見てえに上げまくって、その上封印にも耐性がある……勝てっこねえなこりゃ!」
ラウルは次々と魔力矢を発射してくる。余波だけで肉樹に取り込まれた何人かが潰されて死んでいくがお構いなしだ。
乱暴で大雑把で破滅的な雨の中で、ハヤテと彩衣は逃げ回るしかなかった。
『空間転移でどっかへ飛ばす!』
「この場所じゃ無理だ、災厄術式の魔術障壁を超えられねえ!」
『こっちも呪いと幻術で精神を腐らせて不能にする!』
「不可能だ、あのネジの外れた精神力は悪意には強い!」
『じゃあ再生するより早く殺し続ける!!』
「こっちが先に疲労で死ぬぜ!」
『どぉーするんじゃ、それじゃ打つ手なしじゃろがあ!? せめて逃げ……あー、でも万葉靖治を見捨てたらぁあー!!!』
もうすでにハヤテの体も限界だ、彩衣の力に耐えきれず体は自壊寸前。
そんな状態では当然だったのだろう、ラウルから放たれた矢の一本がハヤテのことを捉えた。
「ぐげぇっ!!!」
射抜かれる寸前、股の下から潜り込ました金毛の尾で防ごうとしたハヤテであったが、魔力矢は防御の上から圧倒的パワーで体を叩き飛ばし、ハヤテは悲鳴を上げながら吹き飛ばされた。
命中を見てラウルが攻撃を止める。煙が沸き立つ足元では、傷だらけの姿となったハヤテが金色の力も失い、ただの一匹の狼となって仰向けで倒れ伏せていた。
「フン……こんなものか」
溜飲が下がったらしいラウルは空中から降下し床に降り立った。
無残な姿で伏すハヤテを見下して口の端で笑っていると、そのハヤテの体からモクモクと煙のようなものが沸き立ち、形を作りながらラウルへと飛びついてきた。
『こぉーらぁー!! 妾の息子に何をするんじゃボケェ!!』
だが怒り顔で振るわれた彩衣の拳は、ラウルの体をスカッと通り抜けた。
並の人間ならばそれだけで呪われて血を吐きながら死ぬことになるだろうが、生憎とラウルは不死者だ、霊体の怒り程度では寒気すら感じない。
「此奴が呼び出したどこぞの魔物か何かか。我が城に飛び寄せれたのは驚嘆モノだが、そのあやふやな体では抗することはできまい」
『くぅぅぅ~!! うちの子を虐めおってからに……!』
拳を震わせて唸り声を上げた彩衣は、恐ろしく研ぎ澄まされた視線でラウルを射抜いた。
長き時を生きた大妖怪の、人を蝕むおぞましい妖気を漂わせて重々しい呪詛を浴びせかける。
『貴様、妾の息子に手を出して無事に済むと思うなよ。我らは家族の痛みを決して忘れぬ、京都一丸となって必ずや報いを返してやるからな』
「言っているがいい。その愛すら憎悪で噛み砕こうぞ」
彩衣の怒りを意に返さぬラウルは、右手に魔力をまとわせると、腕を振るって放射して彩衣の分霊をこともなげにかき消した。
消えていく彩衣の魂の波形をハッキリと記憶し、災厄術式に刻み込む。これで再び今の九尾が魂だけで入ってこれることはあるまい。
これであの厄介な狼の奥の手は潰せたことだろう、だが倒れたハヤテの姿を見てもまだラウルは警戒した。
今は倒れている、だがトドメを刺そうとすればまた更に抵抗されて時間を掛けさせられるかもしれない。
ならば、ラウルが優先すべきは他にあった。こんなことをしているあいだに、死の因子に自殺でもされたりしては困るからだ。
どうせ目の前の馬鹿な男が起き上がってきても、この身を滅ぼすことも封じることも絶対にできない。
ラウルは車椅子を軋ませて、奥にいた死の因子と横たわったロボットのほうへ顔を向けた。




