218話『虹をもう一度』
――私ね、月読――――天羽月読っていうの――
心に語りかけてきた者の名に、靖治は一瞬声が出なかった。
天羽月読、イリスがかつて一介の看護ロボットだった時代によく面倒を見ていた友達で、すでに死んだ人間だ。
彼女の魂がこの災厄術式に囚われていると聞いたからこそここにきた、その本人そのものが接触してきたのだ。
靖治は眼孔に激痛に苛まれながらも、月読の存在に息を呑んで尋ねる。
「天羽……月読……君は、どうして…………?」
すると靖治の頭の裏側で、ボンヤリとした光がチカチカと点滅して意を示す。
その光を靖治は視認することはできなかったが、それでも魂の感覚としてそれを捉えることが出来た。
――私はずっと前に死んじゃったはずだったの。それでね、死んだ後に私の魂はどこかへ向かおうとしていた。けれどその途中で、何か強い繋がりに引っ張られてここに捕まっちゃったの――
光そのもののような月読の声とは別に、近くで何かが強く打ちのめされ、硬い物が砕ける音が響いてくる。ハヤテとラウルの戦いが続いているのだろう。
死闘をそばにしながら、少女の声は怯えや恐れというものがなく、平静さに満ちていた。
健やかな声色で月読は語る。
――この肉の樹にね、別の私がいたの。別の世界で生まれて、次元光に乗ってやってきた、私ととても似た女の子が、ここで苦しめられて、殺してくれと叫んでいた――
月読の教えてくれた話に、靖治には思い当たることがあった。
「…………異世界、同位体」
シオリと初めてあった時に教えてくれた話だ。別の世界の別の自分、同じ宿命のもとに生まれてきて、よく似た旅路を辿る誰か。
本当ならそんな存在が一緒の世界に集まることなどありえないだろう。だがここはワンダフルワールドだ、次元光が平行世界へと扉を開いたならば、すでにこの世界にいる人物と同一の存在が来訪してくることは十分にありえる。
恐らくはそういった経緯で、300年前に死んだ天羽月読と同じ顔同じ魂を持つ誰かがやってきて、そしてヴォイジャー・フォー・デッドの侵略され肉樹に取り込まれたのだろう。
苦悶の声を上げる同一人物の存在が、死者の魂を引き寄せる要因となったのだ。
――この樹に取り込まれたみんなは、すっごく酷い夢を見せられて苦しめられてる。こんなに酷いこと、じっと見ていられない――
すでに死して俗世と切り離された月読の声には、普通の女の子にはない安らかな虚ろさがあったが、それでも彼女は生者のことを労り、憂う気持ちに溢れていた。
――だからずっと、どうにかしたいって考えてたの。囚われた人たちの心に潜って、色んな世界の色んな術をお勉強して、おじいさんに聞こえないように思念波を発したり、気付かれないように力を溜めておいたり、とにかくできることを探してた。ホントはね、あの狼の人も私が手を貸したんだよ? 夢の中で嫌なものを見せられてるあの人に話しかけて、術式へのハッキングするための回路を教えてあげたの――
「アイツそんなこと言わなかったくせに……」
ハヤテがカッコつけてるようで悪態を零すが、冷静に考えれば月読の存在を隠そうとしたのが一番の理由だろう。
多分靖治でも同じことをしたはずだ。
――狼の人が一緒に連れ出してくれたお陰で、私も動けるようになった。ロボちゃんを助けたいの、お願いお兄ちゃんも手を貸して――
「どうするつもりだい……?」
手を貸してと言われても、果たして今の自分にできるだろうかと靖治は内心不安がよぎる。
まったく視えず、立って歩くだけですら危険を伴う状態だ。
元から何の戦闘力も持たない身であるのに、自分が手伝えることなどあるのか。
――この術式から悪夢を見せられている人は、見えない糸で魂を繋がれているようなものなの。放っておけば肉の樹に取り込まれて、完全に一体化させられるけど、今ならその接続を切れるはず。そうすればロボちゃんもきっと目覚める!――
「イリスを、助けられる……!?」
その言葉に靖治の胸に明るいものが差した。イリスの存在は、戦力的理由以上に靖治の心を潤してくれる。
いつもみんなのメンタルヘルスのためにもと元気に振る舞ってくれてその根もまた前向きな彼女は、パーティ内でもみんなの清涼剤であり、靖治が生きる上での最大の助けと言っても良かった。
最初にイリスが、氷の眠りについたまま忘れ去られそうになっていた自分を助け出してくれたからこそ、靖治は今を生きていられるのだ。
イリスは自己の確立のために靖治を必要とし、靖治は生存のためにイリスを必要とする、この絡み合った関係が靖治の生きる意志を支えてくれるのだ。
――ロボちゃんが目覚めて、私が手伝えば、この悪い蜘蛛の化け物もなんとかできるかもしれない。――
「あぁ……! あぁ、もちろ……」
明るい顔で応えようとした靖治が、言葉に詰まった。
黙り込む少年の心には目の前に広がる無限の闇から虚無感が押し寄せてきて、その息苦しさに口元を歪める。
天羽月読はすごい少女だと靖治は思う、イリスの話を思い出すに彼女が亡くなったのは確か10歳くらいの時だっただろうか。
自分よりも小さな子供までもがこんなに頑張って、たくさんのことをしている。そのことが、靖治には人の素晴らしさを知れて胸がすくようでいて、同時に心の奥底に空虚さを感じるものでもあった。
彼女に対して自分がどれだけのことをできている。ただ周りに守られてばかりで何も出来ずに、今は地を這う虫ケラのような存在だ。
やはり自分は何処まで行っても無力なのだなと、幼少より痛感し続けた想いが浮き上がる。常に誰かに頼るしかない哀れな子供、自分一人ではその日を生き残ることもできない存在。
それがずっと病気とともに歩んできた靖治に押し付けられた絶対の価値だった。
いつもなら、この感情にも靖治は「仕方ないこと」と封じることも出来た、そうして悲しさを打ち消して、安らぎを胸にすることで病魔に対抗して生きてきた。
だが痛む眼孔に奪われた視界、これら切羽詰まったこの状況が、彼の胸に久しい虚しさを思い出させていた。
果たして、自分が頷いたところで月読の期待に応えることなどできるのか――?
――お兄ちゃん?――
「……いや、なんでもない」
訝しげな月読の声に対して、靖治は零れそうな嗚咽をこらえると歯を食いしばって前を向く。
自分は情けないかも知れない、だがイリスは違うはずだ。
この身を助け出してくれたイリス、未来を夢見る虹の瞳、生きてみたいという純粋な心を持った素敵なロボット。
彼女になら、素晴らしい可能性がまだまだたくさん眠っているはずだ。彼女がこれから歩む未来を、誰よりも信じて見ていたいと願っているのが靖治だった。
輝かしいイリスのためなら、靖治はなんだってしてやるという覚悟はあった。
「こんなに頼りない僕でも……何か、できることがあるなら……僕はそれをしたい……!」
イリスは今も悪夢に囚われ、おぞましい光景を見せられているのだろう。彼女のことをこのままにはしておけない。
苦しめられているというのなら、一刻も早くイリスのことを助け出したかった。
「……頼む、月読ちゃん。僕に出来ることがあるのなら言ってくれ。できることなら何でもする!」
――うん!――
体調不良の日が続いてます。
短かったり、また急に休んだりしても許してね。




