210話『乾いた男たち』
2020/01/28
急に用事が飛んできたのでおやすみです!
そしてまた、夢の中で瞳を開けた者がいた。だがそれはアリサでもナハトではない、まだ他に災厄術式内部にいた数少ない一人。
吸血鬼、ハングドマンである。
「――ふむ、ここは……」
背筋を伸ばしてしゃんと立つ彼は、いつのまにか廊下に佇んでいた。
青白い顔で辺りを見回し、状況を分析する。白い壁に白い床、突き当りには窓があり、外に茶色い木の葉が囁いているのが見える。
壁には腰の辺り沿って手すりが設けられている、そして感じたのは薬品の臭い。病院の可能性が極めて高い。
そしてハングドマンのすぐ横には、病室へ続く扉があった。
「夢か、それも指向性を与えられた。とすればこの扉の先に何かあるか」
物事には流れがある。見れば他にも病室の扉は等間隔で並んでいたが、初期位置に一番近い扉がこの後に起きる何かへの道筋であろう。
ハングドマンは観察を終え扉の取っ手に手を伸ばし、引き戸を静かに開け放つ。
個室の病室。その窓際のベッドで上体を起こしていたのは、淡い栗色の髪の毛が美しい、しかしながらも素朴な外見の女性であった。
彼女をひと目見た瞬間ハングドマンは目を丸くしたものの、すぐに体が引っ張られるかのように動いてベッド脇の椅子に腰を下ろし、無意識の内に声を発した。
「やあ、ごきげんようアイシャ。体の調子はどうかな?」
「………………」
然るべき行動をなぞるハングドマンの前で、アイシャと呼ばれた女性は無表情のまま外に伸びる木を眺めている。もう寒い時期なのだろう、茶色い葉っぱは落ち始めており半分ほどしか残っていない。
改めてハングドマンは状況を確認する。
「声が自然に出た……なるほど、キミはアイシャというのか。ふむ、ならばワタシとキミの関係性とは……」
自分の発言を振り返り、顎に手を当ててうなり始めていると、それまで静けさと共にともにあった女性が唇を動かした。
「あの葉っぱが落ちた時にワタシは死ぬ、なんて言ったりするけど。私の命はそれより早く終わってしまった」
考察するハングドマンが紅い目を向ける。女性は油の切れた機械のように小刻みに首を振り返ってきて、頬に一筋の涙を零しながら話しかけてくる。
「ねえ、どうして? あなたはワタシの病を治してくれると言ったのに。あの日、家族に連れて行って貰った岬で、あなたと出会った時から、助けてくれるって言っていたのに」
ハングドマンは女性の言葉を、一言も漏らさず聞いていた。反論もせず、反抗もせず、ただ受け取るに徹して、微動だにせず。
「あなたは役立たずだった! ゴミ! クズ! あなたなんて、あなたなんて……何の意味もない、価値もない。何もできない泥人形だ!!」
糾弾の声がハングドマンの細い頬を叩く。耳朶をつんざく怒声を浴びながら彼は。
「なるほど、これがワタシの大切なものか。こんなこともあったのだと、忘れていたな」
そう、まるで他人事のような、あるいは感慨深いような、どちらとも聞こえる声で顔を上げた。
「ラウル、思い出させてくれてありがとう。ワタシにもこれを残念に思うくらいの心はあったのだな」
そう唱えるハングドマンの目の前で、アイシャと呼ばれた女性がガクンと体を揺らし、背中からレイピアの黒い刃を生やした。
急速に生気を失って血を口から流す女性のことを、ハングドマンは労るように一度抱いて背中を撫で、それから剣を引き抜くとベッドに寝かせ、己は立ち上がった。
「だがまだ死ぬわけにはいかない。他の友人との約束がある――――」
――――夢が変異を始める。侵入してきた悪意を跳ね除けて、うねりを上げて空間が歪んでいく。
ハングドマンの意識は急速に光の中を浮き上がり、あるべき場所へと戻っていく。
パチリと眼を開けたハングドマンが目覚めに見たものは、高いところにある肉の天井と再現された木々、そして、無数の触腕を振るって車椅子ごと飛びかかってくるラウルの姿であった。
無言のまま、しかし殺意を込めた眼で睨みつけてくるラウルを見上げ、ハングドマンは即座に黒き翼を伸ばすと地面から跳ね起き、次々と振り下ろされる触腕を転がるようにして避ける。
ラウルは車椅子を着地させると、逃げたハングドマンを眼で追いかけてくる。まだまだやる気だ、彼は宣告もなくこれまで協力関係にあったハングドマンを正真正銘殺そうとしている。
しかしハングドマンは目が覚めてすぐ、体の調子も戻らず魔術もナノマシンも発動・操作は難しい。
続けざまにラウルが触腕を操って攻撃の意思を向けてくるのに対し、ハングドマンが防衛の手段として目を付けたのは先程まで戦っていた半天使が取りこぼした刃の欠けた日本刀、亡失剣ネームロスであった。
ハングドマンは躊躇なくネームロスの柄を掴む、その途端に刀そのものから凄まじい抵抗と激痛が体を貫いてきて、手の平から煙が吹き上がったが構わず振るう。
互いに何も言わずに打ち合った。刺し貫かんと絶えず襲いかかる触腕を、ハングドマンはネームロスで防ごうとする。本来の使い手が振るった時には、それはそれは恐ろしい切れ味であったが、今は鉄の棒にも劣る鈍ら具合だ。力任せに振るってとにかく触腕を弾く。
ぶつかり合う刀と触腕が歪なリズムを奏で、二十三度の攻防が済んで、ようやくラウルは攻撃の手を止めた。これ以上は攻めきれないと踏んだのだろう。
その直後、亡失剣を握っていた右腕が、抵抗に耐えられずボロリと灰のように崩れ落ち、ハングドマンは「ムッ!」とだけ唸った。
再び地面に突き刺さるネームロスと、右腕が朽ち落ちてヒラヒラと揺れるシャツをハングドマンが見下ろしていると、ラウルが眉間を歪めながら舌打ちを聞かせてきた。
「チッ……先に目覚めたか」
「あぁ、有意義な夢だった。感謝するよラウル」
ハングドマンは嫌味なく言い切って、胸に左手を当てながらしげしげと頭を下げた。
「そしてやはりワタシの命を狙いに来たのだな。確かに災厄術式に取り込まれた無防備を狙うのが、もっとも隙だらけで合理的だ」
「何……? 殺される恐れがあるとわかっていたのか、その上でずっとそばにいたと……?」
ラウルは、最初からハングドマンのことを信用してはいなかった。そもそもがいきなり現れて実験に協力してくれと不躾に言い寄ってきた胡散臭い輩だ、守護者への対策が必要だったゆえに渋々了承したが、折を見て始末するつもりであった。
だからこそ、この『|絶対なる死地への流離人』が真なる災厄の死の霧として完成したこの時に、一気に仕留めてしまおうと襲いかかったのだ。
そしてハングドマンは、それに頷いた。
「そうだとも」
「何故だ」
襲撃を予見していたと言うハングドマンに、ラウルが思わず問いただす。
すると吸血鬼はいつもどおり、淡々と何の感慨も浮かばない声色で話す。
「ワタシは君のことを友人と考えているからだよ。友は助ける、それだけの話だ」
「まさか、本気で、そんな言葉を唱えていたとでも……?」
「当然だとも」
ハングドマンの態度は至極真っ当であり、何ら一切の裏側を感じさせいないものであった。
どこまでも乾いた男でありながら己を貫き、命を狙ってきた相手をしつこく友と呼ぶ吸血鬼を見て、ラウルは少しだけ肘掛けに置いた手に力がこもった。
「……よくわからんやつめ。まあいい。害意がないというのならば邪魔立てだけはするなよ」
「心得た。キミが望むならばそのように」
会釈するハングドマンに背を向け、ラウルは来た道を辿って中枢へと戻る。それを見送りながら、ハングドマンは煙を立てる右腕を徐々に再生させている。
彼らが問答した場所からはぐれた地面に、倒れ込んだナハトの美しい手が、わずかに軋んで土を掻いた。




