209話『誰でもない無機質な』
霧に飲まれた世界で、イリスは風に吹かれていた。少し溶けた白銀の指に染み、傷ついたメイド服が揺れている。
薄くまぶたを開いた虹色には何も映らず、呆然と口を半開きにしてゆらゆらと佇んでいる。
そのイリスに、何かが通じた。
――ねえロボちゃん。聞こえる、ロボちゃん?
(誰……? なんだか、懐かしい声……)
――ちょっとだけ、見てたよ。ロボちゃんは昔よりもっと優しくなったね。知ってる人も、知らない人も、みんなのことを助けようとしてくれていた。
(どうでしょう、でも私、自信がありません……あれは本当に、『私の言葉』だったんでしょうか……?)
イリスは、自分の意志で考えようとしながら、それでもずっと疑念とともに歩んできた。
自分は本当にただの機械の範疇を超えられているのか。この胸に心と呼べるだけのものが本当に宿っているのか。
もしかしたら自分が自我だと思っているものは、音を立てて流れ行く歴史と因果の狭間に適応しただけの『既存のプログラム』ではないのかと。
(機械の私が、人の言う優しさやをもって人を大切にすることはできるんでしょうか……? ただ最初に看護ロボットとして造られた時の、人命を保護する、そのプログラムに従っているだけなんじゃ…………?)
――そんなことないよ、今のロボちゃんは昔と違う。
だって、あの東京で、私が死んだ時は悲しくなんてなかったかもしれないけど、今は違うんでしょ? だからロボちゃんは、それを力に変えてここまで来てくれた。
また会えた時は、どうか私にロボちゃんの名前を聞かせて。その名前を忘れなければ、きっと耐えられ――――――
気がついたら、風がやんでいた。
イリスの瞳がゆっくりと見開かれる。この空間において意識と呼べるものを徐々に取り戻したイリスは、恐る恐る声を発した。
「――――ここは、ここは一体どこ……? 私は、どうしてこんなところで一人で……」
何だか一瞬の間際に、何かと出会っていた気がする。
そのことは気になったが、それよりも重要なのは今の自分の置かれた状況だ。
「何で? 私は何を……? 思考に霧がかかったみたいで……何か、嫌な予感が……思い出さ……ないと……」
重い頭を手で支えてログをチェックするが、電脳の機能が低下していて思うように探れない。
段々と意識はハッキリしてきたが、それでもまだかなりの制限が掛けられている感じだ。
だが早く思い出さないと、取り返しのつかないことになる気がする。
「そうだ、私は旅をしていたんだ。みんなと一緒に、それで、助けたいと思った人がいて、人達がいて、それで……それで私の名前は…………!」
顔を上げた時、背後から何者かの呼びかけが聞こえた。
「イリス」
慣れ親しんだ名前、しかしこの名を呼んでくれたのはいつもの穏やかな声ではなく、しわがれた老人の声だ。
驚いて振り返ったイリスが見つけたのは、車椅子とその上に座った者だった。
「あなたは……!?」
瞳を見開いたイリスが目の前の老人と自分とを思い出し、ようやく目的を見つけて拳を構えた。
だが戦う意志を見せるイリスは、ここが本当はどこであるのか、それすらも把握できていない。
「そうだ、私はあなたと戦っていた! ラウル・クルーガーさん! 靖治さんと、月読さんと、沢山の人達みんなを解放してください!!」
「お前とワシは敵ではないぞ。ワシはお前の主人だからな」
「…………ハ?」
まったくの予想外でトンチンカンな返しに、思わず変な声が出てしまう。
いやだってそうだろう。自分はイリスで、車椅子の老人はラウルで、戦わざるを得ない相手だ。それがどうじて主人などになる。
「何を馬鹿なことを言うんです!! 私に主人がいるとしたら、それは靖治さんただ一人です! 私が自分の意志で彼に奉仕し、彼の人生の手助けをすると決めたんです!!」
「違うな。何を思い上がっている、機械仕掛けの人工物が。その硬くて冷たい手を確かめてみろ」
ラウルは嘲笑うのでもなく、淡々と重い声で話しながら指を向けてくる。
「その機械の脳と手脚のどこに自由があると言うのだ? お前は所詮人に造られた人形に過ぎない。ロボットなどというものは人から入力されたオーダーを実行するためだけにある」
「むっ、それを言うなら、人間だって脳に肉と骨と神経を繋ぎ合わせただけじゃないですか。肉と金属、その違いに何の意味があるんです」
イリスにとって肉体の組成など大した問題ではない。重要なのは心があるかどうかだ。
「靖治さんは私のことを人間と同列に扱ってくれましたし、アリサさんとナハトさんも私のことを家族のように優しくしてくれます! 私はロボットだけど、心があって命がある! ここまでの道のりだって自分で選んできました。私は自分で考えて、自分の気持ちで動ける一個人です!」
「そうかな? お前自身はそう考えていないようだが」
ラウルの言葉に、イリスの胸がドキリと竦む。
「お前だって本当は疑っていたのだろう? あの少年を助けたのだって、自分に組み込まれたプログラムに従った結果、自我がある『振り』をするのがもっとも合理的だと判断しただけでないのかと? 意思などどこにもなく、元来あった人を助けるという、プログラマーの意思に操られる人形なんじゃないかと? だから、その答えをくれてやろう」
霧の中、ラウルは指を曲げ、まるで操り人形を繰るかのような仕草とともに言い放つ。
「今日からお前の主人は私だ。両手を開いて上げてみろ」
「そんな命令に従うつもりなんて……」
そう反抗しようとしたイリスだが、言葉を遮って彼女の手はすんなり頭上に持ち上がった。
止める暇もなく余地もなく、勝手に開かれて天へ向けられた両手に、イリスは仰天して叫びを漏らす。
「へぇっ!? な、何で!?」
「何でもなにもない。お前の意思などというものはプログラムの上に塗り固められた、砂の城に過ぎない代物だ。根底にある式を書き換えてやればそれに従うのは道理だろう? そら、歩け。踊れ。笑え! クハハハ」
「えっ!? わっ!? あ、あっははははは!?」
イリスの思考に反して体は歩き、ヘンテコに手脚を振り回し、引きつった笑い声を響かせ、愕然とした感情に苛まれた。
そしてラウルは言うことを聞くロボットを見てニヤリと笑った。
「さあ、次のオーダーだ。この家の中にいる者を殺せ」
「えっ……!?」
イリスとラウルの横側で霧の一部が退いていく。広げられた視界の中に建っていたのは、白い一軒家。何故だかここで、幸せなものを観ていた気がする。
体が動くのを止められない。信じられないほど普通に歩いてみせた機体は、玄関の扉を開けて土足で廊下に上がり込む。
フローリングの床を靴で鳴らし、開きっぱなしの戸からリビングを覗き込んだならば、そこにいたのは大好きなあの人だった。
「やあ、おはようイリス。今日も元気そうだね」
「せ、靖治……さん……」
窓際に立った彼が、逆光の中から穏やかな笑顔を投げかけてきて、イリスの胸のコアを鷲掴みにした。
日差しが強い。眩いほど白い光景の中、脚が駆け寄る、逡巡なく腕が伸びる。
関節の駆動を止められない。無力感を余所に場面は続く。彼は何も驚かず笑顔のままで押し倒され、床の上で細い首をイリスに握られていた。
「靖治さん、逃げて……逃げてください……!!」
「ぐ、く……っ」
イリスの口とは裏腹に、指の力は正直に靖治の首を圧迫し始め、彼の口からも呻きが漏れる。
機械と比べ遥かに柔らかい人の肉に指が食い込み、その余りの脆さと儚さにイリスは悲鳴を上げた。
「ひっ……!!」
「イ、リス……キミは、自由だ…………イリスがそうしたいなら、僕は、喜んで、受け入れ…………」
「ち、違う! 違います!! 確かにあの人ならそう言うだろうけど、私はそんなことしない! したくない! 殺しても殺さなくても自由と言うのなら、私はなおさら殺したくな……っ!」
靖治はすべての選択権を委ねて笑顔のままいてくれるのに、その権利がイリスの手に届かない。
どんなに言葉を続けようと次第に指は締まっていき、首の中からミシミシと嫌な振動が指先のセンサーに届き、彼は苦しそうに首を反らしていく。
「やだ、何で、手、勝手に……駄目です、それだけは! やめ、止めさせてくださいラウルさん!! おねが……お願いしますから……!!!」
「ほう、おかしなことをいう。お前は心とやらがあるのだろう? ならばその指先だって自分の意志で止められるはずだ。なのにどうしてワシに請う必要があるのだ?」
必死になって懇願すると、いつのまにか背後に来ていたラウルが冷酷に言い放つ。
「力が、入る……! や、やめてください。大切な人なんです! 助けたいって思った人なんです!! 私に毎日色んなことを教えてくれた人なんです! なのに、何でこんな、こ、殺したくなんてない!!」
「それがなんだというのだ! 本当に自我を持ったのが幻覚でなければ、自分の意志でその手を退けてみろ! さあ!! さあ!!?」
意思は届かず、言葉は届かず、何もかもが思い通りにならないままイリスの眼前で行われる。
どれだけ胸を振り絞ろうと、どれだけの想いを込めようと、機械の体は新たな命令によってのみ突き動かされ、イリスは瞳の虹色を激しく混濁させながら絶叫を上げた。
「やめてやめてやめてやめてやめて、やめてぇぇぇぇぇぇーーーー!!!!」
ボキリと、悲鳴の中から音が生えた。
「あっ…………」
笑ったままだった靖治の笑顔が一瞬引き攣ってから止まった。彼の手脚は放り出されたまま床を這っている。
仕事を達成し、離した手の中からわずかに崩れ落ちた彼は、呼吸をせずに寝転がる。
「あ、ぁぁ……ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
津波のような絶望が、イリスの電脳に押し寄せてきた。
「あ……あ……うわぁぁああああああああああああああああああああああ!!!」
涙が、溢れる。
どれほど叫び否定しても、目の前の事象は変わらず膝を突く。
決定的な間違いをしてしまったと、イリスは大切な人を殺めた手を見つめて、尽きない悲しさを絞り出す。
悲観に暮れるイリスへ、次の命令が飛んだ。
「まだ標的はいるぞ。家の中にいる残りも殺せ」
「の、残り……? まさか…………イヤぁ!!!」
脚は力強く床を踏みしめ、体は勝手に家の中を歩き回る。
台所にいたのは、マントを脱いで。火傷の残った軽い手でマグカップを握った、赤いポニーテールの少女。
「イリス、どうしたのよデカい声出して。ゴキブリでも……って、そんなのでアンタが驚くわけないか」
勝手に納得した彼女は、肩を落としながらも信頼を寄せてくれ、視線を外してマグカップの中のコーヒーを啜っている。
「なんか困ったことがあったら言いなさいよ。一応、あたしらは仲間……」
メシャリと、家の中で音が響いた。
次へ向かう。階段を登って二階へ、開いた寝室にいくと、そこでは片翼を伸ばしながらも、背中まであるセーターを着た綺麗な天使が手鏡を見ながら身だしなみを整えている。
「あら、イリスさんおはようございます。どうしたのですか、そんなに慌てて?」
少し驚いて目をしばたかせた彼女は、安らかな面持ちで笑ってくれた。
「ふふふ、イリスさんはいつも一生懸命ですよね。一緒にいた時間はまだ短いですが、その辺りはよおくわかりますとも。悩みがあるようなら、セイジさんだけでなくわたくしにも頼ってくれれば……」
イリスの手がスカート下のサバイバルナイフへ伸びる。肉が裂け、液体が飛び散る音が鳴った。
すべてが滞りなく終了し、ナイフを持ったままイリスが階段を降り外へ向かう。
「終わったか。クク、良い顔になったものだ」
待ち受けていたあの男は、車椅子の上から薄気味悪い笑い声を聞かせてきた。
イリスはその顔に、今までにない激しい情動を覚えざるを得なかった。
「ラウルさん………………ラウルぅぅぅ……!!!」
初めて人を呼び捨てにし、眉間を締め付けたイリスが目の前の怨敵を睨みつける。
「よくも、よくもみんなを……!?」
仇を取るため走り出そうとした瞬間、思いもがけない者たちが霧の裏側から歩み出てきてラウルの周囲に並んできた。
そこにいたのは、銀の髪をリボンでまとめ、メイドの格好をした翠の眼の、人によく似たロボットたち。
「それ……そこにいるの。その顔は……!?」
「何を驚いている。お前は機械なのだ、同じ顔の機体を造れるなど当たり前の話だろう?」
そう語るラウルが侍らせていたのは、イリスと同じ顔、同機種である複数のロボットであった。
立ち竦むイリスへと、彼女たちは無機質な顔で口を開く。
「初めまして私。そしてお疲れ様です。あなたの使命は完了しました」
「初めまして私。これからは私達がタスクをこなします。これからは私達が引き継ぎます」
「初めまして私。自分に心があると誤認した何でもないただの鉄くず。あなたの役目は終了しました」
同じ声の連中が、イリスの心を苛んでいく。
イリスは怯えたように一歩退き、力なく首を振って決死の否定を言うしかない。
「違う……あなたたちは、私なんかじゃないです……」
「さてと、お前の名は何だったかな……? まあどうでもよい、数ある機体の一つよ」
昏い瞳を真っ直ぐ向けてきたラウルが言い放つ。
「最後の命令だ。お前の役目は済んだ。死ね」
言われて一瞬呆けたイリスは、すぐに笑顔で。
「ハイ、わかりました!」
何かを挟む間もなく、イリスは手に持っていたサバイバルナイフで自らの首へと振り抜いた。
「へっ――――――」
強靭な力で振るわれたナイフは、金属の首を歪ませながら断ち切って、こぼれ落ちた頭部が地面を転がり、後ろからは胴体の倒れる音が聞こえてくる。
(どうして、ワタシ、首を切って……?)
見開かれた目で頭上の老人を見上げるが、何の答えも見い出せない。
何か問いかけようと思ったが、口が動いてくれなかった。
(動けない、体が。まばたきもできない……声が、声が出せません……自己を、表せない……)
閉じない瞳の前で、ラウルは飽きたように車椅子の背を見せてどこかへ去っていく。
付き従うメイド姿のロボットたちが、たまたまそこにあった生首を蹴ってしまい、跳ねた頭部は銀髪を揺らしながら、どこか下へ下へと転がっていく。
(止めて、物みたいに蹴らないでください。私はイリスです、ちゃんとした心があるんです)
何もかもが遠くなる。手を伸ばそうと思ってもその手がない。
消えていく背中の群れが、転落する仕掛けを冷たく突き放つ。
(行かないで。拾って、首を戻してください。そうすればまた動け、働け……でも、動けるようになって、何をすれば……? もうあの人もいないのに……? 何をしたらいいんでしょうか……)
転がり落ちた先で待っていたのは、暗い天井の下にたくさんのゴミが積まれた地下廃棄場であった。
ガチャリと音を立てて落下した彼女の首は、微動だにしないまま他のゴミを見つめている。
(こんな、ゴミ山が私の末路? 違うはずです。誰か助けて……私はイリスです! イリスなんです!! 素敵な名前でしょ? 私の自慢の名前なんです、お願いですから話を聞いて……)
精一杯の自慢をしても見てくれる者はおらず、天井付近にあったハッチが開き、また別のゴミが上にかぶさってきた。
(イリスです! ここにいるんです!! 本当は心があるんです、そのはずなんです。助けて。私を助けて…………こんなところで、一人ぼっちなんて嫌です――――!!!)
どれだけ想っても、声はどこにも届かない。
ゴミの中に埋もれて、一人寂しく、どこにも行けず、ただ暗く――暗く――――――
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そして現実の万葉靖治は、焦りを浮かべて足元に顔を向けていた。
「くっ、イリス……アリサ……!! しっかり……しっかりしてくれ……!!」
床に寝転がった二人を呼び、体を揺らしても、何も返ってこない。
その背後から、ラウルが車椅子をギイギイと鳴らしながら進んできて、靖治たちの隣を通り過ぎていく。
「死の霧は順調に散布されている、進化した災厄術式はより強力に多くのものを死の渇望へと誘い込むだろう。これで最も重要な行程は完了したが、まだやるべきことが残っているな。肉樹の中の不埒者も始末したいが、他の用事を優先するか」
老人が意識を向ける先がどこかは知らぬが、この場所にもはや感心がないのは確かであった。
「ここで待っておるがいい靖治よ。後でゆっくりと死について語ろうぞ」
それだけを言い残し、ラウルはそうそうに肉樹の虚から姿を消していく。
暗がりに見えなくなる背中を靖治は恨めしげに見つめたものの、すぐにまたイリスとアリサに向き直った。
「二人とも動かない。僕が見たのと同じような夢に取り込まれてるのか……!? どうすれば……アリサのほうは脈はある。けど、このままじゃ……」
眠ったままのイリスとアリサを床の上に仰向けに転がして状態を診てみようとするが、二人ともどこにも身体的異常は見られないのだ。相手は超常の魔術師、靖治ができることなど名を呼びかけることくらい。
それでも何とかならないかと二人の体を揺らし、呼びかけ、その途中でイリスの瞼を開かせてみて気付いた。
「イリスの眼の虹色が、薄れていってる……!?」
機械である彼女のまぶたは、一度開かせると勝手に閉じることはしなかった。
見開かれた動かない瞳の奥で、いつもは綺麗に漂う虹色が今は煤けて、その下にある翠色が徐々に現れつつあったのだった。




