193話『アラタのターン』
ガネーシャ神の導きにより、冒険者の大多数が災厄術式の口部から侵入していたころ、透明な四枚翅を持つキッカー・ハンサだけは、類まれな飛行能力により肉樹の上部より虚の内部へと侵入した。
肉樹の内側には犠牲になった多くの人々の嘆きの形相が浮かび上がっており、己に与えられた悲惨な運命を呪う大合唱を繰り返している。
―――殺して ――殺してよぉぉぉ
――殺してくれぇぇぇぇ
けれどもキッカー・ハンサは、嘆きの声を聞きながらもその引き締めた甘いマスクを歪めはしなかった。同情はするが、彼は見た目に反してリアリスト、ここで共に悲しんだところで何も出来ないのなら、ただ先へ進み、彼らを助けるだけである。
弱者の解放を望みに懐き、直剣を片手に肉樹を降りていくキッカーであったが、その声の奥から歌が届いてくるのに気がついて眉を上げた。
虚の底に降り立ったキッカーの前にいたのは、場所に似合わぬピアノを演奏して、美麗な歌声を響かせる黒髪で細身の男。
「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,miserere nobis.――」
ハングドマンであった。彼は術師ラウル・クルーガーがこの場を離れた後、ずっとここで曲を奏で続けていたのだ。キッカーが現れてもなお、侵入者を一瞥すらせず、演奏を止める気配を見せない。
その一糸乱れぬ指先とわずかにも音調を外さぬ歌声を前にして、キッカー・ハンサは驚きつつも、しばし剣を腰のベルトに収めて聞き入った。
人並み以上の審美眼を備えるキッカーからしても、これは素晴らしい音楽であった。機械のような正確さでありながら、大滝を掻い潜る鳥のように大胆であり、水平線のように平坦でありながら、ひとつまみの火が底の方に投じられているように思われた。
例え敵地であろうとも、この音楽を楽しまないことは罪であると、キッカーは感じた。
――――殺してくれぇぇ ――頼む、出して……殺し――――
「Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,dona nobis pacem.――」
――殺してよ…… ―――止めて助け、殺して……殺し――
肉樹から漂う不気味な叫び声を貫く、芯のある歌声。いかな環境であろうと揺るがない歌に、キッカーは聞き惚れた。
このたった一人の観客を前にして、一区切りつくところまできて、ようやくハングドマンは口を閉じ、指先を鍵盤に沈めたまま動きを止めた。
鳴らされたピアノの音が徐々に引いていき、余韻まで味わい尽くしたキッカーは、ガッシリした手を叩き合わせて大きな拍手を響かせる。
「ブラボー! 良き演奏だった!」
喝采を受け、ピアノの前に座ったハングドマンは青白い顔でゆっくりと振り向くと、椅子から立ち上がってしげしげとお辞儀をした。
礼儀正しきハングドマンを前にして、キッカーは爽やかに笑みを浮かべながら自らの胸を叩く。
「さて、ボクは正義でキミは悪!」
元々はとある世界で神域を護る守人の一族として生まれ、戦士となるよう愛されつつ育まれたキッカーは、己の立つ側について絶対の自負がある。
素晴らしく迷いなき眼で言い放ったキッカーは、視線を向けてくるハングドマンを前にして腰の剣を抜いた。
「では、やろうか!」
「ふむ、正義や悪に興味はないが、お前がそれを望むならそれもいいだろう」
明瞭に簡潔に、白と黒とを分けるキッカーに対し、ハングドマンは特に否定も反抗もせずに受け入れ、ピアノと椅子を構成するナノマシンを分解して黒きレイピアを作り上げる。
キッカーはブロンドの髪をかきあげると背中の綺羅びやかな四枚の翅を広げ、ハングドマンは黒い長髪を揺らめかせると着ていたワイシャツと同化する形でコウモリのような翼を背中に広げる。
「「いざ」」
問答もなく、ただすべては己が成すべきと定めたがままに。
二人の戦士は、手に握った力を振るうことを選んだ。
◇ ◆ ◇
キッカー・ハンサが対決し、また靖治たちが術式内部の街を探索している最中にも、攻略メンバーの一人であるアラタは、両手に持った二振りの大剣を振るい、立ち塞がる障害のすべてを薙ぎ払って進んでいた。
押し寄せてくる子蜘蛛も、醜悪なゾンビ兵も、彼の歩みと胸の火を止めるには至らず、荒々しき男は一切の疲れを見せずに歩み続ける。
災厄術式内部は入り組んだ構造で、下手をすれば入り口に逆戻りしかねなかったが、アラタはおおよそ正解のルートを辿っていた。変に迷う必要はない、ここの術師は明らかに自ら外敵を招き入れている。ただ感じたままに進めば終点に着くだろう。
通路を行く途中、学校と思わしき場所や、子を持った家庭が暮らしていると思しき一軒家などが再現されていたが、それらについては素通りした。冒険者として悪党を狩り続けたアラタの勘が、見るべきものはないと告げていた。
そして大剣に付いた血と腐肉を振り払いながら辿り着いたのは、それまでと打って変わって生活味のない再現エリアだった。
「ここは……研究施設のような場所だな」
肉のような通路とは違い、真っ白な床と壁が敷き詰められ、天井に付けられた平たい照明がまっさらな光を放っている。
区画ごとにガラスで区切られ、そこら中に監視カメラが目を光らせた様子からは、強い圧迫感を覚えた。
壁際にはモニターやコンソールが備えられていたが、機械類の電源は落とされている――そもそも中身まで再現されているかはわからないが――。
この光景の元になった場所は、人に使い続けられていた部屋のようだ。機材は一部がすり減り使い古される。
だが全体としては執拗なまでに清潔に保たれていて、汚れのない独特の臭いがアラタの鼻孔をくすぐった。
「他と違って薬品の臭い……懐かしいな、ガキの頃を思い出す……」
郷愁を感じ、マフラーの下で口の端をやわらげながらも、アラタは大剣を背に恐れることなく内部を歩き出す。
途中、道を遮る電子ロックの扉があったが問答無用で蹴り破り、踏み込んだ先にあったのは、まるで牢獄のような施設だった。
強化ガラスで仕切られた独房のような小部屋が両脇にいくつも並び、小部屋の内側には拘束具付きの椅子がポツンと置かれ、生体情報を観測するためのヘッドギアが天井から吊るされている。
そして拘束具付きの椅子に座らせられていたのは、苦悶を浮かべたミイラの如き死体だ。
これまでの兵隊とは違って渇き切って腐敗も許されずにいる死体は、並べられた部屋で椅子に固定されてヘッドギアを被されたまま、ガックリとうなだれて息絶えている。
犠牲となった人々、その背景にあるのは過剰な知的欲求か、それとも権力者の傲慢な要求か。いずれにせよ望まぬ実験だったのだろう、苦しみ抜いた無数の亡骸が捨て置かれていた。
「死んだまま放置された失敗作たち。人体実験などと……どこの世界もやることに変わりねえな。だがこれは何を作っていた風景だ?」
いくつもの亡骸を見ながら、真ん中にある細長い通路を歩く。この程度の光景を見せられたところで、アラタは怯えはしないし、怒りもしなかった。
そして一番奥でアラタが目の当たりにしたのは、拘束具が破壊され、ガラスが割れ、破片が散らかったまま打ち捨てられた小部屋であった。
亡骸もいない正真正銘無人の部屋を前にして、アラタは鼻で笑う。
「壊れた設備と拘束……フン。怒りが透けて見えるぜ、ラウルとやら」
アラタが術師の根幹を見出していた時、より奥の方から男のひび割れた悲鳴が響いてきた。
――――ぎぃぃぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ。
「この声は……!」
届いてきた声を聞くやいなや、アラタは目の色を変え、マフラーをたなびかせながら走り出した。
アラタがいた研究施設の再現エリアからより深層へと進んだ先では、一人の男が壁の篝火に照らされながら肉の道を逆走していた。
逃げ惑う男は、ガネーシャ神からの依頼で災厄術式に挑んだ一人である、道化師兄弟の片割れ弟のリンクであった。
「うわぁぁぁぁあああああ!!!」
しかし人々を笑わせながら戦う姿は過去のもの、ピエロの衣装をボロボロになり、顔面からは汗だけでなく涙・鼻水・涎まで垂れ流しにしており、白いメイクは滲んで素顔がほとんどさらけ出てしまっている。
兄弟で戦う冒険者でありながら、弟のリンクはただ一人、恐怖の形相を浮かべて無我夢中で肉の通路を駆け抜ける。
「ひぃ! ひぃ!! ひぃぃぃ!!!」
だがその背後から、肉の矢とも言うべきような鋭い攻撃が飛んできて、ズボンの上から脚を切り裂いた。
幸いにも傷は浅かったものの、驚いた爪先が床の膨らみに引っかかり、リンクはもんどり打って転げ回ってしまう。
「うひゃぁあああああああ!?」
微妙に傾斜がついていた通路を悲鳴とともに転がり落ち、リンクは身を投げ出されてようやく止まった。
痛む体を押して立ち上がろうとする背後から、年老いた男の高笑いが響いてくる。
「ハッハッハッハッハッハ! どうした、逃げるかぁ? お前の兄はここにおるぞぉ?」
動かされる車椅子がギィギィと耳障りな軋みを上げ、座った老人の体を運んでいる。
奥底から這い出てきた術師ラウル・クルーガーが、坂の上で篝火に照らされながら現れた。皺だらけの顔に狂的な笑みを浮かべた老僕の右手には、人間が頭を鷲掴みにされていた。
ズルリズルリと、わざわざ誰かを引きずってきたラウルは、愉しそうに大口開けながら、手に持ったものを見せつけた。
「寂しいではないか? なぁ? 肉親なのだろう!? 義理を示してみよ!! 愛情を見せてやりたまえよ! こいつの亡骸が報われんではないか! なぁ!? カハハハハハハハハ!!」
ラウルは驚くほどの怪力で持ち上げたのは、残りの道化師である兄レヒトの死体であった。
もはや動かず、魂は亡くして肉の塊と化したレヒトは、白目を向いたままラウルに弄ばれており、動かないはずの左腕を持ち上げられて、カクカクと人形劇のように仕草を付けられる。
「コイツもなぁ、寂しいと言っておるぞぉ? 気概を見せんか、ワシが昔、息子の窮地には、すべてを投げ売って助けたものぞ! どうした、助けてみせろよ、冒険者なのだろう!?」
「ハァー! ハァー! ハァー!」
病的な発言を繰り返すラウルを見上げ、弟リンクは肩で息をして震えていた。
戦っても勝てず、逃げるにもこの脚ではじきに追い詰められる。あらゆる抵抗の手段を奪われ、弟リンクは道化の顔を恐怖で歪めながら、最後の懇願に出た。
「ひぃぃぃ!! 助け……助けてください! あと兄さんにも酷いことしないで! お願いします、止めてください!!」
「クックククク……一応は兄が心配なのか、いじらしいのう……かわいいのう……」
両手を組んで拝みながら喚き散らす弟リンクを見て、麗しき家族愛にラウルはニンマリと口を笑わせる。
「安心せい、お前らの死体は並べて吊るしておいてやる」
どこまでも見下したラウルが座る車椅子から、肉の触手のようなものが伸びてきて弓と矢の形を作り出す。
骨と肉を撚り合わせた弦で硬質化した肉の矢を作り上げたラウルは、坂の上から哀れなピエロに狙いを定めて笑っていた。
「興が乗った。お前はここで死なせてやるから、良い悲鳴を聞かせておくれ」
「ひぃやぁぁあああああああ!!!」
引き絞られた肉矢が放たれ、涙を飛び散らかす弟リンクへと目掛けて迫ってくる。
しかしその矢が心臓を貫く直前、弟リンクの背後から何者かが飛び出してきて、大剣を振るって矢を切り砕いた。
現れた人影は、肉の破片を飛び散らしながら立ち塞がる。
「逃げとけ道化、このクソ野郎はオレが仕留める」
二刀の大剣を抱えて、ゆらりと幽鬼のように立っていたのは、凶暴な視線を前へ向けるアラタであった。
実はですね、この三日休んでたあいだの12月15日に、なんと……。
虹の瞳が一周年達成してましたー! ワー! いつのまに!? えっ!?
気づかんかった、全然気づかんかった……何も知らずに暢気に休んでた……。
そしてその一周年を記念しまして、以前にもイリスの表紙絵風のイラスト(トップにも貼ってるもの)をくださったメイルさんが、またまたイラストを描いてくれましたー! こちらです!!
作者様がpixivに投稿したページ→https://www.pixiv.net/artworks/78300891
元気いっぱいのヒロイン三人! これには靖治くんも枠の外からニッコリですよ。
いやー、細かいところまでよく出来てる。ナハトの亡失剣ネームロスなんか、作者の想像が及ばないところまで独自に解釈して描いてくれました。
刀の柄は呪符を巻きつけたものとして描いたそうです。なるほど、ナハトならそういうのやりそう……!
pixivのほうにはそれぞれの単体版も掲載されてますので、ぜひ御覧ください~。




