2話『カオス』
――202X年、靖治がコールドリープしてから10年後。
三十路を超え、四十代に近づいていた満希那は日本のホテルで目が覚めた。
掛け布団も掛けずに普段着のまま眠っていた満希那は、うつ伏せで寝ていたことに気づき寝返りを打つ。
質の良いふかふかの広いベッドが、半端に疲れの残った体を優しく押し返してくれた。
「うっ……」
寝ぼけ眼を開いた満希那は、外の景色から今が何時か読み取ろうとしたが、カーテンに遮られて断念する。
しかたなくフラフラしながら起き上がって、ベッドサイドに備え付けられた時計を見つめた。
「今何時だ……うげっ、もう夜か」
時計に表示されていたのは18時、たっぷり8時間寝てしまったことになる。スカートに変な型がついていないか心配だ。
アメリカからこっちに戻ってきたばかりで、時差ボケで睡眠時間が無茶苦茶だ。季節柄、そろそろ暗くなってきた頃だろう。
せっかく久しぶりの日本でショッピングでもしようとしてたのに、もう夕食の時間だと知りガックリと肩を落とす。
この10年、満希那はアメリカで研究職を続けていたが、結婚を機に日本に戻って残りの人生を過ごしたいと婚約者と話しており、今回は新しい住居を探しに数日間滞在することになっていた。
しかし婚約者も最後の引き継ぎなどで多忙であり、一足先に満希那だけ日本へ来ていたのだ。
そろそろ未来の旦那も日本に向かっている頃だろうと、サイドテーブルで充電していたスマートフォンを手に取るが、満希那の予想と違いなんの通知もなかった。
「……? おかしいな、アレンさんから連絡が入ってない。アメリカを出る時にはメールをくれるって言ってたのに」
満希那の婚約者のアレンは几帳面な人だ、連絡を忘れるとは珍しい。何があったのかと訝しんでいると、スマホの電波状況が圏外になっていることに気が付いた。
「圏外!? ここ東京のど真ん中だぞ」
驚きながら、とりあえず情報を収集しようと、部屋に備えられていたテレビの電源ボタンを押した。
しかし画面に写ったのは真っ黒な画面だけだ、首をかしげながらリモコンでチャンネルを代えても一向に映らない。
「どうなってるんだまったく……」
明らかな不自然さを感じながらも事態が掴めない満希那は、悪態をついてリモコンをベッドの上に投げ出す。
なにか妙なことが起こっているのではないかと気になり始め、外の様子はどうなっているだろうかと閉じていたカーテンを掴み、一気に開いた。
その目に映った光景は、予想だにしないものだった。
「なんだ……この空……!?」
地上は東京らしい電気文明の明るい夜景、だが異様なのは上空だ。
地に照らされて星明りが見えないはずの夜空にあるは、満希那が初めて見る柔らかい輝き。
天に張り巡らされたのは幾重もの光の幕、神秘を超えた謎のおぞましさを持って、色とりどりの光がゆらゆらとうごめいている。
「オーロラ……!? 日本でこんな、ありえるのか?」
それは普段なら極域でしか見られないはずの発光現象だ。
一応、日本でもオーロラが発生した記録は残っており、それ自体はありえないことはないが、それでもその極光は異様であった。
普通ならオーロラは緑白色が普通で、稀に黄色や紫色、赤色などが発生したりする。
だが天にある輝きは単色でなく、赤から黄色へ、黄色から緑へと次々と色を代えていき、空に極彩を映している。
降り注ぐかのような光の群れ、こんな光景がありうるのだろうか、常識では考えられない色合いの光に満希那は見惚れるよりも圧倒され息を呑む。
「通信状況が悪いのはこれが原因か……? しかしどうしたってオーロラなんか」
まさか世界の終末などではあるまいなと、できの悪いB級映画のような妄想が頭をよぎる。
流石にそれは考えすぎだろうが、この光は見ていてなんとなく怖気が走るような、嫌なものを感じた。
「……靖治のところにでも行くか」
あれから10年たった今でも、満希那のいちばん大切なことは靖治だ。久しぶりに日本に戻ってきたのだし、ガラス越しに顔だけでも見たい、不安を覚えたのなら尚のことだ。
満希那は顔を洗って化粧を施し身支度を整えると、カバンを肩に提げ、ハイヒールを鳴らしながら部屋から出かけた。
ホテルのロビーを抜けエントランスに出てタクシーに乗ろうとする。20年台に入り、日本のタクシーはどれも自動化されており無人だ。
しかし周りを見てもタクシーがいない。ここは奮発したいいホテルであるしいつもならタクシーが常駐しているはずなのだが、不思議に思って満希那は近くにいた従業員に訪ねた。
「すみません、タクシーに乗りたいんですが」
「申し訳ありませんお客様。今、タクシーはどれも運行しておりません」
「何?」
「通信障害でGPS機能が麻痺しているせいで、自動運転システムが停止してしまっていまして、車が出せないのです」
「そうですか……わかりました、失礼しました」
運転手がいれば動かせるのだろうが、とうの昔に解雇済みなのだろう。自動化も不便なものだと思うが仕方ない。ここから靖治が眠っている病院まで4キロートルほど、歩けば一時間程度で付くだろう。午後7時に病院につけばギリギリ取り次いでもらえるはずだ。
満希那は夜の東京に歩き始めた。夜でも人が多い街だが、今日はこの空模様もあって人気が一層多い。みな立ち止まって空を眺めていたりする。
反面、車道は車の通りが少ない。今どき自動運転に頼ってる人のほうが多い、久しぶりに自分で運転するとなると怖気づいてハンドルを握れない人が多いのかも知れない。
急ぐ満希那の耳に、無駄に大きな若い男女の声が届いた。
「わぁ~、綺麗! ねぇあっちゃん写真撮ろうよぉ~!」
「おっけおっけ、最高の夜だね!」
カップルが肩を寄せ合って極光を背景に自撮りする姿を、満希那は通り過ぎざまに横目で睨みながら毒づく。
「まったく、何が最高だ。連絡は通じないし、株価だってどうなってることか」
範囲はわからないがこれだけ大げさな通信障害だ、東京周りの通信が途絶しただけでも多数の企業が損害を被っていることだろう。きっと顔を青くしているサラリーマンがたくさんいるに違いない。
しかし、落ち着いて見ようとしてみれば、この空にかかる虹色の光の幕は、幻想的な美しい光景には違いないのも事実だった。
「……靖治にも見せてやりたかったな」
姉よりも感性が豊かな靖治のことだ、きっとこの光景を見れば面白がって楽しんだことだろう。
そう考えると少し気が落ち着いてきた。ふと道の途中で立ち止まった満希那は、カバンからスマホを取り出してカメラを上空に向けた。
色とりどりのオーロラがスマホの画面にも映され、シャッターを切ろうした瞬間、ドンッと重い音が鳴って満希那の体が足元から揺さぶられた。
「うわっと!? 地震!?」
かなり大きな揺れが一気に始まり、そしてあっという間に収まった。一瞬で過ぎ去った揺れに周囲からも悲鳴や不安の声が上がっている。
だがそれよりも驚くべきものを、満希那は上空に見た。
空のオーロラの一画が、まるでジッパーを開けるかのように大きく割れた。光を失った虚空の中心に、地上の照明とオーロラに照らされた何かがいるのが目に留まる。
赤黒いその物体は夜の空を落ちてくる。満希那と同様に気付いたカップルが「なにあれー?」と指をさした。
それは堅牢な甲殻に身を包み、長い尻尾に赤い翼を持った雄々しき姿。
鋭い爪と凶暴な眼光をギラつかせ、長い首を地上に向けて滑空する。
眼下に映る地上で、ひときわ大きなスカイタワーが降り立つにちょうどいいと見たか、翼をはためかせ空中で自在に軌道を変えた。
やがて鳥のような身軽さで塔の先端部分に爪をめり込ませて、人間たちの空想上にだけ存在が許されたはずの異形は、喉を震わせて夜の東京に己の存在を誇示してみせた。
――――グオオオオオォォォォギャァァアアアアアア!!!
東京中に鳴き声を響かせて、胆の底まで知らしめたそれは、まさしく『ドラゴン』であった。
全長30メートルはあろうかという異形に、誰もが呆気にとられて空を見上げている。
身に震わすほどの咆哮に、誰も物見気分で騒ぎ立てることはなく、誰もが本能的脅威を感じて竦み上がっていた。
「はは……漫画か……?」
満希那がライトに照らされたドラゴンを見ながら、やっとのことで声を絞り出す。
だが落ち着く時間は与えられなかった――次々と、先程のようにオーロラが開き、その奥からさっきのように見たこともない何かが飛び降りてくる。
雨のように降ってくる影の一つが、満希那の少し後ろに落ちてきて、路上に止めていた車を粉砕し、近くにいた人に悲鳴を上げさせながら着地した。
満希那が驚いて振り向くと、そこにいたのは四足で立った、ドス黒い眼のない犬のような何かだった。奥行きのある口を開き、牙の間から細長い舌を伸ばしよだれを垂らしている。
それは「オウ! オゥオゥオウッ!!」とくぐもった声を上げながら、近くの通行人に飛びついて躊躇なく首筋に食いついた。
「ひっ――ぎゃっ」
理解が追いつかないまま、見知らぬ人が牙を突き立てられ、首から真っ赤な血を噴出させる。
「なっ……なっ……」
驚きのあまり、満希那はうまく声を出せない。
異様な光景に満希那は眼を丸くして、震える身体で後退りしようとした瞬間、今度は上から降ってきた鉄塊が異形をぺしゃんこに踏み潰した。
ドズンと音を立て、陥没した地面に血の染みを作った灰色の鉄の巨人に、ようやく満希那は我に返って、病院へと走り出した。
「な、なんだなんだ何だあ!?」
異変はこれで終わりじゃなく、この世界に次々と驚くような者共を運んできた。




