95話『シスコンガチ勢の話』
夕食を食べながら一行は雑談を続ける。
脛を強打されて死にかけた靖治も落ち着いて食事を再開し、気を取り直したイリスが声を上げた。
「話を戻すと、靖治さんがアリサさんに恋をしているのでないのなら、別にナハトさんがキスをしても問題なかったわけですね。良かったです!」
「ふう、安心しましたわ」
「良かったです、じゃあねーよ!」
いけしゃあしゃあと涼しい顔をするナハトに、アリサがまだ納得できんと食い下がる。
「あんたさぁ、いくら顔が良いからって、節操なしに若者の初めてを奪っていっていいもんじゃないと思うねあたしはさ。このボンクラ男だって一応は初めての人は選ばせてやらないとさー!」
「そだねー、僕は初めてじゃなかったから別に良かったけど」
「まぁ、わたくしもあの時のことはお腹が減っていたとは言え、無理矢理したのは申し訳なく……は?」
アリサとナハトが思わず目を丸くして、もぐもぐとご飯を食べる靖治の間抜け面を見やる。
固まった二人を置いて、靖治の隣からイリスが疑問を覚えて投げかけた。
「靖治さんて、前にもキスしたことあるんですか?」
「うん」
「はあ!?」
突如浮かび上がった靖治の元カノ疑惑に、アリサの叫び声が響いてテーブルのお茶を波立たせた。
唖然とした顔をするアリサの隣で、ナハトが静かに微笑んだ顔で手に湯飲みを持って、翼をプルプルと震わせながら口を開く。
「お、おおおお、落ち着きなさいませアリサさん。そ、そうでしょうとも、セイジさんだって男ですから、経験の一つや二つくらいあってもおかしく……」
「昔、姉さんとねー」
「倫理的にアウトぉー!?」
「う、うろたえんじゃないわよナハト。どうせアレでしょ? 家族だしガキの頃におふざけで……」
「バッチリ舌まで入れられたよー」
「ガチなやつじゃねーか!?」
予想の斜め上方向の事実に、思わずアリサとナハトはドン引きして、互いに肩を寄せ合って靖治へ畏怖の視線を向けていた。
「何!? どういうこと!? 姉まで喰っちゃうロクでなしの鬼畜クズ野郎だったの!? このメガネ!」
「こ、こわい……! 聞くのが怖い……!! イリスさん、代わりに聞いてくれませんか!?」
「えぇー、何故そこで代役を私に?」
サラリと押し付けてくるナハトに少し困惑したイリスだが、それはともかくとしてこの靖治の話には興味をいだいたらしく、グッと拳を握りながら明るい虹の視線を向けていく。
「でも私としても気になります! 靖治さんはお姉さんとどういう関係だったんですか?」
「ふっふっふ、良い質問だねイリス。ちょっと昔、姉さんにとって難しい時期があってね」
語る方も楽しくてしょうがないという様子で、靖治は眼鏡を光らせて含み笑いを漏らすと、つらつらと過去を語り始めた。
「生まれた時から病気だった僕は、日々の殆どを病院で過ごしてた。10歳を超えて生きられたら奇跡って言われながらも、僕は父さんと母さん、それに姉さんに囲まれながらそれなりに幸せに生きてたよ。父さんたちは稼ぎが良かったから、お金の心配はしなくてよかったしね。けど僕が7歳のある日、突然事故で父さんと母さんが死んだんだ」
予想よりもヘビィな語りだしに、引いていたアリサとナハトも息を呑んで話を聞き入る。
三人が見ている前で、靖治は懐かしい過去を慈しむようにお茶をすすりながら続ける。
「姉さんは僕のことをかわいがってくれてたけど、だからこそ重圧はすごかったろうね。遺産があるとは言えまだ大学生の姉さんが、それからずっと一人で僕の面倒を見ないといけなくなったんだから。それで不安で堪らなくなった姉さんが葬式の夜、二人っきりになった途端に迫ってきて、ぶちゅっと」
「うわぁ……」
明らかになった真相の重さに、アリサが思わず苦しげな声を漏らしていた。
ナハトも聞いていて悲しそうに眉を曲げ、軽蔑の視線も同情へとその色合いを移らせている。
「姉君もそうですが、セイジさんも苦労なさったのですね……」
「そうでもないさ、僕は姉さんの力になれたことが嬉しかったよ」
「嬉しい……?」
思わぬ言葉にナハトが聞き返すと、靖治は薄っすらと笑いながら頷いた。
靖治は目で笑いながらも、少しノスタルジックなため息を吐いて言葉を付け加える。
「姉さんはね、家族を見捨てられる人じゃなかったんだ。両親が死んでからの人生で、病気の僕を引っ張って生きていくためには、僕をとことん好きになる必要があったんだと思う。僕は姉さんがどんな決断をしても咎めるつもりはなかったけど、姉さんが好いてくれるならその気持ちに合わせた。姉さんは僕を好きになって、僕はそんな姉さんを受け入れて頼る。共依存の形になることで、助け合う覚悟を固めて人生と戦ったのさ」
それは状況に追い詰められた苦肉の策であれど、語る本人は安らかで清々しい顔をしていた。
かつてあった過去の一切を恥じることなく、思い出に残る姉と自分の姿を愛でるかのように優しい目だ。
「まあ、姉さん本人は僕とキスしたことを後悔してたようだったけどね。『弟のことを汚してしまったー!』って、だからそれ以降は一回もそんなことなかったし。でも姉さんはその後悔のおかげで、僕を助けることだけに何年も時間を費やして、コールドスリープ装置を発明して、僕の命をこの時代に繋げたんだ」
おかしそうに笑いながらそう語る靖治の顔は、アリサもナハトも、そしてイリスも、ここまで見たことのない表情だった。
いつもどおり穏やかではある、だがそれだけでなく心底嬉しそうで、どこか哀愁を帯びていて、探せば身内に対するわがままな気持ちが隠れているようで、けれどとても透き通った純粋な祈りのこもった、そんな顔をしていた。
二人の関係は単純に善きとも悪しきとも言えないけれど、靖治はすべてを認めて受け入れて、血と肉の糧として今この場に辿り付いている。それが何よりもの答えであるようだったし、そのことを誇るように彼は胸を張って前を向いている。
「だから僕は姉さんのすべてに感謝してるよ。あの日のキスもいい思い出さ、いつも迷惑をかけてばかりの僕が少しでも姉さんの支えになれるなら、一向に構わなかった。僕も姉さんが大好きだからね」
唇を親指でなぞりながら愛情の言葉で締めくくった靖治は、一点の曇りもない爽やかな笑顔だった。
全員、思わず口をつぐんでいた。邪念の入り込む余地のない純粋さに、聞いているだけで包み込まれるようでいて、軽口もはばかられた。
しばらくしてから、ナハトがようやく口を開く。
「……驚いたりなどして失礼しました。とても貴い愛情だったのですね」
「うん、姉さんは僕にとって太陽みたいな人だったよ」
にこやかに微笑みながら靖治は恥じらうことなく姉への情感を教えてくれる。
柔らかい声色に、ナハトも緊張をほぐされていたようで、そこからはすんなりと言葉が喉より出てきた。
「その後、姉君とはどのように?」
「コールドスリープの前にお別れして、それっきりさ。僕が眠った10年後くらいに次元光が発生して社会が崩壊したって話だけど、流石に1000年前のことだから、その後の消息を調べるのは無理だろうね」
「そうなのですか……心配ですね」
「そうだね。会えないことは覚悟してたからいいけど、次元光の後は姉さんも大変だったろうなぁ。せめて幸せな最期だったら良いんだけど」
靖治は少しばかりの苦さを噛んで目尻を下げた。
姉弟の過去話を眺めていたアリサは「姉貴か……」と感心しながら夕食の最後の一口を口内に放り込んでいたが、イリスはというと何故か暗い表情をして顔を俯かせている。
「……靖治さんのお姉さんは、靖治さんにとって、とても、本当にとても大切な人だったんですね」
「うん、自慢の姉さんだよ。姉さんがブラコンガチ勢なら、僕はシスコンガチ勢ってトコかな、あっはっはー」
「聞いてる側は笑えるレベルじゃねえっての、こいつは」
朗らかに笑いながら残り少ない夕食を食べる靖治へ、彼と姉の想いの重さにアリサが苦笑しながら口を挟む。
だが一向にイリスの表情は影を帯びていた。
「イリスさん? 浮かない顔ですがいかがなさいました……?」
心配したナハトがテーブルの向かいから尋ねたが、イリスは言葉を返さなかった。
暗い面持ちに注目が集まる中、イリスが椅子を蹴って立ち上がると、自分の胸を叩いて靖治へ話を切り出そうとした。
「あの、あの! 靖治さん! 私……」
「うん?」
「私……わたしは……」
靖治が少し不思議そうな顔をしながらも、真っ直ぐイリスを見上げる。
焦った言葉を走らせるイリスは、続きを言おうとして口をパクパクさせていたが、まるで上手く言葉を出せないかのように、それっきり何も言えなくなる。
やがてイリスは苦しそうな顔を床に向けると、口の端を歪めながら重い言葉だけを残した。
「……すみません。先におやすみします。ごめんなさい」
「うん、おやすみイリス」
とうとうそれだけを言って、イリスは顔を靖治から背けて歩きだすと、ポニーテールを揺らしながら食堂の脇にある階段を登り、二回の宿部屋へ足早に去っていった。
残った三人のあいだに静かな空気が流れる。やがてナハトがご飯も食べ終わり、湯呑を口元に近づけながらふと話しだした。
「イリスさんを見ていますと、あまりの眩しさに劣等感を刺激されますね。あぁ、あの方はあんなにも純粋なのにわたくしは薄汚れた魂で……ふふ、見た目だけ年上で中身はダメダメ……」
「いや鬱ってねえでさ。いいわけセイジ?」
「いいさ」
打ち解けて素のネガティブさを醸し出してきたナハトに呆れながら、アリサが靖治へと顔を向ける。
靖治は口に手を当てて、いつもと違って神妙な面持ちで語る。
「正直言うと、イリスの隠し事が姉さんに関係することとは思わなかった……姉さんのことなら聞きたい気持ちはある、でもいま生きてここにいるイリスのことのほうが重要さ。死んだ人間のためにイリスを振り回すことはない」
昼頃からイリスが何かを隠しているのは明らかだったが、今回の状況を見るに、きっと靖治の姉、万葉満希那が関わってくることに違いない。そうでなければ、あそこまでイリスが言い淀みながら苦しむとは思えない。
だが靖治はそのことでイリスを糾弾したりはしなかった。姉のことは大切だが、イリスだって同じくらい大切な仲間だ。靖治はわがままを通すとなったら意固地だが、基本的に大切な人を傷つけることはよしとしない。
「それにイリスならさ、それが僕にとって大切な話ならいつか聞かせてくれるよ。もしそうなら、僕はイリスの準備ができるまでゆるりと待つだけさ」
「はぁー、ったくこの優男は、そんなら後でフォローしときなさいよ!」
「うん、そうだね」
信頼を述べる靖治に、アリサが仕方なさそうに認めて指を突きつける。
しかし横から、ナハトが沈んだ声を出してきた。
「イリスさんの準備が整うまでそのままとは限りませんがね」
靖治とアリサが顔を向ける。ナハトは無表情で湯呑のぬるいお茶を見つめていた。
表に感情を出さずに、ナハトが重々しく口を開く。
「大切な秘密ほど、ふとしたタイミングで日の下に転がり出てくるものですよ。あるいはその選択が、より彼女を傷つけることになるやもしれません。その時は、アナタはどうするので?」
信頼と言えば聞こえばいいが、放置というのは心が離れるきっかけにもなりうる。その選択が、イリスの心に空白を作る可能性だってある。
靖治はナハトの言葉を真剣に聞いていた。深く受け止めて瞳を伏せ、けれど怯えたりせず、言葉だけはまっすぐに。
「その時は、手を握って温めるよ」
一人で宿の部屋にやってきたイリスは、明かりも付けずに一番奥のベッドの上へ靴を脱いで倒れ込んだ。
ボフンと音を立てた掛け布団の上に横たわったまま、メイド服もポニーテールに結んだ髪の毛も手を付けない。
「靖治さんのお姉さんは、靖治さんにとって大切な人で、その人のメモリーが私の中にあって……」
月明かりが窓から入ってくる部屋で微動だにせず、薄暗闇を虹の瞳で見つめたまま、状況を確認するように一つずつ口から出す。
「本当なら……本当なら言わなくちゃ、このことを伝えるべき……はず、なのに……」
苦しそうに呟きながら、長手袋を嵌めた細い指が布団のカバーを掻いた。
「靖治さんのお姉さんが、靖治さんを持ってっちゃいそうな気がして、怖いです……」
イリスの気がかりはそれだった。
イリスにはまだ靖治が必要なのだ。まだ靖治の隣にいたいのだ。靖治に色んなことを教えて欲しいのだ。温かい言葉をかけて欲しいのだ。
けれど靖治が、このままではお姉さんのことを追いかけて、イリスの隣から抜け出ていってしまいそうで。
「私の使命は、靖治さんの人生を支え、見届けること。靖治さんが幸せになるのは素敵なこと。靖治さんが恋をして結婚して、そういうのは大歓迎です。でも、離ればなれになるのは……それだけは……嫌……」
イリスの名になった虹の瞳は、彼女の不安を物語るように不規則に色合いを変化させ、荒れた海のように色彩が入り乱れていた。
やがてまぶたを閉じて虹を塞ぎ、イリスは着替えもしないまま自らの機能を暗闇に落としていったのだった。




