1話『万葉靖治、旅立ちの初め。』
日本の東京都、今日は晴れ。開かれた窓から見える空には気持ちいい雲が流れていて、どこからか吹いてきた陽気な風が院内の庭から、木々の匂いを運んでくれる。
病院なんて静かなものだ、今は病室に置かれたテレビの電源やスマホの音楽も消してあるし、聞こえてくるのは風の音と庭で遊ぶ小さな子供の声くらい。
与えられた個室で、残り僅かな暇を持て余していた少年は丸椅子に座り、窓枠に肘をかけて呆然としていた。
病院お決まりの薄い色合いをした患者衣を来て、目元には銀縁眼鏡。黒髪の毛は邪魔にならない程度に切りそろえられており、もうすぐ16歳になる顔は同年代より童顔だ。
腕は細く、脚も細く、筋肉も脂肪も少なくて見るからに力のない。
少年のために与えられた個室は綺麗に片付けられていた、ベッドの上にいつも散らかされている本も部屋の隅のダンボールにまとめたし、来客と話し合うのに使う椅子とテーブルの上も掃除してしておいた。
彼は静かに、外を眺めていた。
庭で遊んでいる子供は5歳くらいだろうか。こんなところに来ている以上は何かしら身体に問題があるのだろうが、少なくとも普通に遊べる程度らしい。母親と思わしき女性とサッカーボールを投げてもらって蹴り返している。
微笑ましいだろう光景を眺めながら、何かやるべきことはないだろうかと少年はふと思ったが、事ここに至ってはすることはない。姉が手を煩わせないように荷物の整理も済んだし、歯も磨いた。爪も切ったし、髪などの身だしなみは、まあそこまで気にすることはないだろう。SNSでも覗くという選択もあるが、寂しくなるだけだろうしやらない。
だから未来に展望を抱いて、再び庭の親子に視線を落とした。
子供のほうが投げられたボールを蹴飛ばそうとしたが、足はかするだけでボールはあらぬ方へと跳ねてしまった。
慌ててボールを追いかけて走っていく子供を、母親が見守っている。
「……いいなぁ、あんなに走れて」
ポツリと呟いていると、病室のドアが二度ノックされた。
聞き慣れた感覚で響く音に、声を聞かなくても誰が来たのか彼にはわかった。
「入っていいよ、姉さん」
病室のドアが開かると、ショルダーバッグを提げ白衣を着た長身の女性の姿が現れた。予想通りだ。
白衣と言ってもここの医者ではない、彼女は普段はアメリカで働いている研究員だ。
少年と違い、母親の血の濃い彼女は栗色の髪色をしており、腰まで伸ばされた長髪を後ろで留めてポニーテールにしている。
少し息を切らしていて、春だと言うのにソバカスの散った頬が汗ばんでいた。また慌てて走ってきたんだろうなと少年は思った。
「すまん靖治! 遅くなったよ」
「ううん、時間ぴったりだよ」
彼の名は万葉靖治、今しがた病室に入ってきたのは姉の万葉満希那であった。
靖治は決して姉に文句を言わない、多忙な身で来てくれただけでもありがたいと思う。
30歳に近い満希那は息を整えながら、個室に持ち込んだ椅子にドカッと腰掛けた。靖治も窓際から立ち上がり、姉の向かい側の席に腰を下ろす。
テーブルを挟んで、愛すべき家族と面向かう。
「お疲れさま。忙しい中、来てくれてありがとう」
「何を言ってるんだ、大事な弟のためにここで来なくてどうする」
「うん……ありがとう」
礼を言う靖治の前で、満希那は鞄からペットボトルを取り出すと、中のミネラルウォーターを喉に流し込んだ。
ぷはぁと息を吐いて人心地ついた満希那は姿勢を正す。
「靖治もお茶飲むか?」
「いや、先生から飲食はダメだって」
「あぁ、そうだったな……部屋も綺麗に片付いてるじゃないか。別に後で私がやったのに」
「そんなことさせられないよ、ただでさえ迷惑かけてるんだから」
「気にしなくたっていいのになぁ。お前こそ、最後に片付けやりたいことなかったのか」
「うーん……姉さんと話したいかな」
「……そっか」
弟の言葉に、満希那は嬉しそうに頬を緩ませた。
「姉さんには、感謝してるよ。生まれた時からずっと病院住まいの僕のことを養ってくれて、父さんと母さんが死んで姉さんも大変だったろうに」
「そんなこと言わなくたっていいよ、姉が弟を助けるのは当然のことだろ」
「それでもありがとう」
「強情だなぁ」
あくまでにこやかに礼を押し通す靖治に、満希那はぶっきらぼうにだが、優しく笑った顔を見せる。
靖治は、生まれた時から心臓の病気を患っていて、人生の殆どを病院で過ごしている。たまに家に帰ったりはしていたが、家で寝るより病院で寝た日のほうが多いほどだ。
無論、学校にもほとんど行けていない。唯一、中学の入学式の日だけわがままを行って登校したことがあるが、その日は帰るなり体調を崩し、すぐにまた病院生活に戻った。
まともな運動などしたことはないし、リハビリで身体が鈍らないように維持するのが精一杯。
何もできない人としての落第者、靖治は自分のことを何となくそう思っていた。
だからこそ、彼が7歳のころに交通事故で死んだ両親に代わり養ってくれた姉にはとても感謝している。
「僕の持ち物はそっちのダンボールにまとめて置いたけど、捨てちゃって良いからね。姉さん、プラモデルとか興味ないでしょ」
「何を言う、靖治のスメルの染み込んだおもちゃだぞ! 捨てるなんてもったいない!」
「そのブラコン直さないと結婚できないよ姉さん」
「うるさいなぁ、この程度受け止められん男は願い下げだよ」
バツが悪そうに満希那は眉を寄せた。姉の言うことはわかるが、かなりガチ目のブラコンなので弟としては心配だ。
とは言え、こんな時にあまり苦言ばかりは好ましくない。
「姉さん、散歩しない? まだちょっと時間あるからさ」
「あぁ、そうしようか」
靖治の誘いに姉は快く頷いてくれた。
散歩と言っても、病院の外に歩いたりはしない。院内を静かに連れ添って歩くのがお決まりだった。
二人はゆっくりと病院の廊下を抜け、慣れ親しんだ休憩所やロビーを通り過ぎていく。
「この病院ももう長いなぁ」
「靖治のとってはこっちのが家みたいなもんだしな、すっかり病院の主だな」
「ははは、新米の看護師さんよりここについては詳しいからね」
この病院の医者や看護師たちとも、喫茶店のおばさんも、散髪屋のおじさんも、コンビニの店員さんも、みんな靖治と知り合いだ。みんな病院から動けない靖治をよくかわいがってくれた。
「けど、もうすぐみんなともお別れか――」
一階の廊下を歩いていた靖治が足を止めた。満希那もそれをわかっていたように、隣で立ち止まる。
靖治が見つめるのは、廊下に張られたガラスの向こう側。透明な仕切りに遮られた部屋の中では、筒状の機械が二名の医者にチェックされながら鎮座している。
円筒の機械は上部が透明な素材で閉じられており内部が見えるようになっている、その状態で更に壁に収納することで完全に格納されるように作られていた。
それはこれから、靖治がお世話になる大切な装置。
「――コールドリープマシンか、まさか本当に作っちゃうとはね」
今の時代に完治が見込まれない患者が、未来に希望を託し眠りにつくゆりかご。
靖治の姉、万葉満希那が弟のために大急ぎで作り上げた一世一代の発明品だ。
「なんだ、私のことを信じてなかったのか?」
「いや、姉さんならいつかやるだろうとは思ってたけどね、完成まで僕の身体が保つかは自信なかったから」
靖治の肉体は限界に近い、そもそも赤ん坊の頃から10歳になるまで生きられないだろうと言われていたのに、15歳まで生きてこれたのが奇跡的だ。
彼の病気が今の時代では治療が不可能と悟った満希那は、寝る間を惜しんで研究に打ち込み、これを用意してくれた。
「まあ、私としても日本での認可が間に合ってよかったよ。最悪、アメリカまで連れてこないといけなかったからな」
「僕としては、寝るのがアメリカでも別に良いけどね」
「何を言うんだ下手をすれば百年以上眠りにつくんだぞ、目が覚めてどういう状況になってるかわからないし、言葉の通じる場所のほうが絶対いい」
「うん、確かに」
どこまでも自分を大切に考えてくれる姉に、靖治は短くうなずく。
ガラスの向こうではこちらに気付いた医者たちが手を振ってくれていた。靖治と満希那も手を振り返し、点検の様子をしばらく眺める。
「ここの人たちとお別れは済んだのか?」
「うん、昨日パーティを開いてくれたよ。楽しかった」
「そりゃ良かった」
これでも靖治は病院に勤める大人たちからは人気者だ、特に女性にはそのベビーフェイスからお姉さんからおばさんまで特に根強い人気がある。
あくまで一時の眠りということで、お別れ会ではなく冬眠おめでとうパーティという名目でお祝いしてくれた。
みんな靖治のことを想い、未来で目が覚めても元気でやれるように勇気づけてくれた。
プレゼントを用意しようとしてくれた人もいたが、それについては断った。
「寄せ書きをくれるって話もあったけど、持っていけないから断っちゃった」
「……そっか」
コールドリープマシンには、余計なものを持ち込むことはできない。紙一枚でも靖治には重荷だ。
花束を用意してくれるという話もあったが、これについても他に世話をしてくれる人がいないし、姉にアメリカまで持っていってもらうのも悪いし、受け取ることはできなかった。
満足に他人の気持ちを受け取ることすらままならない自分の身に、靖治は不自由さを痛感し眉を寄せる。
そんな靖治の様子に、姉の満希那は心配になって声を掛けた。
「……なあ靖治、やっぱり不安か?」
「不安? そんなことない、希望でいっぱいだよ!」
だが返ってきた声はこれ以上なく朗らかな色彩だった。
眼鏡のレンズの奥で目を輝かせた靖治は、その輝きを姉に向けて口を大きく開けて芯の通った言葉を広げる。
「これから僕は、長い時間眠り続け、目が覚めたら新しい世界に立つんだ! きっと病気も治って、今まで見れなかった景色を見に行ける。ハイキングに言ったり、海を泳いだり、これから好きな未来が拓けるんだって考えると、ワクワクが止まらないさ!」
根っこから前向きな靖治の人間としての輝きに魅せられ、満希那は口を半開きにして圧倒されていた。
「っと、いけないいけない。あんまり興奮すぎると心臓爆発して死んじゃう」
「……はは、強いな靖治は」
靖治が胸に手を当ててて気を落ち着かせる様子を、満希那は微笑ましい気持ちで眺めていた。
身体は弱いのに、気持ちだけはどこまでも強い子だ。この子ならどこだろうときっとやっていけると、逆に満希那のほうが元気づけられた。
「……でも、そうだね。未来に不安はないけど、みんなとお別れと思うと少し寂しいかな」
だが靖治が、ポツリと切なさを零す。
「これから僕は、生きるために今まで出会いをすべて捨てるんだね」
それは靖治にとって、ある意味一番恐ろしいことだった。
生まれた頃からずっと、誰かに助けられながら生きてきた靖治は、人は一人では生きられないということの意味を誰よりも知っている。
実際のところ、どれくらいの時間を眠り続けるのかは、あるいは神にしかわからない。だが今までひよわな自分を助けてくれ、退屈な時間を話し合って支えてくれたたくさんの人達と、永遠の別れとなるかも知れない。
今までずっと病気だった靖治には自分で作り上げたものがなにもない、そんな中で靖治の持つ僅かな交友関係が、彼が唯一築き上げてきた成果なのだ。
生きるためにはそれを手放さないといけないジレンマに苦悩を浮かべる靖治に、満希那が意を決して言葉を紡いだ。
「靖治、寂しがることはない。必ず未来でお前を迎えに行く人がいる」
いつになく強い口調の姉に、靖治が呆気にとられて振り返った。
満希那は少し身をかがめ、靖治と目線を合わせると、彼の両肩に手を置いて訴えかける。
「私は子を生んだら、その子に靖治のことを伝える。その子には孫にも同じことを伝えさせる! そうやって子々孫々、お前のことを語り継いで、靖治が目覚めた時に迎えに行かさせる」
そして満希那は、ニッと不敵に笑った。
「だから大丈夫だ。お前は一人になんてならないよ」
「……はは、だったらちゃんと結婚しないとダメだよ」
「あぁ、わかってるさ」
靖治は姉の言葉に胸が熱くなるのを感じて、静かにうなずいた。
「……うん、ありがとう姉さん」
思いがけず勇気をもらった靖治は、姉の胸に抱きついた。
満希那も弟を抱き返し、温かさを靖治に伝える。
「姉さんこそ、一人で大丈夫?」
「大丈夫さ、他の研究員に仲が良いやつもいるんだ」
「お腹出して寝ちゃダメだよ、身体は大切にして。もう僕のために急ぐことはないんだから、ゆっくり生きてね」
「どうかな、せっかちだからまたすぐ慌てて生きるかもしれない」
「あはは、それも姉さんらしいや」
靖治の言葉を聞きながら、満希那は少し肩の力を抜けた。
満希那とて当然ながら寂しかったのだ。しかし懐が深く、他人を認め受け入れる弟の心の姿勢に、どこか安心を覚える。
姉もまた、弟に心を助けられながらここまで歩いてきたのだ。
「たくさんの思い出をありがとう靖治。お前がいたから父さんと母さんが死んでも、挫けずにやってこれた」
「……こんな僕でも、姉さんの役に立ててたかな?」
「あぁ、弟としては百点満点だ」
命を肯定する言葉に、靖治は胸の中でまどろみを覚えて幸せそうに笑った。
「ありがとう姉さん、大好きだ」




