中
「火事だ! 火事だーっ!」
騒がしい声と鐘の音に目が覚めた。
おれが住んでいる家は村のはずれにある。隣家とは畑を挟んでいて、人気は他にない。
窓から流れてくる煙の臭いに気付いてすぐ、家を飛び出した。
夜の空に、炎と煙が囂々と音を立てて舞い上がっていた。
火の手は村の中心から上がっているように見える。
「まさか……」
嫌な予感がしてとっさに駆ける。
畑のすぐそばの空地に、避難してきたであろう子どもたちがたむろしていた。おれに石を投げてくる童どもも、いまは立ち昇る黒い煙を眺めて大口を開いていた。
おれはそのまま村の中心まで向かった。
嫌な予感は的中していた。
屋敷が燃えていたのだ。
大人たちが騒ぎながら、屋敷の門を取り外している。延焼を防ぐつもりなら他にやりようはあるだろうに、なぜか門の前にだけ人だかりができていた。燃え盛る屋敷をみようともしない。
その中でただひとりだけ、屋敷に向かって叫んでいる大人がいた。
件の病気がちな奥方だった。みよの母親だ。
家来の武士に引き留められながらも、屋敷のほうへ行こうと必死にもがいていた。立ちすくむおれの耳に、奥方の叫び声が届いた。
「まっておくれ! みよがまだ、まだ中に!」
「みよ!」
おれは迷わなかった。
膝を曲げて強く地面を蹴った。大人の背丈の倍はあろうではないかという塀を一足飛びに越えて、敷地内に着地した。
熱と煙が充満していた。
口に手をあてて大きく息を吸い込む。
みよの寝室の位置はおおまかに憶えていた。道場が火の粉をあげて崩れていくのを横目に、おれは激しい炎に包まれた屋敷のなかへと突っ込んでいった。
みよ。みよ。みよ。
まともに目も開けていられない業火と煙。それでもおれは前に進んだ。
小柄な体格が功を制したのか、崩れかかった柱を避けて進んでいくと寝室についた。
炎に包まれて、床に横たわるみよの姿が視界にとびこんできた。
「みよ!」
まだ炎には焼かれていなかった。
だが安堵する暇はない。煙を吸い込んだのか熱にやられたのか、指先ひとつ動く気配はなかった。
おれはみよの体を抱きかかえ、きた道を戻り始めた。
地獄の道のようだった。
おれたち二人の命を呑みこもうと、炎が牙を剥く。煙が行く手を遮る。いつ天井が崩れてもおかしくない状況だ。悠長なことはしていられなかった。
みよにこれ以上傷がつかないように注意を払い、炎の中を体をねじこませるようにして進む。
熱い。
痛い。
苦しい。
熱と煙がおれの体の中を蝕み、足を止めようとする。
炎が全身を焼き、意識を奪おうとする。
それでもおれは止まらなかった。
止まろうなどと考えなかった。
永遠にも感じる炎の道を抜けたとき、おれは意識を失ったのだった。
「――おい、おい、金の字!」
ひどく長い夢を見た気がした。
喉が渇いて目が覚めた。そんな気がした。
だが全身の痛みに起きあがることはできずに、視界に入ってきた青屋のおやじに問いかける。
「ここは……?」
「俺の家だ。よかった。もうひと月も目が覚めなかったから、どうしようかと悩んでたところだったんだ。都から医者を呼んで薬飲ませても意味なかったしなあ」
ほっとした面持ちでおやじが言う。
ひと月も眠っていたのか。
なにがあったのか、おれは少しの間思い出せなかった。痛む腕だけ動かして、なんとか自分の体に触れる。全身くまなく包帯がぐるぐると巻かれてあった。
「そうだ……そうだ! なあ、みよは!」
「安心しろ。無事も無事。とくに怪我もねえってんで、建て直した新しい屋敷にいるぜ。おめえさんのおかげだ」
「そうか。よかった」
安堵の息を漏らした。
だがおやじの顔は険しいままだった。
「でもよ金の字……おめえの火傷がひどくてな、医者もこの一か月手は尽くしたんだが」
「痛えのは慣れっこだよ」
「そうじゃねえんだ。これ、見てみろ」
おやじが差し出したのは手鏡だった。
そこに映っていたのは、顔の右半分が焼けて爛れたおれの姿だった。
皮膚が赤黒く変色し、腐ったように歪んでいる。
世辞に言っても醜い。なんとも醜い顔立ちになっていた。
「俺もなんとかしてやりたかったが……すまねえ。おめえさんのべっぴんな顔が」
「いいんだ」
おれはおやじの言葉を遮った。
「もともと女みてえな顔はおれには似合わねえと思ってたんだ。これでようやく、山童らしい風貌になっただろ」
「……そうか。おめえがそう言うなら、これ以上は何も言わねえ」
おやじは申し訳なさそうにしながらも口を噤んだ。
別にいい。
いいんだ。
みよが無事なら、それで。
「じゃあ金の字の目が覚めたって皆に言ってくるぜ」
「ああ」
「粥しか食べさせてなかったからな、腹も減ってるだろ」
「うん」
「俺が畑から何か持ってきてやる。待ってろ」
おやじが家から出ていくと、おれは大きく息を吐いた。
全身の痛みに苛まれながら少しずつ体を動かしていく。
なんてことはない。痛いのを我慢すれば動ける。ひと月も眠っていたせいで、体中が錆びついた発条みたいになってるだけだ。
不思議と悪い気分じゃなかった。
両腕に野菜を抱えたおやじが戻ってきたときには、おれはすでに立ちあがって小太刀の素振りを始めていた。これにはおやじも驚いて、
「金の字! おめえってやつぁどこまで頑丈なんだ」
「都育ちのなまくら坊主と一緒にすんじゃねえ。なんたって、おれは鬼の子らしいからな」
「まったく大したやつだよ。待ってろ。すぐに飯食わせてやっから」
飯を食わせてもらってから、おれは自分の家に帰ってもうひと眠りについた。
目が覚めたらちょうど朝だった。
包帯まみれの全身だったが、顔ほど重症ってわけでもなさそうだった。おれは包帯をほどいて傷を空気に触れさせる。少し染みるが、問題はなさそうだ。あとで薬草風呂でも焚いて入れば、こんな傷すぐに治るだろう。
「さて、行くか」
青屋のおやじに聞いたものの、自分の目で確かめないと気は済まなかった。おれは足袋を履いて外に出て、村の中心に向かう。
途中、いつもの童どもとすれ違う。
童どもは囃し立てなかった。おれの顔の火傷の痕を見て、目を逸らしただけだった。
ふん。根性のねえやつらだ。
そのまま村を歩き、屋敷の前まで来る。
少し焦げ付いた門の向こうでは、とんてんかんかんと大工が金づちを動かす音が聞こえてくる。門番はおれの顔を見てぎょっとしたが、おれが「みよはいるか」と言うとすぐに通してくれた。
道場があった場所は、まだ何も建っていなかった。
千葉のおやじはまた来るだろうか、と考えながら土の地面を蹴って待っていると、家のほうから綺麗な着物を着た奥方に連れられて、みよがやってきた。
「……金ちゃん」
ああ、みよだ。目を伏せて顔色は悪いが、間違いなくみよだ。
「無事でよかった」
「うん。ありがとう。金ちゃんのおかげだよ」
みよは視線を落としたまま頭を下げた。
奥方はおれの目をじっと見つめて、柔らかい面持ちになった。
「わたしからもありがとう、金助殿。みよを守ってくれて」
「いいんだ」
「ほんとうにありがとう」
奥方は涙ぐみながらおれをそっと抱きしめた。
「お、奥方様……おれなんかに触れたら、綺麗な着物が汚れるぞ」
「構いません。みよの命の恩人ですから」
「そういうわけには」
慌てて体を離してしまう。
身分が違う大人にこんなことをされるとは思わなかった。
「あら、迷惑だったかしら」
「そ、そうじゃねえ。おれには、分相応じゃねえからよ」
「あらあら。かしこまっちゃって」
くすくすと笑う奥方。
「金助殿の話はよくみよから聞いていました。随分仲良くしてくれていたみたいね」
「それはこっちの台詞だ」
「千葉のご主人からも話は伺ってます。なにやらめっぽう腕が立つとか」
「そんな、恐れ多い」
「それでひとつ、相談があるのです」
奥方は俯いて立つみよの背中をぽんと叩いた。
「金助殿がよければ、うちで奉公として働いてみない? みよの護衛も兼ねてですが」
「お母様!?」
みよが声を裏返した。
奥方は意に介さず言葉を続けた。
「ちょうど年季も差し迫っていて、つぎの受け入れも考えていた頃です。金助殿にはもちろん特別な御礼も出すし、悪い話ではないと思うのだけれど」
それはなんとも魅力的な提案だった。
おれは親無しの山童。身分もないようなもので、このままの生活が死ぬまで続くと思っていた。
二つ返事で引き受けたいところだった。
しかし、そこでおれはみよと目が合った。
いままで顔を伏せていてたみよは、ようやく俺の顔をまっすぐ見たのだった。
「……。」
その目に、その顔に浮かんでいたのはいつもの明るい表情じゃなかった。
怯えだ。
みよはおれの顔を見て怯えていた。それだけじゃない。なにかおぞましいものを見たような嫌悪感が、その表情にぴたりと張りついていた。
つい、自分の顔を触る。
焼け爛れて醜くなった、右半分を。
「……せっかくの申し出、ありがたいけど」
おれはひとつ拍を置いてから奥方に向き合った。
「おれみたいな者が奉公に入ると、家の名に傷がついちまう」
「そんなこと金助殿が気にしなくてもよいのですよ」
「それにおれは自由に暮らして、自由に死ぬつもりだ。いままでも、これからも」
「金助殿……そうですか。わかりました」
奥方は残念そうに肩を落とした。
その隣にいるみよは、少し安心したようだった。
おれは悟られないように奥歯を噛みしめる。
なんてことはない。
なんてことは、ない。
「それじゃあ話も済んだし、おれは帰るよ」
「わかりました。本当にありがとうね」
「気になさらず。おれがやりたくてやったことだ」
そう言い捨てておれは屋敷から去った。
みよとは別れの言葉も何もなかった。
屋敷から家までの道中、何度も火事の記憶が甦ってきた。
炎と煙。
ぐるぐると回る独楽みたいに、記憶が揺れて吐きそうになる。
叫び出しそうになるのをぐっと堪えて家に辿り着く。
倒れるように布団に寝転んで、枕に顔を押しつけて誰にも見られないように涙を流した。何度か堪えきれずに嗚咽が漏れた。
この家が村はずれでよかった。
少しでも悟られずに済――
「なんじゃ、おぬしか」
いきなり隣から声がして、ぎょっとした。
おれは飛び跳ねた。
さっきまで誰もいなかったはずのおれの部屋に、見覚えのある童女がいた。
道場で出会った不思議な童女だった。
つい息を呑む。
「……おまえ、どうやって」
「さてさて、呼ばれて出てみれば面白いこともあったもんじゃ」
童女はおれの言葉を聞かずに、薄い笑みを浮かべていた。
その視線はおれの頬についた涙の跡を見定めて。
「合縁奇縁とはいうものの、まさかおぬしの方だったとはな」
「……なにがだ」
「てっきり小娘のほうだと思っておったわい。おぬしが唐変朴なことは、一目してわかるからのう」
「なんなんだおまえ」
「ふふふ。これは一本とられたわ。ほんに面白い。ああ面白い」
童女は不気味に笑う。
やはり只者ではない。
おれは小太刀の柄に手をかける。
「まさか、物怪か」
「おい物騒なことをするでない。わしをなんだと思っておる」
「さては妖か、おれを食っても美味くねえぞ」
「そんな低俗なやつらと一緒にするな。わしは神じゃ」
「は?」
つい気の抜けた声が出る。
童女はため息をついた。
「だから、神じゃというておる」
「……なんのだ」
「おぬしらで言う五穀豊穣と縁の神じゃ。このあたりの地母神も兼ねておるがのう。そんなこともわからんとは、おぬし、もしやこの村の者ではないな」
あいにく山で育ったおれは神様に祈ったことはない。
地母神ってことは、こいつが村のみなが社で奉っている櫛形様とやらだろう。まさか童女の姿とは思わなかったが、あるいは姿などなんでもいいのかもしれない。
しかし神様なんぞが目の前に降りてきたのは初めてだったので、どう対処していいのかわからん。それに本当に神様かどうかも怪しいものだ。人を騙して喰らう妖など、いくらでもいる。
「ほんに、信仰心がないのう」
「うるせえ。それで、たとえおまえが神様として、おれになんの用だ」
「縁の神じゃというておろう?」
童女は目を細め、まるで射抜くような視線でおれの眉間を睨んだ。
「おぬしに起こったことはよおく理解しておる。先刻、命からがら助けたむすめっ子に、その傷痕を拒絶されたであろう? その時気づいたはずじゃ。あの女子が好いていたのはおぬし自身ではなく、おぬしの美しい顔だったことにな。……わしはその時のおぬしの心の軋みに呼ばれてやってきた」
「どういうことだ」
見透かされている。
不思議なことに、嫌な感じは受けなかった。童女の言葉に偽りがないと確信してしまう。
だが、それそこが罠かもしれない。
「そう警戒するでない。おぬしの気持ちもわからなくはないが」
「……。」
「ま、わしにとってはどっちでもよいがの。所詮、わしの助けがいるかどうかはおぬしが決めること。わしはただのきっかけじゃ」
「言ってる意味がわからねえ」
「簡単なことよ。わしは『恋縁の神』。悲恋がわしを呼ぶのじゃ。命を賭して女子を助けたにも関わらず、それゆえ女子から拒絶された。これほどの悲恋はあるまい。じゃからわしが参上したのじゃ」
そう言って童女は、袖の下から木箱をひとつ取りだした。
掌に乗るほどの小さな木箱だった。その蓋を外すと、中には小さな鈴がひとつだけ入っていた。赤い紐がついた銅の鈴だった。
「これは【悲恋の鈴】というものじゃ。おぬしにこれを献上しよう」
童女がおれの手の上に鈴を乗せた。
まるで羽のように軽く、なぜか暖かさのある鈴だった。
「もしおぬしが望むなら、その鈴を三度続けて鳴らしてみるがいい。そうすれば、たった一度だけおぬしが望んだ過去に還ることができる。好きな刻に戻ることができるのじゃ。もしおぬしの顔を歪めたあの火事の夜に戻り、今度は女子を助けに行かなければ、そんな思いをしなくて済むように――」
童女の言葉を信用したわけじゃなかった。
それでもおれは、迷わずに鈴を鳴らした。
凛。
凛。
凛。
「もしおぬしが望むなら、その鈴を三度――」
童女は言葉を止めて、目を開いておれを眺めた。
「おぬし、使ったな? 一度しか使えぬその貴重な【悲恋の鈴】を、こともあろうにたったの刹那を戻るために使ったな?」
過去に戻る鈴。
たしかに嘘ではなかったようだ。
「なぜじゃ。おぬし、過去をやり直したくはないのか」
「うるせえよ」
おれは手の中に残る鈴を握りしめた。
ほんのわずかに重くなった、ただの鈴になったその鈴を壊すほど握りしめた。
「そんなこと、おれに考えさせるんじゃねえ。悔やんじまうだろうが」
それ以上は言えなかった。
考えれば考えるほど、おれは想像してしまう。
みよのことも、火事のことも、おれのことも。
過去を変えられるなんて知ってしまったら、その術が手にあるとしたら。
「おれはみよが好きだ。優しいところも、わがままなところも、怒りっぽいところも、ぜんぶ含めてみよが好きだった。だから助けたんだ」
「じゃが、その女子がおぬしを好いていた理由は、おぬしの顔じゃった。命を懸けて、そのような姿になってまで助けた報いが、拒絶なのじゃぞ」
「そうだ。でも、おれが助けたかったのは、おれがそうしたかったからだ」
おれの口から、勝手に言葉がこぼれ落ちてくる。
「おれは好かれたかったわけじゃねえ」
嘘だ。
「みよが生きてくれればそれでいい」
虚言だ。
「悔やんでなんかいねえ」
欺瞞だ。
自分ではわかってる。でも、おれは認めたくなかった。
そうでも思わないと、助けた意味がわからなくなる。
「じゃがおぬしは――」
「もうこれ以上、おれを嫌いにさせないでくれ!」
おれは小太刀を放り出し、床に額をつけた。
童女の前にも厭わず涙を流す。
どこから溢れた涙なのかも、自分ではわからなかった。
しばらくの間、童女は呆れた顔でおれを見下ろしていた。なんとも惨めで、なんとも情けないおれの姿を冷ややかに眺めていた。
それから夜になって月の明かりが間口から差し込むまでの長い間、ずっと頭を上げなかった。上げてはいけないような気がした。
いつのまにか童女の姿は消えていた。
手の中に残る冷たい鈴の感触だけが、空っぽになった心の中に凛と響いた。