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未来はいま深い海を潜ってる

作者: 夏川彗

0 妙な商売はおしまい

 2032年はクボタにとって大きな節目になった。小さな赤字をきざみ続けた松坂牛ビジネスに共同経営者との荒々しいいさかいの末に終止符を打ち、コンビニエンスストアのフランチャイズ店もタイガーバーム売りから一財を築いたチャイニーズに二束三文で売り渡した。シェールガスのせいで7割も減価したインドネシアの石炭会社の株式も、それを勧めた一流大卒を鼻にかける役立たずな証券マンにこれでもかと暴言を吐いた末に放り投げた。そして手にしたいくばくかのカネで、千葉の建て売り住宅の月賦払いを完済させた。その家には別れた妻が若い男と住んでいるのだから悲劇的だったが、「これで縁が切れた」と思うと彼の気持ちはすこぶる軽くなった。

 彼をとりまくあらゆる問題がいちどきに整理された。クボタはまたシンプルになった。若く飢えていたころ、自分の中を流れていたさわやかな気流が戻ってきた気がした。

 「もう妙な商売はおしまいだ…」

 彼は狭い事務所の古ぼけたソファーにどっぷり座って、本業のビデオレンタル業一本で生計を立てる決心をした。彼は高校生のアルバイト時代から15年のレンタルビデオ業の経験がある。つまるところ、彼はレンタルビデオがなんであるかをとてもよくわかっているのだった。

 すると、事務所に差す午後の斜陽が、未来から届いた光のように思われた。その明かりを受けながら、彼は両手の指で自分の年齢を数えてみた。32。大丈夫だ。おれの未来には、まだ可能性の荒野が広がっている、と彼は確信した。

 そのときだった。10年勤めるシニア・アルバイトのエイミが来客を告げた。

 「おい、クボタ。おれはとんでもない運命にぶつかったよ」

 悪友モロボシはイケアで買ったソファにどっかと座ってそう言った。ピラミッドでも探しにいくのかと思わせる探検服を着て、子どもじみた虫かごと虫網を手に提げていた。クボタの脳裏にねずみ花火の導火線が吐きだす白い煙のにおいが蘇った。このにおいを思い出すときは脳みそが「要注意」のシグナルを発しているときであるとクボタは理解していた。


1 モロボシの説明

 「まず、おれはソウという女について説明せねばならない。この女がストーリーの中心であり、これから話されるあらゆるできごとのきっかけなのだ」

 モロボシは決闘に望むカーボーイのような真剣さをかもち出した。顔の肌はしけったせんべいのようにぼろぼろだが、目には強くて乱暴な意志が宿っていた。彼の探検服は乾燥ホタテのようにかりかりで、すえた匂いがした。彼の体には運動不足による倦怠感が満ちている。彼はエイミが出した極めて酸味の強いコーヒーを口に含み、顔を思い切りしかめた後、茶色い唾液を飛ばしながらしゃべった。

 「要するにだな、クボタよ」と始めたにもかかわらず、彼の話には「要約」した形跡なんてものはひとつも見られなかった。むしろ、それは自分のショベルで、自らの足場を切り崩して崖底に落ちていくショベルカーのような支離滅裂な有様だった。クボタは最初混乱し、そのうち諦めた。モロボシは独演会をさんざかまして「まあそういうことだな」と独りよがりな結論に達した。

 クボタは額や首筋にたまった心地の悪い汗を、ビデオ屋の制服である前掛けで拭いた。腕時計の針は2時間進んでいた。しかし、もしハリウッドの編集技師が手を入れればたぶん20分足らずのストーリーにまとめるだろう。要約してみると、こんな感じだった。


2 女、ソウ 

 ソウというぱっとしない女がいた。

 歳は20代の後半くらい、顔は10度会わないと覚えられないくらい特徴がない。化粧をとればのっぺらぼうになりそうなほど、目鼻だちが平たかった。存在感もとっても希薄だった。

 もちろん彼女はそれだけじゃない。些細な悩みを両手一杯に抱える現代女性でもあった。中堅旅行代理店での単調でストレスフルな仕事に嫌気が差していた。会社にいる女全員に欲情しているそぶりのあるエロ上司の死を願わない日はなく、しかも同年代の友人は次々と結婚して次を争うようにあがっていく。自分のしていることに自信や満足感がうまく持てない―。「私こんなことをしていていいのかしら…」。彼女は駅から家までの帰り道にえんえんとそんなことを悩んだ。なんとなく考えられた安易な解決策は仕事を替えることだ。

 だが、ウィラという美形の彼氏が転職の邪魔をした。彼はフリーランスと自称する遊び人で、つまりヒモだった。彼女が衣食住の面倒を見ていた。すこぶる金がかかる。そのせいで仕事を辞めようにも辞められない。彼女は自分ががんじがらめになった気がした。

 彼女は夏のある日、帰りの囚人護送車を髣髴とさせる満員電車のなかで、短大時代からの親友の畠山一恵さん(28)のことを思い浮かべた。畠山さんは開けっ広げな性格で思いやりのある「みんなのリーダー」だった。内気なソウが心を開いて分かち合える数少ない人間だった。

 だけど、畠山さんは短大を卒業してから悲しい恋愛事情を抱えるようになった。彼女は転覆事故の後遺症で引退した元競艇選手と長い間付き合っていた。男は人生をかけていたボートレースを失い仕事をせずにふらふら。それを大手百貨店の婦人服売り場で働く畠山さんが食べさせていた。男は未来を嘱望された若手選手から、ヒモにまで落ちぶれたせいでだんだんおかしくなり、やがて二人の間にけんかが絶えなくなってきた。

 すると男は突然姿をくらました。彼女がデパートで働く間、南船橋のホステスと逢瀬を重ねるようになっていたことが彼の置いていった携帯電話からわかった。

 畠山さんは復讐の業火に焼かれながら布で包んだ包丁をバックの中に入れて、そのホステスのアパートにやってきた。だが、部屋は蛻の殻だった。ちょんちょんちょんと畠山さんの肩を誰かがたたいた。訳知り顔の近所の年増女のご登場だ。「あのホステスはいつも男を引っ張り込んでいたね。その男とどうやら『遠い所』に引っ越したんだ」。

 彼女は路上に崩れ落ちて、さめざめと泣いた。涙は灰色のコンクリートに落ちて、それは黒く染まっていく。悲しみはとても深く、どこまで沈んでいくことができた。

 なんと残酷なことだろうか、おなかのなかには新しい生命が宿っていた。彼女は迷った末に親の反対を押し切って生んだ。デパートの仕事を続け、ぼろぼろになりながら必死で子どもを育てた。けれど、ちょっとした気の迷いが命取りになった。叔母の勧めに乗ってたちの悪いマルチ商法に手を出してしまったのだ。そこからは崖から転げ落ちていくようだった。今は親子ともども山のなかにある宗教団体に身を寄せている。


3 別れ話と中華包丁の親和性 

 これらの畠山想定により、ソウは男との別れを決めた。

 五月雨の降る少し肌寒い日。彼女は告げた。

 それはすでに「決まった」ことのようだった。彼にはそれに抗う術はないだろうと、ソウは決め込んでいた。

 でも、ウィラはまったく想定外の行動に出た。ウィラは窓の外を眺めながらしばらくふさぎ込んだ後、無言のまま台所に行くとずんぐりと大きな中華包丁を握りしめて戻ってきた。彼は東シナ海をまるまる満たしそうな巨大な狂気に染まった。「おまえをぶっ殺してやる。ぶっ殺してやる…ぶつぶつぶつ」

 いきなり彼女の意識がぐにゃりと歪んだ。わけがわからなくなる。次に音が死んでしまった。そればかりか映像もぼやけていく。

 彼女の意識は〈オーディオ・ビジュアル〉に占領された。


4 音声を添えた映像

 ―〈オーディオ・ビジュアル〉のなか

 麦畑の中を歩いている。麦の穂は周りの風景をさえぎっている。その上に空は広がっていた。水墨画みたいな薄い青が溶け、ちぎれ雲が寂しそうに泳ぐ。子どもたちのあげるたこがそよ風に揺られているのが見える。さわさわと小麦たちがささやき、遠くの森からあやしいけものたちの鳴き声が聞こえてきた。長い間穂の間を駆け抜けていくと、ぽっかりと何にもない空間に出た。そこには死んだ耕作機が横たわっていた。何の気なしにその死んだ耕作機を触ると、何かがほとばしり体が震えた。その中に潜んでいた何かの〈記憶〉が指を伝い、するすると彼女の中に入り込んできた。

 これはなんなのかしら―。

 手を放したときには、西の空が真っ赤に染まり、風に冷たさが混じっていた。もうすぐこわいこわい夜が来る。

 逃げるように穂の中に飛び込む。


5 モロボシの介入

 〈オーディオ・ビジュアル〉は彼女を通り過ぎた。その瞬間、ウィラが雄たけびを上げて、渾身の力で中華包丁を振るった。南無三―。だが、疾風のごとく現れた誰かが、包丁を吹っ飛ばした

 モロボシだった。

 モロボシとウィラの決闘は、蝶のように舞い蜂のように刺すモロボシに軍配が上がった。ウィラはばたんと床に横たわり、浜に打ち上げられた海亀のように泡を吹いた。「明後日来やがれ」とモロボシは息巻いた。

 しかし、そのときにはクエの姿は忽然と消えていた。彼は泡を食って部屋中をくまなく探したが、見つけられなかった。彼は地団駄踏んだ。彼の「主たる目的」は、彼女が持つ〈記憶〉だったから。


6 耕作機の村

 その数日後―。

 彼は彼女の故郷を訪れた。奇妙な事実にぶつかった。

 そこは山に囲まれた小さな盆地にある集落だった。彼はある情報を介して、彼女に〈記憶〉を渡した耕作機を探した。彼が採ったやり方は、昆虫学者のふりをして村の民宿に長逗留することだ。嘘八百、ああ言えばこう言う、口先三寸などとの異名をとるモロボシにとって、朴訥な農民たちの目を欺くことなど、赤子の手をひねるようなものだった。彼は村人から学者先生と慕われ、家々で菓子や果物や野菜をご馳走になった。虫かごと虫網を持って颯爽と草原と森を散策し、ついに麦畑の中にぽっかりと開いた空間へと辿り着いた。その機械は空間の真ん中に鎮座していた。

 耕作機は軽自動車ほどの大きさだ。塗料はほとんどはげていて、じんましんのように全身に錆がつき、冷蔵庫に入れ忘れたショートケーキのごとく崩れ落ちていた。それは南方の島の浜辺に置き忘れられた戦闘機を想起させた。彼は機械の状態をつぶさに観察し推測した。耕作機が「死骸」だと分かるのに時間はかからなかった。「これは捨て置かれてから数十年の時を経ているとみられる。〈記憶〉が抜き取られたのも、もう10年、20年は昔のことだろう」。

 モロボシは村人たちにそれとなく耕作機について尋ねた。しかし、驚くべきことに村人はその耕作機のことを知らなかった。その耕作機があった麦畑のぽっかりと開いた空間のことも知らなかった。

 モロボシは翌日再び耕作機の場所を目指したが、どうやっても辿り着かなかった。

 彼はとてもおかしいと思った。ポイントを突いた考察だった。


7 ソウという女について知っていること

 モロボシは次に〈記憶〉を帯びるソウについて調べることにした。すると、彼女がミステリアスな霧に包まれた人物であることが露になってきた。

 ソウはほかの村人と距離を置いて暮らしていた偏屈な猟師の一人娘だった。彼女はほかの子どもたちとまったく群れなかった。彼女が好んだのは、一人きりで山々を覆う森に入っていくことだ。

 森の中には常に深い霧に覆われる場所があった。そこに入って帰ってこなくなった人が相次いだから、村は村人に立ち入りを堅く禁じていた。だが、彼女がその場所に入っていたのは誰もが知るところだった。彼女は言葉数が少なく、いつも氷の表情を浮かべ、神秘的な雰囲気を身にまとっていた。

 村人たちはうわさした。彼女には物の怪や霊と通じ合える力が宿っている、森の深くで人間ではないなにか恐ろしい姿に変身しているのではないか、と。

 このうわさにはもうひとつ重要な根拠があった。それは彼女が生まれたとき、一度「持ってかれた」ことである。ソウの産婆をしたという老婆がいる。ヤヨイは齢80だが元気そのもの。日がなお茶を飲んでは老婆どうしおしゃべりをしていた。

 彼女はソウの誕生日をたった今起こったことのようにしゃべるのだった。「ソウちゃんが生まれた日はとんでもない大嵐だった。横殴りの風が山の斜面を下って村に吹きつけていたわ。猟師の家の戸はがたがた、がたがたと体を震わせ、柱もぎいぎいときしんでいた。家自体が揺れていたかもしれない。そのうち天井が落ちてきて、みんなつぶれちゃうんじゃないかと思ったわ。

 長い間ソウちゃんは出てこなかった。お母ちゃんはまあまあつらそうだった。それでもやっと世界を知った赤ん坊を見ると、彼女はうれしくてうれしくてたまらなさそうだった。彼女は横になりながら赤ん坊を抱きしめた。しかし、突然巨大な雷が家の庭に落ちた。家を包んだ白い光が去ったとき、ソウちゃんの姿は忽然と消えていたの。お母ちゃんはこんなことを言うのよ。『誰かが持っていった。とてつもなく強い力で引っ張っていった』。そして彼女は悪霊に憑かれたようにむせび泣き、頭をたたみの上にたたきつけ始めた。彼女は叫んだ。『どうして、どうして』。それは目も当てられない残酷な風景だったわ」


8 ソウ・2

 「赤ん坊は消えちゃったのよ。村人は赤ん坊が人身御供になったと信じた。赤ん坊は神様が連れて行った。そしてたぶん神様になった、そう信じていた。そういうことは昔からたまに起きたわ。村は神様の土地を切り開いて生活の糧を得ている。だから神様はたまに代償を求める。それがたまたま猟師の家の赤ちゃんだったんだってね。だから神様の気まぐれだったのよ。でも、両親がそれで納得できるはずがないでしょう。両親は狂ったように彼女を探した。みんな猟師に同情していた。やっと生まれた赤ん坊が『持ってかれた』なんてひどすぎるじゃないの。

 でもね。変なことになったの。これをどう説明すればいいのか、私にはよくわかんないわ」

 彼女は深いため息をつき、首をかしげた。

 「赤ん坊は2ヵ月後川のほとりにある木陰でじゃれあっていた若い男女が見つけた。その若い男女はこうみんなに話したの。『あの赤ん坊は上流の方から蓮の葉の上に乗って下ってきた。赤ん坊は裸のままぐっすり眠っていた。蓮の葉が流れで揺れているのを気にする様子なんてなかった』ってね。男は赤ん坊を拾い上げて、川原の草むらに横たわらせた。赤ん坊はやっと目を覚ました。そして『泣きもせず、笑いもせず、ただただ冷たい表情で空気を眺めていた』らしいの」



 それ以降、彼女をめぐる話は途絶えてしまう。彼女は山を下りて街の高校に通い、やがて東京の短大に行った、というのが風のうわさ。でも本当にそうしたか、知っている人は誰もいなかった。

 「ううむ。どうも、ヒモと縁切りして転職もしてすっきりしようっていう女とかさならないなあ」とクボタは言った。ミステリアスなソウ、平凡な現代女性のソウ、この二つは大きく「断絶」している。

 そこで二人はこんな素朴な疑問にぶつかった。幼いソウと大人のソウははたして同一人物だろうか―。


9 ソウの行方

 「この謎を明らかにするには相棒が必要だ」。モロボシは喉の渇きを感じ、酸っぱいコーヒーを飲んで顔をしかめた。「もちろんその相棒というのは、おまえだクボタ」

 クボタはぎょっとした。「おいおい。待ちねい。おれはビデオ屋だぜ。しかも、アダルトビデオがもうけの半分を占める格好の悪いビデオ屋だぜ。真夜中になると、不健康な男たちがこそっとやって来て、こそっと借りにくるような店なんだよ。それが〈記憶〉を持つ女を追う? なんの話しだい? まったく違うじゃんか。ジャンルが。SFとコメディくらいの大間違いだよ。水と油ってやつだ、モロボシさんよう」

 クボタは「レンタルビデオのクボタ」とゴシック調のプリントが入った、黒い前掛けを引っ張って見せつけた。それは洗濯し過ぎたせいで、引き出しのなかから見つけた昔のフィルム写真のように色あせ、くたびれていた。「おれはついさっき心機一転を誓ったばかりだ。妙な副業に手を出す気はないんだ。来週はロボコップフェアをやるんだ。その次はブレードランナーフェアをやるんだ」

 だが、モロボシは人差し指を突きつけてこう断定した。「そんなことはないぞ、クボタ! SFとコメディの組み合わせ、結構じゃないか。やろうよ。おれと大河SFコメディ」。すると、彼の人差し指の先の空気が真夏の陽炎のようにもやもやとよじれた。クボタは何度も目をこすったが、その奇妙な現象は起こり続けている。モロボシは次第にその指をトンボを惑わすふうにぐるぐる回し始めた。「いやあおれは知っているなあ。お前はレンタルビデオ屋としての未来に絶望している。自分がするべきことはほかにあると思っている。ビデオのなかには夢の世界が広がっているのに、それを貸し出している張本人の人生には夢なんか全然ないんだからね。ああレ・ミセラブル!」

 すると、モロボシの頭蓋骨をレンタルビデオ稼業のネガティブな側面が貫いた。10数本まとめて借りてすぐさま遠くに引っ越す会社員、ビデオがつまらなかったと小一時間文句を垂れる主婦、13歳の会員証でアダルトビデオを借りようとする中学生、こっそり商品のビデオを持って帰るアルバイト。うんざりだ。喜び組アイドルの無個性で有害な歌声を日に12回くらい聞かせてくる有線放送、1月に1度ほどある駐車場での衝突事故、利益を削りあうような競合店との100円レンタル合戦。やっぱりうんざりだ。

 モロボシは持ちうる話術を総動すると、門がこじ開けられ、櫓が焼かれ、本丸に兵がなだれ込んだ。クボタという城は陥落した。クボタはモロボシのマインドコントロール術にはまったとは全然思わなかった。


10 この銀河系には『憎しみの惑星』がある

 ブラインドからのぞく都会の風景は、夕方に差し掛かっていた。路上を人々や乗用車が交錯し、無数のネオンたちに明かりがともる。夜の困惑がもうそこまで来ていた。

 モロボシは虫かごの中からくるくると丸められた本を取り出し、それを漁師が船の上で魚をそうするように、ひょいと投げた。クボタはそれをキャッチしてぺらぺらとページをたぐってみた。それは「憎しみの惑星」というポルノ映画の台本だった。

 その台本はポルノ映画とは思えないほどの暗い要素が含まれていた。四国の田舎から上京した二人の姉妹が主役だ。二人は小奇麗なマンションに一緒に住んでいた。姉は中の上の大学の法学部4年生。しっかりもので大手食品メーカーへの就職が決まっていた。妹は高校を出たばかりの短大一年生。妹は姉とは正反対のおっちょこちょいで、いつもだまされてばかりいる。妹は姉とずっと比べられる半生を過ごしており、表面的には姉を頼りにしているふうだが、内心では姉へのただならぬ嫉妬をたぎらせていた。妹はあるとき、特飲街でものすごく格好のいい男にだまされて、ものすごく格好が悪くていかめしい男に、手込めにされてしまう。グランドキャニオンの急崖から落下するがごとき悲しみのなかで、妹はなぜ自分だけがこんな悲惨な目に遭って、姉は遭わないのかと思った。それは常日頃抱えていた嫉妬とあいまってどろどろとした怨念に成長した。妹はその格好が悪くていかめしい男に、我が姉を襲うようそそのかした。姉は妹の悪意に困惑しながらも、男の魔の手をかわして逃げ回った。だが、最後に妹が監禁されて姉に助けを求めているふりをすると、姉は一人でその個室にやってきて、男に捕らえられ、妹の目の前で手込めにされてしまう。妹は魔物に取り付かれたような笑顔を浮かべて、その様子をじっとりと見ていた。


11 世界で1万台のソファとの別れ

 クボタはビデオ屋稼業15年、映画を観る眼は肥えていた。彼の観察では、その脚本は悪くなく、下手をするととんでもない傑作に育つ可能性を帯びているように思われた。

 おっちょこちょいの人間を騙す人間の悪意にどんな評価を下すのか。その悪意が罪なき人を餌食にする不条理をどこまで、際立たせるか。妹のなかにマグマのように潜む卑しい感情をどこまで徹底的に描くか。最後のシーンが絶望的に含んでしまう「痛み」をどこまでえぐり出すか。これらが、クボタがこの作品の甲乙を左右すると思うポイントだ。

 クボタが台本読みに没頭している間、ずっと両切り煙草をぷかぷかふかしていたモロボシは、不思議の国のアリスのチェシャ猫のようにたくさん煙を吐いて、最後のページにキャスト一覧があるからそれを見てみろ、と言った。そこには役の名前と、普通の生活を送る人々には知りようもない無名俳優の名前が羅列されていた。姉役の役者の欄を見て、クボタは腰を抜かした。そこには「青宋あお・そう」とある。これは〈記憶〉を帯びたソウと同じ名前であった。「どうしてこんなことになるんだ」

 二人は世界で少なくとも1万台売れたイケアのソファから立ち上がった。「エイミちゃん、ちょっと店を任せたよ」。クボタは前掛けをカウンターの下のカラーボックスに放り投げた。「は〜あ〜い」とエイミちゃんはカウンターで「ヴォーグ」を読みながら生返事した。彼女の意識はそのとき火星にあるも同然だった。

 二人が歩く路上からは、燦然と輝く超高層ビルが見えた。その上空を鉛筆で線描したがごときフォルムの白い気球船が飛んでいた。

  

12 お化け屋敷

 二人は界隈で有名なピンク映画館「お化け屋敷」 についた。「お化け屋敷」は大正デモクラシーのときに開館した由緒ある映画館だ。戦時中は日本軍の快進撃を礼賛する映画を上映していたが、東京大空襲で半径1キロが全部焼けたのにもかかわらず、お化け屋敷だけが奇跡的に焼け残った。戦後は気持ちを切り替えてポルノグラフィ一筋にまい進した。ポルノグラフィの鑑賞場所が、再生装置の発展により映画館から各個人の自宅へと移ったいまでも、お化け屋敷はピンク映画館にこだわるその道何十年のつわものたちの「集合場所」として知られていた。

 その長大なる歴史を、建物のたたずまいはありありと語っていた。しっくいでできた壁は腐りかけの木綿豆腐のようにぼろぼろ。黒帯の空手家が殴れば簡単に穴が開きそうだ。瓦をアスベスト混ざりのトタンで補強した貧弱な山形の屋根はぐにゃぐにゃゆがんでいる。黄色いライトが照らす大型看板には「団地妻がひた隠す3つの秘密」という新作の大時代的なイラストが描かれていた。その横にちょこんと「『憎しみの惑星』同時上映中」とある。

 上映室の50席には世離れしたおっさん、とんぼ顔をした若者らがぎっしりと詰まっていた。二人が入ったときはちょうど「団地妻がひた隠す3つの秘密」のラストシーンだった。団地妻が嫁入り道具の桐ダンスから、極めて卑猥な物体を取り出して、中学生の息子の同級生で前髪を茶色く染めているちょっとヤンキーなハシモト君を、誘惑するや否や、若干13歳という設定のハシモト君がハッスル。まるでドッグレースの犬みたいな様子じゃあないか。映写機が銀幕に映すフィクショナルな二人はやがて、フィクショナルで野蛮な音楽を奏でるのだった。

 モロボシはぽくぽくと外に歩いていって、ワンカップがたくさんつまったビニール袋とともに戻ってきた。彼はその瓶をクボタだけならず、周りにいるおっさんどもにも配って親愛のしるしを見せた。「やあ、やあ、ありがとさん、同胞よ」とおっさんたちはそれをぐいと飲んでうんとうなるが、まんじりともせず画面を見つめるのをひとときも忘れなかった。そこにはビンゴの当たりをいまかいまかと待っているおばさんたちや、株価や先物相場の折れ線グラフの推移を一喜一憂して見守るデイトレーダーに通じる真剣さがあった。終幕すると、おっさんたちは車座で作品をめぐる議論を盛んに戦わせるのだ。その足で安飲み屋まで行って朝まで話し合うのが彼らの流儀である。


13 ラドンのため息

 二本立ての次の回が「憎しみの惑星」だった。幕開けは妹が東京への特急列車の客席から、車窓の風景を希望に満ちた目で眺める場面で幕を開けた。その後姉のアパートに到着して、姉が妹と話をする。ロングヘアの姉の顔が見えた。モロボシはごくっとワンカップをあおった。のど仏がスロットマシーンのレバーのように上下した。「間違いない。やっぱりソウだ」。口から漂う匂いは人生の敗残者が帯びる種類のすっぱさが満たしていた。

 映画自体は悪夢のようなできだった。脚本が描いた不条理と姉妹の葛藤は完全におざなりにされ、妹のラブシーンだけがいやに饒舌なカメラワークで長々と展開された。登場する役者のやることなすことすべてがわざとらしいか、やる気のひとかけらもなかった。妹役は台詞がたどたどしく、途中で恥ずかしくなってはにかんじゃう始末だし、妹をだます「とても格好のいい」男は内気な肉屋のような風貌で全然格好悪いのに、ナルティシズムに傾倒していて、その自負の現れがことさら見える言動がどうにもこうにも目も当てられない。

 ああ、なんてこった、とんだ駄作だ、と場内のポルノ通からは、最も重たいとされる気体ラドンのため息が漏れた。


14 詭弁は撤回されなければいけない

 そんな死屍累々のなかで唯一良かったのが、ソウの演技だった。彼女には映画に現実感を催させる才能があるようだった。彼女がいるだけで陳腐な画面や、ありがちな場面がたちまちに現実感を帯びはじめるのだから面白い。彼女は特別なことはなにもしない。ただすっとそこにいるのだ。それが効を奏した。

 しかも、ソウは演技のふしぶしにいろんな工夫を盛り込んでいた。例えば、妹が引っ越してきたときには、どことなく妹を歓迎していない雰囲気が漂っている。姉と妹が話す場面ではたまにソウは妹の嫉妬に気づいているそぶりを混ぜてもいた。そのせいで二人の葛藤が潜在的にあることが透けて見える仕掛けだ。

 さて問題は最後のシーンだった。ソウは監禁されたふりをする妹の電話を頼りに、俗物どものたまり場である東京のウォータフロントにある、高級タワーマンションのもとに向かうのだ。

 彼女はマンションの前で立ち止まった。そこには東京の光たちに照らされながらも沈黙している、黒い海が横たわっていた。彼女はすべての要素が漂白された完璧な真顔でそれを眺めていた。もしかしたら彼女はその海に噴きあがるような怒りを認めたかもしれないし、あるいはあふれんばかりの悲しみを見たのかもしれない(とクボタは思った)。彼女はやがて意を決した。

 ソウは17階の部屋に入ると、縛られた態の妹がへらへら笑いながら「お姉ちゃん助けて!」と台詞を棒読みした。ソウが「大丈夫!」と妹に駆け寄ろうとしたことろに、物陰からスキンヘッドで体中を鯉の刺青で覆った乱暴な男がすっくと現れて、電光石火でソウを組み敷いてしまう。「クックックック。お姉ちゃん、引っかかったね」と妹が悪魔のごとき笑みを浮かべて、呵呵大笑した。スキンヘッドは舌なめずりをしながら妙な演説をやらかした。

 「いいかい、お利口さんのお姉さんよ。おれには何の罪もないんだからね。だって、あんたをこうしろってそそのかしたのは、あんたの妹なんだ。おれは妹にだまされたんだ。だから全部妹が悪いんだよ」

 ソウは黙っていた。

 「それからおれは『だまされる』ということにはちょいと持論があるんだ。おれはだまされるということの責任はだまされる奴にあると思うんだ。だます奴がいるからだまされる奴が生まれるというのはあまりにも凡庸な常識だ。本当のところはこうさ。だまされる奴がいるから、だまそうという欲望が生まれるということだ。

 なぜなら、だます才能を持つ人間は、だますことの欲望に抗えず、仕方なくそうしてしまうんだ。それは逃れようがないんだ。だからだましだまされることの原因を作ったのは、ほかでもない、だまされる奴のほうなんだ。だからおれがあんたを襲っているのはあんたのせいなんだ、ねえ、おねえさん?」

 すると、ソウはつばを男の顔にぺっと吐きかけた。そしてこう吐き捨てた。

 「そんなの詭弁よ。撤回しなさい」

 そこで映画は幕を閉じた。場内がざわざわした。

15 あいにくの雨

 モロボシは台本をたぐった。ストーリーは台本と一致してしない。「そんなの詭弁よ、撤回しなさい」などという台詞は少し黄色がかった台本の隅から隅を探しても、どこにもなかった。それからその前のスキンヘッドの男の演説も台本には見当たらなかった。考えられるのは、監督が急遽台本を書き換えて、新しい演出をつけたことだが、それはポルノ映画のセオリーに真っ向から反していた。「ポルノ映画ではあらゆる性交の可能性は達成されなくてはならない」(ポルノ評論家)というのが通説なのだ。なのに女は男につばを吐きかけて、それでそのまま終わってしまう。これは監督・製作総指揮のトニー斉藤が投げたポルノ映画への新たな一石であった。

 スクリーンが閉じ、明かりがついた場内では侃侃諤諤のギロンが巻き起こった。あくまで「セオリー違反」との立場を堅守する保守派。「これは新しい可能性だ」と歓喜するリベラル派。「ポルノに女の裸なんてもういらないんだ。既成のポルノをぶっ壊せ!」と気勢を上げる急進派。極めてアクティブな意見の交換がどんな落としどころを見つけるのかは、そのギロンのなかにいる誰もわからなかった。

 クボタはのん気にハイライトに火を付けて、例のシーンを反芻した。彼女の精神のあり方を指し示すかのようなあの台詞は、猥雑すぎる映画のなかで南極の氷の大陸に落ちた一房のバナナのような異質さを帯びていた。前衛映画のワンシーンみたいだったな、とクボタは煙を吐きながら思った。彼はそれをまあまあ気に入っていた。

 すると、ぽつりぽつりと雨が落ちた。ごろごろとやかましい雷鳴も後を追いかけてきた。

 間違いなくそこは上映室のなかだった。なのに雨が降っている…。

 おっさんたちは相変わらずギロンを繰り返した。篠つく雨はぼろぼろの席やかりかりのカーペットを瞬く間に濡らす。「これはどういうこっちゃ。ここを出ようじゃあないかい」。モロボシはワンカップの瓶を放り投げて立ち上がった。2人は急ぎ足で上映室を抜け出し、ロビーを走って出口に向かった。

 だが、出口は「なかった」。

 見つからなかったのではなく、「なかった」。もとあった場所はコンクリートの壁に変わり、そこには犬が蓄音機のスピーカーを覗き込んでいる写真が飾ってあった。やはり雨は降りしきり、突然映画館の電灯は力を失った。暗い。くるぶしくらいの高さまで冠水し、地面はうなぎが地中で暴れているかのように小刻みに揺れている。そして亡霊さながらのうめき声が聞こえた。

 そのとき、クボタの体の半歩手前に大きな雷がほとばしった。クボタの身動きは止まった。ぎゃあああ。モロボシの叫び声。雷の残光のなかで彼が無様にも両手を縛り上げられ、背後から食らいつく何者かに引っ張られていく。足はおもちゃの兵隊のようにばたばた、顔は恐怖で凍り付いていた。彼の影は闇に吸い込まれたが最後、どこ行ったのか分からなくなった。

 足下の水は指数関数的に増えた。あっという間にクボタは水のなかに飲み込まれてしまった。足が地から離れ、体をうまく制御できない。水は口のなかを貫き、臓腑がすべて水に浸った。だが不思議と苦しくなかった。しかも彼は魚みたいに泳ぐことができることに気づいた。全方向へ広がる海の風景。無数のトロピカルな魚たちが行き交い、海亀は眠たげな顔をしながらどこかに向かっていく。くらげは海流に揺られながら、干満に伸びたり縮んだりを繰り返していた。上方からは光がさしていた。それは水の踊りとともにゆらゆらしていた。

 強い力を感じた。じわじわと熱くさせる何かが、腹の底に湧いてきた。彼は導かれている。泳いだ。泳いだ。泳いだ。そして水の碧がとても濃くなった。深みまであとどれくらいだろう…。


16 「夢」から覚めた


 ノムラは目を覚ますと、呆然とした表情をした。彼は怪しげな男にかどわかされて行ったピンク映画館が、「大雨」で水浸しになる夢を見ていた。それは夢にしては、いやに手触りがある。ワンカップのにおいもありありと思い出せるし、ピンク映画の内容もきっちり覚えていた。それはいつもの夢みたいに、記憶から消えうせていかず、むしろ長年使った洗面台の水垢のようにこびりついた。

 彼はかなり混乱した。汗をびっしょりとかいていた。おぼれた夢をみたから、もしや失禁しているかとも思われたが、大丈夫だった。突然、吐き気。彼は便所に走りこみ、ひざまづいて、ぼろぼろのTOTOの便器のなかにぶちまけた。昨日食べた、イカの足が、消化されないまま、便器の平野に横たわった。吐しゃ物からは昨日寝る前に1リットルほど飲んだ芋焼酎の匂いが立ち上った。

 その吐き気は止まるところがなかった。彼は吐いて吐いて吐き続けた。そのうち胃も出てくるんじゃないかというくらい、吐いた。背筋に悪寒が走り、両の腕から血の気が引いていくのがわかった。嘔吐が終わった後も頭痛が残った。ノムラは再び、ベッドに横たわった。ベッドは老いたやぎのようにぎいいいいとうなり声を上げた。


17 平等の世界


 昨夜眠る前に、泥酔しながら熟読した学会誌「性と愛の研究」を、床から拾い上げてたぐった。ノムラは性愛をめぐる研究には一家言ある類だ。性愛がもたらす幾多の問題たちが、彼の人生をレールから右に逸らせ、左に逸らせ、逆走させてきたからだ。彼はその学会誌を出版している非公式な学会「性愛学会」の正会員だった。正会員になるには、古参会員の「口利き」と年間1万6千円を事務局に支払わなくてはいけないのだ。その衝撃的に赤い表紙をめくると、一ページ目に核融合のエネルギーをはらんだ中年男性が、ソファの上で踏んぞり返っている写真がでかでかとあった。その男、マルティンX会長は高らかに「性愛は高尚なり」と唄いに唄う。

 「性愛はそれ自体も熱いものですが、それをめぐる議論もまた人類史のなかで、常に熱いものなのです。性愛は近代で新たな出会いをいくつも遂げてきました。そんな数々の変化は、21世紀に性愛が行き着く先はどこなのか、一寸闇という状況を作り出しました。性愛は無数の可能性に直面してキケンで、セクシーな宙吊りにさらされています」

 そしてマルティンX会長はこう結ぶのだ。

 「われわれは常に性愛の民主性の護持者でなくてはいけません。性愛は王様であろうと、奴隷であろうと、ゴルフ選手であろうと、万人に平等なのです。性愛の下の平等は練達した独裁者すら認めざるを得ない事実でしょう。たとえ、その独裁者があらゆる国家事業からコミッションを頂戴し、周到なる愚民化政策を敷き、自分にはむかいそうな勢力には内部対立の根を仕込んで潰すという手法に通暁していたとしても、性愛の平等は壊すことはできないのです」


18 なんにもなかった


 性愛をめぐる考察が彼の頭の中で、せっせとれんがを作り、ガラスを作り、石柱を作り、やがてそれらを組み合わせて一軒家を作りあげた。そして彼はにべもなくそれを放り投げた。何かを始めようとベッドから立ち上がった。

 彼の部屋には絶望的なまでにものがなかった。近代的な人間が必要とする、数々のものが欠けている。あるのは小ぶりなガラスのコップ一つ、ぺらぺらのビーチサンダル、脱ぎ捨てられた靴下、へこんだやかん、時代遅れのトランジスタ・ラジオ、ちっこい冷蔵庫くらいだった。本当にそれだけだった。青芝の生えた一軒家で消費生活を謳歌するハウスワイフが見たら、その「不幸」を哀れみ、彼になにがしかの施しをしてしまう。

 だが、それが彼のあり方だった。彼は自宅を寝場所としかとらえていなかったのだ。家では食事をしなかったし、買い物袋を携えて帰宅することもなかった。読んだ本は即座に古本屋に持っていくし、洗濯も週に一度コインランドリーでまとめてやった。彼はその広くはない部屋の空白をめでていた。眠るためには、部屋のものはなければないほどいいと考えていた。ものは眠りの濃度を薄めてしまう、というのだ。


19 裸のゴルフ


 彼は近所にある丘に向かった。そのてっぺんにゴルフの打ちっぱなし屋がある。隙間だらけのあばら家にはミッキーという男が番をしていて、ゴルフボールを800で貸し出している。ゴルフボールは収穫したじゃがいものように泥だらけで、悲惨な感じのポリバケツにつめられている。ミッキーがそれををシャベルですくい、ペットボトルを改良した貧相な容器に入れてくれる。 

 ミッキーはいつもランニング一丁で倶梨伽羅悶々の体を見せつけている粋な兄ちゃんだった。陽気で話せるやつだが、冗談を言い始めると、話が無限ループすることがよくあった。ここに来るまでの記憶をすべて失っていたが、それにまったくこだわっていなかった。彼には過去などまるで意味がなく。未来も意味がなかった。あるのは、「いま」というその瞬間だけらしい。

 彼はだだっ広い荒野に向かって「ナイスショット」を始めた。荒野には狂牛病にかかった牛の死骸や、廃タイヤが転がっているのが見えた。悲しさとともに闇雲に打つ。それが「打ちっぱなし」の醍醐味だ。ノムラはそのゲームに瞬く間に関心を失い、129番アイアンを地べたに放り投げた。彼は両切り煙草に火をつけてまわりを見まわした。それはなんとも、見れば見るほど世にも悲しい荒野だった。何にも生えていないし、何にも建っていないし、何にも動いていない…。

 灰色の雲のせいで太陽は注がず、黒鳥の群れがにごった空を横切っていった。風が空気を切る音が聞こえる。それは囚人をギロチン処刑にかけている音のようだった。

 そこから彼が住む団地が見えた。団地は似すぎた豆腐みたいだった。その湯豆腐が50個、幾何学的にグリッド線に忠実に並んでいる。

 それは悪夢だ。なぜなら、すべてが同じ形をしていて、すべてが同じ色をしているからであり、すべてが同じ方向を向いて、すべてが同じ構造を抱えているからでもあり、そして、すべてが黙り込んでいるからだ。

 ひまを持て余したミッキーが、へらへら笑いとともに寄ってくる。片手にはどこかの秘密結社から流れた拡声器を持っていた。

 「ここには何にもないぜ。完全に、完璧に、絶望的に、なあんにもないぜえい」と拡声器のがらがら声。「ここはどこ、あたしはだれ、いまはいつ? ぼく、ミッキー。ぜーんぶ忘れちゃった。ぜーんぶ忘れちゃった」

 あっはっはっは。彼は右手に握っていたものを荒野に放り投げて、自分も赤い地べたにぶっ倒れた。白目を向いている。だけど口だけは動いていて、ロシア人の官吏のような冷静さで火を噴く巨大なトカゲが都市を散々にぶっ壊すさまを実況中継している。

 乾いた風が吹いた。

 荒野から銃声の連発が聞こえる。警察と無法者が衝突しているのだろう。


20 最果て団地にようこそ 


 真っ暗な部屋。1人の風采の上がらぬ男にスポットライトが当たっている。その男はスツールの椅子にふんぞり返って、わけのわからないことをがなりたてている。日本酒の入ったジョッキをぐいぐいあおって、それからあんたをぎゅうと見つめている。

 「〈最果て団地〉の世界にようこそ。ぼくの名前はアキ。団地の住人だ。実は団地についてレクチャーをやれと言われている。ぼくはそういうのは照れるし、団地に住んでいるってのは、世の中をやんわりと支配する社会の常識から見れば『おまえはもう死んでいる』と言われているようなもんでしょう。おれに見栄ってもんがあるから、いやだったんだ。だけど、これは『断れない提案』だった。だからおれはここにいる」

 アキは日本酒をあおって飲み干した。

 「ぼくはとある仕事で団地を調べていたんだけど、だんだん引き込まれて、住むようになった。団地はこの世の終わりとも言われる場所じゃないか。住んでいる人はみんな、居場所がなくなった人だった。奇妙なやつしかいないんだ」

 アキはポケットからマラカスを取り出して、しゃかしゃかと振った。そしてそれを放り投げた。

 「団地は『世界の果て』にありんす。世界のどこからも近くない。どこにもつながってない。っていうかどこでもない。そういう場所だといえば、よくわかるかしら。水はどこかからかろうじて届いている。けれど茶色くにごっていて、干物のにおいがした。電気も地中を通して何とか届いている。だけど、日に3度は停電する。団地のやつはこう口癖のように言うんだな。『牛乳はその場で飲み干せ』ってね。冷蔵庫に入れても電気が通わないから、あったまっちゃうだけですよ、ってこと」

 アキは日本酒の一升瓶を垂直に傾けている。のど仏がスロットマシーンのレバーのように上下している。体から力が抜けていった。

 「だけど、あんたねえ、一番やばいのは〈灰〉だよう。〈灰〉ってなんだよう、分からないよね。教えてあげるよ。それは空を覆うあぶなーいスモッグだ。〈灰〉は放射性物質を含んでいるからとっても厄介じゃないか。そこで降る雨は〈黒い雨〉と呼ばれていた。それを浴びちゃうと、あんたのからだは……、キャーアアア」

 彼はいきなりぶっ倒れた。


21 悲しみの川


 ノムラは荒野を歩いた。牛の死体を、ハゲタカがついばんでいた。ハゲタカを警戒して野犬が遠巻きに眺めている。牛の目玉が地面を滑った。蟻が神輿のように担いで、巣に運んでいくのだ。豊かな死のにおいがあたりを満たした。踏みしめる土はからからで、どんな植物も受けつけない有様だ。土もまたよごれている。

 荒野を長く歩くと川に行き当たった。その水は鉛色で得体の知れぬ泡がぶくぶくとたっていた。壊れたテレビ、クルマ、バイク、マネキン、ヘルメットがゆるりゆるりと下ってくる。水面には無数のアメンボが張り付き、その上を小虫の群れが錯綜していた。そこからは鼻の奥を突き破りそうな異臭が湧き上がっていた。

 団地の人は「悲しみの川」と呼んだ。もちろん、好んで川に近づくものなど誰もいない。死者の弔い方に困ったときだけ、重宝された。川につっこめば、二度と浮かんでこないからだ。

 彼は川原の石を拾っては、じっくりと眺めるというのを繰り返した。そのやり方はぴりぴりとした真剣さを帯び、彼の肩のいかり具合や、ウォールストリートのトレーダーのような面構えから、コンセントレーションの高さを推し量ることができた。

 彼は石が気に入ると、後生大事にちびたリュックサックのなかに入れた。ダメなら背後に放り投げた。その「作業」を一通り終えると、彼はまた煙草を吸って、煙を吐き出した。すると、彼ははっとさせるものが目に入った。対岸に釣り糸をたらす老人がいた。この川に魚などいるはずもないのに。この川におれ以外に人がいるはずなどないのに…。彼は目をこすった。老人は消えていた。


22 そして海に出る


 川に沿ってだいぶ歩くと海岸に行き着いた。海岸もまた悲しい場所なのは言うまでもない。

 鉛色の海。波は間断なく砂利の海岸に押し寄せた。空には〈灰〉が覆いかぶさっていた。〈灰〉はもう耐え切れないというふうに見えた。雨を降らそうとしている。岩場と砂利でできた貧相な海岸の曲線が向こうまでずっと続いている。さびしさをたっぷりとつかった波の音のエコーは鳴り止むことをしらない。

 ノムラは目を凝らした。無人機が海面を滑空していた。その出で立ちは未来のイメージを喚起させた。無機質ですべてがコントロールされた未来。ルールを逸脱した者は必ず罰を受ける未来。不合理性を完全に排除する未来。顔の見えない1パーセントの支配者がその他の99パーセントを暗黙のうちに支配する未来…。

 「あれは昔、パキスタンで人を殺していたやつだ。遠い海の向こうでコントロールされて、村を襲い、人を殺すんだ」―。ノムラの胸のうちにひたりひたりと恐怖が忍び寄った。無人機はおれを狙っているんじゃなかろうか。そう思うと、目に映る光景の意味合いががらっと変わってきた。その無人機にもやはり巨大な殺意のようなものが秘められているようだった。

 無機質な執拗さを持って、何かを探している。遠くの海上を一通り飛んだ後は開けた海岸に近づいてきた。ノムラはとっさに岩陰に隠れた。殺されるかもしれない。無人機がいるなんてのは初めてだ。何が起こっているのか―。たぶん、それはよからぬことだ。彼の頭のなかはこんがらがってきた。

 無人機は海岸を何度も何度も行き来した。そしてじわじわとノムラの隠れている岩陰に近づいてきている。無人機は網を狭めている。最後には彼を捕まえてしまうのではないか。だが、ノムラは身を張りつけている岩に小さな穴が開いているのを見つけた。それはどうやらほら穴のようだ。

 そのとき雨が降り始めた。〈黒い雨〉―。

 彼の体はあっという間にその雨に濡れてしまった。雨は黒く濁っている。彼はその濁りを手のひらの上に乗せて眺めた。見れば見るほど、悲惨な気分にさせられる。そのとき無人機の翼が空気を切る音が近づいてきた。無人機はもう彼を見つけたのだ。南無三―。

 彼はそのほら穴に入った。


23 サックス


 やっぱり暗い部屋で、床に倒れたアキにスポットライトが当たっている。アキは突然、電源が入ったおもちゃの兵隊のように立ち上がる。ピエロのように真っ赤な鼻の先には、すいか大の鼻ちょうちんがぶら下がり、彼の呼吸に合わせて大きくなったり小さくなったりを繰り返している。その顔はサメの肌のように真っ青だ。彼は手前からの視点を無視して、あさっての方向を向いたまま、わあわあしゃべり出す。

 「団地の管理者は流転したのだ。それがダイナミックの手に渡るまでの道のりの長いこととときたら!」

 まず現れたのはロッポンギ商事ロッポンギ。得体知れぬカイシャだった。住民とこのロッポンギは「42日戦争」を繰り広げた。戦争は混乱と怒りと失望の三次関数が生み出した曲線をたどり、「古い住民」を全員去らせるという結末を生んだ。それが将来の「新しい住民」の来訪のきっかけになったのだ。

 「その『戦争』は役所が団地をロッポンギに売り払ったときに起きたのであーる。役所にはカネがとんとなくて、赤字をたたき出す団地をほっぽりだそうとしていた。どこからともなく、ロッポンギがやってきて、猫なで声でこんなことを言う。『お役所さん、つらいんでしょう。わかりやす。じゃあ提案させていただきやしょう。わたしたちがケツを拭きます。その代わり団地はくだせえ』。これは渡りに船。思い立ったら吉日でその日のうちに譲渡が決まっちまった」

 アキはアラジンみたいに水煙草の煙をぷかあっと吐き出した。

 「やつらは団地を手に入れると、設備を粛清する『コストカット』を仕掛けたのござい。夜は電気がともらないし、水道の定期点検もなくなり、団地の真ん中にあったスーパーはつぶれた。団地は荒廃の一途をたどった。もちろん住民が怒った。家賃を払わないで、団地を占拠しつづけると宣言した。それから、42日後、ロッポンギは剣呑な一団を使い、『古い住民』をやっつけた」


24 ロッポンギからダイナミックドラゴンへ


 古い住民は出て行った。団地は空っぽになったそうだ。ロッポンギ商事の使った手は諸刃の剣だった。賃料が入らなくなりロッポンギ商事自身の経営もとたんに悪化。3ヵ月後には倒産の憂き目にあった。

 団地はみなしごになったが、役所はしらんぷりを決め込んだ。いくつかの怪しいカイシャが団地を拾っては、顔をしかめ、投げ出した。これはどうやっても儲からない、単なる廃墟じゃないか、もうだめだ、ダイナマイトで木っ端微塵にしよう、となったとき、「白馬の王子」のように飄然とあるカイシャが現れた。

 「それが、ダイナミックドラゴン興産ダイナミックだったのだ!」

 アキはアルトサックスのアドリブソロをやる。哀感に満ちた素晴らしい演奏だった。

 「ダイナミックについては、おれはまあまあ調べたんだが、もうなんとも得体がしれねえ奴らなんだ。奴らの会社の所在地に行ってみたが、なかなか面白かったよ。そこらへんは都会の一等地なんだけど、タイムスリップしたような昭和の町並みがあるんだ。木造モルタル、バラック建ての家々の軒先には、無数の植木鉢、酒屋のビール瓶ケース、猫が転がっていたんだ」

 アキはサックスを放り投げた。サックスは暗闇が吸い込んだ。

 「でも、一番覚えているのが、道路のど真ん中でたこを揚げている少年のことだ。まだ小学生の低学年くらいで、泥で汚れた白いランニングシャツと茶色の半ズボンを着て、ヒーロー戦隊がプリントされたズックを裸足ではいていた。彼の横には弟くらいの年頃の男の子がいて、しゃがんで、プラスチック製の虫かごのなかをじっと眺めていた。虫かごのなかでは、カナブン3匹が飛びまわっては壁にぶつかるという愚挙をしきりに繰り返していた。『ねえ、ねえ、カナブン死んじゃうよ、カナブン死んじゃうよ』とその子はたこ揚げ少年のランニングを引っ張って悲しそうにそう言ったんだ。

 そのころには夕暮れがやってきていた。その日の夕暮れは今世紀最高と呼びたくなるほど美しかった。トマトの実をぶちまけたふうに真っ赤だった。突然、たこ揚げ少年は『カナブンなんか、死んじゃえ』と虫かご少年の顔も見ないで怒鳴った。何の前触れもなく、それは起きた。それからたこ揚げの少年は疾走し、もうやってきている夜のなかに消えていった。すると、虫かご少年はぶわっと泣いちゃった」

 アキはまたサックスを吹き始めた。


25 昭和の街での取るに足らないできごと


 「ダイナミックドラゴン興産の所在地自体は空き地なんだ。有刺鉄線に囲まれた赤茶けた土の上には、さびだらけの土管が直立していた。土管はいのししが中を通れそうなほどの太さだ。人間なんてらくらくと通る。中指の第二関節で叩くと、こおんという心地よい冷えた音が鳴り、筒のなかで響いた。土管のそでに据え置かれた梯子を使って、その中をのぞくとそこは深遠なる闇が支配していた。その闇からはわずかに空気が噴き上がっている。空気がおれの頬にあたった。それはひんやりとしていた。おれは今度は空を見上げた。いつのまにか夜がやってきていた。星は、そこが東京だって思えないほどたくさん見えた。おれはその夜空のベールと、土管の中の闇を何度も何度も見比べているうちに、区別が全然つかなくなった」

 アキはドーナツをほうばり、にんまりとした。

 「土地そのものはセブンイレブンひとつ分くらいの広さにすぎなかった。ずっと眺めていると、幼いころの失敗の記憶がぶり返してきそうな、そういうわびしさが漂っていた。それはどことなく『思い出のなか』にある風景みたいだったんだ。

 結局のところ、おれはダイナミックの従業員、経営者はおろか、それを少しでも知る人物にすら出会うことができなかった。おれはダイナミックの影を踏むことすらできなかったんだ。

 ダイナミックが持ち主になると、団地に変化が訪れた。それは『新しい住民』の到来のことだよ。それはある年の春から夏にかけて起きた。『新しい住民』はほとんどがどこかを追われてきた人間だ。この世界から居場所がなくなっちゃって、『半世界』の団地に引っ越して、もう一回やり直そう、そういうスジなんだ」

 アキはこの「新しい住民」はひとつの神話体系、思想、文化を作り始めたと考えている。居場所なき人たちが、その忘れられた土地を「母なる地」へと変える魔法をつかったのだ。

 「彼らは団地に住み着くと、自分たちをめぐるあらゆるできごとを理解し、説明できるようになることが必要になった。そのために、彼らは口伝えの神話をはぐくんだのだ。自分自身で独自の思想的体系を作り、自分たちの文化を作り、自分たちをめぐる神話を作りだしたのではなかろうか」

 彼は高らかに自分の説をうたい上げた後、得意げに両手を掲げた。

 すると彼の体が宙にふわふわと浮き、やがて私たちの視線のはるか情報へとフェイドアウトした。



26 石を売っていたふしがある 


 ノムラもまたそういう思想、神話、文化の影響の下にあったのではないか。どうやら彼が石を売っていたふしがあるからだ。その石は、ダイヤモンドとかルビーとかではないし、工業で使われる貴金類とかでもないし、もちろん墓石でもない。いかなる付加価値からも自由な、くずの単なる石ころだった。

 彼は「悲しみの川」と近くの寂れた海岸に転がっている石を、自分のなかにある完全に言語化不可能な感覚でジャッジして、値段をつけて売っていた。店は団地の片隅の壊れた倉庫の一角にビニールシートをしいて、石をずらっと並べた。彼は店にいるときはほとんど居眠りしているのだが、たまに思い出したように目を覚ますと「石はいらんかねえー、いい石があるようー、とっておきの石だよう石はいらんかねえー」と客引きの文句をしゃべり出した。それは、倉庫にたむろしてシンナーを吸っている10代の不良グループをびっくりさせた。

 彼は1日の半分を石探しにあて、半分を石を売るために使った。石はそう頻繁に売れるというものじゃない。1ヶ月ひとりふらりと客が来て、思いついたように石を買う。それくらいのもんだ。

 石売りの仕事はそれで終わらない。実は売った後からが彼の仕事の本質的部分になるのだ。彼は買った人間に石を抱きしめたまま床に横たわらせる。そして、オーストラリア製のサラダ油をちょっと石にかける。そこから呪文らしきものを唱えて、ゆっくりと客のなかにある「まがまがしきもの」を石のなかに移させる。その後、彼は客と連れ立って海岸に行き、岩陰に隠されたぼろっちい帆船に乗って沖に出るのだ。客は石を海底に向けて落とす。じゃぼん、とちょっと間抜けな音とともに石は海を知り、その深みを目指していく。これで客は変わる、という。それがどうかわれるかは客によって異なると、ノムラはいう。


27 老人A


 ノムラはあるとき、腰の曲がった老人を相手にしたことがあった。その老人は名乗らなかった。ただ「石がほしい。私にふさわしいのはどの石かね?」と話しかけてきた。ノムラは老人を観察しながら、ものすごく悩んだ。その老人はとても平凡などこにでもいる顔をしていた。明日、顔が変わっても、ああもとからこんな顔をしているんだろうな、と思うだろう。

 ノムラはじっと考えて、その老人のために大きな黒い石を選んだ。その石はとても入り組んだ難しいものだった。ノムラは、老人から「かたまり」を石へと映すとき、石のなかに深くて暗い川が流れているのを垣間見た。だけど、石はその川を外の何人たりにも触れられないように閉じていた。川は自分からそれを開こうとはしない。川は石のなかを還流するだけで自己完結している。

 夜の海は荒れていた。遠くには嵐をもたらす大きな暗雲が見えてもいた。くたびれた帆船はこれでもかと揺れた。

 老人はよろめきながら、何とかそれを海底に落とした。不思議なことに、石は一度沈んで、また浮かんだ。ノムラは目を疑った。浮かぶはずなどあるはずもないのに、と。石は泳いでいるようみ見えた。海水から顔を出した石の表面は、水をかぶって黒々としているが、そこに月の光がかざされ、砕け散った。波の揺れがその光の角度を絶えず変えていく。息を飲むほどきれいだった。石の表面には迷宮のごときでこぼこが刻まれていた。

 石は長いこと海面に浮かび、波に揺られていた。石は押し寄せるなにかに必死になって耐えているようだった。その苦しさを伝えたいけれど、それは固く禁じられている、というふうに。波の声はなぜか遠くの壁からはね返ってきているように聞こえた。

 月の光に混じる藍が深くなり始めたころ、石はゆっくりとした速度で、緩慢なる死を経験するがごとく、深みへと落ちていった。その緩やかさは、石に落下傘でもついているように思わせるところがあった。もしかしたら、老人から石に移ったものが、暗い世界に落ちていくのに、抵抗していたのかも、しれなかった。

 その落下を見る間、ノムラのなかに詩が現れた。彼のこころの柱をつかんで揺らした。

 かたや老人はぼんやりと、海面にあたる太陽の光が揺れているのを見ていた。深い考えに沈んでいるのか、それともゆらゆらが唄う唄のなかに没頭しているのか、彼の様子からそれを推し量るのはとても難しかった。彼は蝋人形そのものだ。表情というものがない。彼と外面と内面は完全なる他人なのだろう。

 彼はノムラの顔を見ないで、口を開いた。

 「あなたにはするべきことがある。私はそれを知っている……知っている」

 すると、彼は中空に突然飛び上がった。海はそこにあった。彼は落ち二度と浮き上がってこなかった。


28 どうしようもない避けがたさ


 彼はそのできごとの意味を読み取れないでいた。彼は心の中にあった混濁を無視することにした。しかし、しばらく老人が残した言葉を見ないふりを続けた後、それが彼の中に刺さって抜けなくなっていることを認めざるを得なかった。そればかりか、それは彼のこころのあいまいな部分に溶け込み、分かちがたくなっていた。

 あの老人が何者かは知れなかった。ノムラはあの後も老人が沈んだあたりの海を見に行った。どざえもんがないかと海岸沿いを歩いた。けれど、その姿はなかった。

 それから、団地の50棟をくまなく回り、老人の人相を伝えて、手がかりを探していた。だが、誰もそれが誰か分かる人はいなかった。それで、ノムラは老人が団地の外から訪れた人物だと考えた。世界には無数の老人がいる。

 老人は痕跡を一つも残さなかったのだ。

 だが、ある日、ノムラが貧相な団地の一室で目を覚ますと、足に硬い何かが当たった。8ミリフィルムカメラがすとんと置いてあったのだ。そこには便箋がそえられていた。その黄色い紙には「これで映画を撮りなさい」とだけ書いてある。ノムラにはそれが老人の言葉のように思われた。ノムラは老人が死んだとも思っていなかった。老人は深い海をもぐりどこかにたどり着いたのだ、と信じてすらいたのだ。

 その紙には物語が潜んでいた。細い指を伝い、彼のなかに入り込んだ。物語が彼と衝突したのだ。火曜日の昼下がりだった。彼はさびがびっしりとこびりついた浴槽のなかで自分の中にいる「物語」と胸をつき合わせて話し合った結果、相手のことがなんとなく分かった。彼はばんと浴室のドアをけっ飛ばして、水をだらだらと滴らせながら、一糸もまとわないままペンをとった。「考える人」の銅像のように机の前で沈思黙考し、おもむろに立ち上がっては机の周りをぶらぶら歩き周り、カーテンを閉めて、開けて、閉めてを繰り返すうち、脚本はでき上がったのだ。そのときには2つの夜が過ぎていた。彼は一睡もしてなかったし、なんにも食べていなかった。鏡をみると頬がこけて目がぎょろついてがいこつみたいだった。それから2日の間、彼は死んだかえるのように眠った。

 彼はその脚本を読み直して、うん、いいじゃない、ぜひ映像にしてみたいなあ、と思うのだった。けど、映画は逆立ちしたって一人じゃ撮れない。


29 亀の部屋、アラジンのベッド 


 それで彼は最初にある部屋を訪れてみた。

 その部屋は亀でできていた。3部屋の壁が抜かれた一つながりの大部屋には、大きさの違う水槽が、磁場に引き寄せられたかのように積み重なっている。九龍城のようだ。雑然としながらも、「混沌の中の秩序」がそこにはあるのだ。そこで東西南北、老若男女の亀数百匹が暮らしていた。

 亀をリラックスさせるため、さまざまな意匠が凝らされている。部屋の四隅に置かれたバングアンドオルフセンのスピーカーからはアンビエント・ミュージックが流れ、エアコンは室温を21度に保ち続けていた。心地よい間接照明がたかれ、アロマが焚かれている。窓ガラスやドアも機密性の高いものに代えてあるので、団地の音はここには紛れ込まない。

 水槽の群れのど真ん中に「千夜一夜物語」に出てきそうな瀟洒な、黄緑色のシルクをまとった寝台が鎮座している。そこで水煙草を吸っているのが、団地の実力者のマックだった。ノムラは真っ向勝負を仕掛けた。「映画に協力してほしい」。マックはその提案に驚き、それからどうも納得できなかった。この最果て団地で映画だと?―。

 ノムラは懐からでき上がったばかりの台本を取り出すと、マックに渡した。マックは20分で読了すると、態度を一転させた。「面白そうだなあ」と、岩石のような顔がにこにこしたのだ。

 

30 騙されるときもある


 マックはある界隈では泣く子も黙る亀商人だった。希少種の亀を港湾のルートで手に入れて、亀を幸運の生き物と信じる金持ちたちに売っ払った。特に亀に神性を見出し、来世亀になるために徳を積むことを教義とする、巨大宗教団体「亀亀友愛聖教」はお得意様だった。彼は団体の集会に行けば、並みいる古参牧師を押しのけて、最前列で「大亀神」に祈祷することができた。幹部連の会食とその後のハレンチな夜遊びにもお供することしきり。「万亀之神」という「戒名」を拝名してすらいた。

 彼の口癖はこうだ。「亀に手を出してまだ2年。されど拙者、腕のほどはすでに名人の域にありんす」。彼は女はこう口説く。「ぼくの決心は亀の甲羅ほど硬い」。彼は亀をこう見ている。「亀には性愛のありのままの形が隠されている。それはその形や性質によく現れている。マリリンモンローを楽々としのぐ潜在性を、皆が皆気づかないふりをしている」

 そんな独特な彼が、この最果て団地に来たのには、こんないきさつがある。彼は長い旅を終え、成田空港で京急の切符を買おうとしているとき、突然、ギンガムチェックのジャケットを着た妙な男に声を掛けられた。その男はものすごく機嫌取りがうまく、人懐っこい笑顔には人間的魅力があふれ出ていた。その男はどうやら「マックにほれ込んだ」らしい。マックはタイの怪しげな男から、エジプトの露天商、インドのチャイ売りまで、いろんな手練れどもにさんざ騙されてきたので、むしろ堀を深くし、防塁を高くした。

 男はそれを敏感に感じると戦略を67度変更した。高級官僚が同僚を奈落の底に落とすときに使う猫なで声で「いやあ、さあ、分かっちゃうよねえ。もうびんびんわかるっちゃうよ。つまりさあ、きみさあ、ダイヤモンドの才能を持っているよなあ」としゃべるやいなや、マックに人差し指を突きつけた。そしてそれを牝牛の乳房をいじくりまわすようにぐるぐると回すそぶりを見ているうちに、マックはおかしくなった。彼の頭蓋骨のなかの映写室には、「富士山から才能のマグマが噴火している映像」が映された。「才能の津波が神奈川県のコンビナートを飲み込む映像」も映された。「才能の奔流が川沿いの村を押し流す映像」も、やはり、映された。

 マックは叫んだ。「おれには才能がある。おれはそれを知っている」。彼はその男に連れられて、団地に来た。その男の消息はすぐに途絶えた。「簡単にいやあ、騙されたんだよ」とマックは述懐している。


31 映画はどうしても女を必要とする

 マックがプロデューサーになると、いろいろと物事が進み出した。手配師的なこともやっていたので、彼が電話を2、3かけると怪しげな男たちがぞくぞくと集まり、クルーができていった。しかし、ノムラはある事実に直面した。それは、「映画はどうしても女を必要とする」ということだ。映画は始まってからこの方そういうものなのだ。だが、どんなにクルーを見回しても、不細工な男どもばかりで女なんていやしなかった。

 ここで、マックが提案する。「この際、団地の建物を延々8時間映し続ける映画にしないか。上映中の飲食、退席、休憩、睡眠はありということにして」。それを聞くや否や、瓶底眼鏡のケンはこう反論した。「おれたちはこの最果てに映画ができるっていうから集まったんだ。あんたのいうのはだな、映画じゃないやい。どっかの暇を持て余した奴の道楽だい!」。そうだ、そうだ―ほかの男たちも同意し、思い思いの言葉でマックを悪罵した。

 もちろん、これはいい結果をもたらさなかった。マックの怒髪、天をつき、「うるせえ、俺にはむかうと、弁当代をカットするぞ!」と怒鳴り散らした。するとクルーも「この暴君野郎! やってみやがれ! ストでお返ししてやるからな!」とやり返した。ゆゆしき事態だった。映画をめぐるギロンが、なぜか労使問題にずれ込んだのだ。引くことを知らない連中は、急崖を転げ落ちるようにクルー解散の危機に追い込まれた。

 その危機をしのぐため、ノムラとマックは八方手を尽くしたが、どうもうまくいかなかった。下は4歳の幼児、上は81歳のばあさんまでくまなく声をかけた。だが、問題はいろんなところに転がっていた。ハンチング、赤シャツ、メガホン姿のノムラとプーマのジャージにやくざなネックレスでロシアのマフィア風のマックが「いいねえ、キミ、スタアにならないかい」と言うと、女たちは阿鼻叫喚をあげるのである。

 彼らのデリケートなこころは傷ついた。彼らもまた人間である。近代社会では種々の人権を持つとされる人間であり、幸福を希求することも認められている。彼らは罵詈雑言を上げながら派手に酒を飲んで「団地売春」に繰り出した。


32 団地売春


 さて、団地売春について話そう。団地売春のはじまりは、仕事を失ったある若い女が、苦しまぎれに自分の部屋を使って売春をすることを思いついたことだ。こんなひなびた団地である。さびしい男は、スーパーマーケットに山と積まれたたまねぎくらいたくさんいた。

 毎日毎日、その女の部屋の前には、互いに視線を合わさないようにして黙り込んだ男たちの列ができた。男たちのからだの熱気が、まわりの空気をむっとさせ、男特有の酸味をふくんだむさい匂いもついた。それを傍目に見ていた生活の苦しい女たちは、すぐにその新しいビジネスのまねをした。またたく間に、団地の部屋を使った売春は広まり、収入がいいからと仕事をやめてまで売春婦になる女すら出てくるありさまだった。

 団地売春をめぐるシステムも整っていった。売春をする女の部屋には、ドアの間に新聞が挟まっている。買春希望者はその新聞をぬきとると、中の女への合図になる。女とはインターフォンで交渉し、まとまると初めて顔を合わせるという仕組みだ。

 女たちは「団地売春婦協同組合」なるものを組織した。組合員に万が一があってはならぬと、女たちは組合費を集めて、お守りの自警団を雇い、病気のための保険金を積み立てた。年末には組合旅行で熱海の温泉宿に3泊4日し、親睦を深めた。


33 新聞紙とドアが語りかけること


 団地売春の中心地、第13棟には新聞の挟まった青のドアが廊下の奥までずらりと並んでいた。1人売春婦が商売を始めると、ほかの部屋も追いかける。売春をきらう住民は居心地が悪くなって出て行ってしまったようだ。

 ノムラは売春婦たちが古い新聞を何度も使い回すため、どれもこれもぼろぼろで茶色く変色していることに気づいた。だが一つだけ今日付けの真新しい新聞が落ちていた。その前にドアがあった。おそらく新聞は挟まれていたが、何かの拍子で落ちたのだ、とノムラは考えた。ドアはほかに比べて磨耗の様子がない。きれいに手入れされているふうだった。海が近いこの団地のドアにはたいていさびが付いているものだが、そのドアは赤ん坊の肌のようにつるつるしている。

 ノムラはチャイムを鳴らしてみた。「どなた?」。インターフォンから女の声が聞こえた。その声はノムラの背筋をゆらした。オーロラが鳴らす音を録音して、人間の声に加工したらこんな声になるのではないか、と思われた。

 「たまに間違える人がいるから困っているの」

 女は、チェーンロックされたドアの隙間から顔を出して言った。女は売春婦ではない、と言っている。彼女はノムラの口から発せられる匂いをかぐと、顔をしかめた。「あなただいぶ酔っ払っているのね」。ノムラは彼女の顔を眺めた。小さくまとまっていてきれいだった。切れ長の目には強い意志がにじんでいた。唇は小さくて潤いのある桃色だ。だけど、彼女の顔はどこか人の印象をかいくぐるところがあった。それは次の日になったら記憶の洞穴のなかに消えてしまいそうだった。

 ノムラのなかにあるアイデアが生まれ、それはすぐに確信をともなった。彼は言う。「実は映画を作っているんだ。君を主役にしたいと思うんだ」。彼女は彼の酒臭い息を吸って鼻を押さえた。

 「ちょっと息を吹きかけないでくれる?」

 彼女は彼をじろじろと見た。そのあと少しの間、氷の真顔を浮かべた。それからこう言う。「コーヒーを入れてあげるわ」。彼女はチェーンロックをはずし、ドアを開いた。彼はダイニングテーブルの前に座った。彼女がコーヒーを入れている間、彼女の後姿を見ていた。髪の毛は黒々として、清水のなかの石が帯びるような輝きをたたえた。白い綿のワンピースを着て裸足だった。夏のビーチを収めた写真の中から現れたみたいだった。華奢な体をしていて胸は薄く、足もわずかに丸みがあるが、ほっそりとしている。肌は、氷の国で生まれたかのように白く、血管がありありと見えるほど透き通っていた。

 コーヒーを飲んでも、野村の頭は火星人や、タイタンの住人が闖入して大暴れしているようだった。が、彼はなんとか映画をめぐる話をでっち上げることができた。そして脚本を渡す。それまで、怪訝そうな顔をしていた彼女の態度が少し変わった。彼女は30分黙って本を読み、それから閉じると、うつむいて黙り込んだ。それから「ちょっと物語が平凡すぎるけど、まま、うん、いいわよ」と答えた。


34 亀と人間の狭間で 


 ノムラは第一稿の後、マックとの相談で、脚本を大幅に改稿した。ノムラとマックという奇才同士のアイデアがせめぎあい、ほほえましい相乗効果と目がくらみそうなカオスを生み出した。彼らはコピー屋で脚本をハムのように大量生産し、クルーばかりでなく、団地の住人たちに配って回った。

 そのあらすじはこうである。

 *

 

 タイトル 『私は亀でいたかった』

 ストーリー 亀と女のラブストーリー

 あらすじ 放浪を続けるミドリガメの亀吉が、カーボーイのたまり場の酒場で、飛行機事故で夫を亡くした女ユミと出会う。二人は初見で胸を貫かれるような感覚に襲われ瞬く間に恋に落ちた。だが、亀が人間の女と付き合うことに神経をとがらせたカーボーイ連は、亀吉が泊まっていたホテルを襲った。亀吉はほうほうのていで逃げきったが、再び流浪の旅を余儀なくされた。女との縁もそれきりだと思われた。

 7年後、亀吉はバーで出会ったくたびれた脱獄死刑囚から、人間と亀の体を交換しないかと持ちかけられる。「おれは当局から逃げるのに疲れたんだ」と死刑囚は言う。からだと魂を入れ替えれる呪術師が、北船橋のガード下にいた。亀吉は人間の体を手に入れると、種族間の問題をクリアして女と愛し合おうと思った。

 だが、手に入れた体は追われる身。国家権力におびえ、居場所を転々とする日々が続いた。12年後、尾羽打ち枯らした亀吉が出所の怪しい中古のサーブを運転して、マクドナルドのドライブスルーに入ると、偶然が爆発した。くたびれたユミがマクドナルドのユニフォームを着てアルバイトをしていたのだ。「おれだよ。亀吉だよ。覚えているか、ユミ?」。「あなたなの亀吉?」。彼女は驚きのあまりマックチキンとコカコーラを載せたトレーを床に落とした。「そうだ。ユミ、久しぶりだな。ビッグマックセット1つお願いするよ」。二人はそこからどうしようもない愛の湖のなかに沈んでいくのだ。

 しかし、そのときものすごい逆風が吹いた。二人がいた某国は、債務不履行を起こし経済危機に陥るのだ。危機は国中を覆いつくした。デモ、略奪、蜂起の嵐が吹き荒れ、北海道、沖縄、大阪、九州が独立しそうな情勢になる。国家は翼賛体制を敷くことでなんとか、解体を逃れようと考えた。そんな状態に陥ると、国家はしゃにむになって国家以外のことを考えなくなるもんだ。

 亀吉は持って生まれた反骨精神でその動きに反対するのであった。街頭のいたるところで、翼賛反対のアジテイト演説をやらかした。するとあっという間に、亀吉は公安37課という秘密警察に捕縛され、極悪の拷問を受けた。根が亀の彼は、あっさり参ってしまった。『ああ、人間の女を好きになったのが運のつきだった。亀のままでいたらこんな苦しい思いはしなかった。人間はお愚かで自分のことしか考えていない。ああ、どうしておれはそんなばかげた、人間になってしまったのか』。

 このシーンのあと『ツアラトゥストラはかく語りき』がどかーんとかかり、亀吉が息絶えてしまう。(完)


35 クランクイン


 そしてクランクインだ。クルーは7月7日に彦星と織姫星を見ながら晩酌をして気勢を上げ、翌8日の朝7時まで飲んで唄って踊って嘔吐した。夕方にマックが目を覚まし、午後6時ごろから気合がみなぎると、ついに撮影を開始した。

 撮影は山あり谷ありだった。ノムラとマックは一度対立すると、半日くらい堂々巡りのギロンをやるし、亀吉役のミドリガメ、ドリーくんは間違いなく人間の言語を理解する能力に欠けていた。この世の果ての団地には撮影に必要な部材を確保するのが難しいところがあり、特に亀吉とユミがマクドナルドで再開するシーンのマクドナルドの店舗、それからマクドナルドの制服、マックチキンなどの食材の調達は困難を極めた。

 だが、悪いことばかりでもない。ユミ役の女の演技はどうも「どこかで見たことのある風景」を見るものに思い出させた。クルーたちも50の職をわたり歩いた練達者ばかりで、すぐに撮影の仕事を飲み込んだ。クルー全体も「初めての撮影」を楽しむ雰囲気に包まれていた。

 九月中旬にはなんとか撮影を終えることができた。そのころは夏の影が引いて、秋が始まろうとしていた。秋刀魚やしいたけなど秋の幸が食卓に並ぶころだった。

 撮影終了日の夜には、未編集のテープをまとめて、窓ガラスが全部割られ、備品が持ち去られた団地の集会場で試写した。スタッフや近所の人間たち200人が、小汚い30畳をぎゅうぎゅうにした。映画の試写はこの最果てにとって画期的なできごとだった。

 人々は試写を存分に楽しんだ。マックのこまっしゃくれた流浪人風を装う吹き込みで、亀吉がしゃべりだすと皆が皆、抱腹絶倒し、亀吉とユミのマクドナルドでの偶然の再会では感動に全身を震わせた。最後、亀吉が『亀のままでいたかった』という決めセリフを吐くと、世界がひっくり返ってしまったように悲嘆に明け暮れた。

 試写が終わったとき、たくさんの拍手と賞賛の声が送られ、やがて人々は立ち上がると西欧人の見よう見まねのスタンディング・オベーションが始めた。


36 宴の後


 そこでマックが拡声器を使って演説をやった。彼は素晴らしいことを提案した。彼はたった一つのことを、手を変え品を変え、30分にわたり表現した。つまりこういうことである。

 「最果て団地に住む、棄民のみなさん。われわれはばかでかくなっていくこの世界のなかで、忘れられた小さな人間たちだ。だが、今日この映画で、小さな人間に一つの希望がともった。それはわれわれが自分自身の文化をつくることができるということだ。この最果てから、われわれの文化をつくろうじゃないか。われわれは棄民じゃなく、尊厳を持った人間になる、ということだ」

 恍惚感があふれた。集会場にはものすごい人だかりができていた。後から後から人がやって来て、試写はその夜だけで5回繰り返された。人々は山賊の宴のようなものすごい乱痴気騒ぎをやった。酒、カネ、煙草、下着、自尊心、愛、種々のものが乱れ飛び、興奮という興奮がごちゃごちゃと入り混じって、人間同士をへだっていた何かがそこで破けたみたいだった。そこでなにが起きていたか、もう誰もわからなかったに違いない。

 翌朝、酒瓶と人間と下着と牛肉が転がった集会所の畳の上で、マックは目を覚した。彼は下着以外は何も身に付けていなくて、体中を赤いみみず腫れが覆い、肩に大蛇が絡み付いていた。

 マックはすかさず大蛇を横でぶっ倒れていたヒッピーの上に投げつけると、周りを見渡し、世界を確かめた。

 そして、とても大事なことに気がついてしまった。映画のマスターの8ミリフィルムが忽然と姿を消していた。マックが混乱を叫び声にして表現すると、山海が響動した。パニックは眠っていた数百の人々に広がっていったが、ノムラは眠って、深い夢のなかに落ちていた。その眠りはとても暗いところを潜っていた。彼が相対する暗闇はどこかにつながってる、のかもしれなかった。

3 ダイナミックドラゴンはどこに飛んだ?


37 深い闇のなか


 縦長の四角い空間には、高い天井の穴から青い光がうっすらと注がれているだけで、それ以外は石炭のような黒さに満たされていた。四方を囲む壁にはでっぱりやへこみはなく、ただただ硬そうな顔つきで、彼をどこにも逃がさないという強い意志をたぎらせているふうに見えた。

 その空間のなかは異様に静かなのだ。耳を澄ますと風が反響する音が聞こえたが、それは「聞こえたほうが静か」という種類の音だった。高く引っかかる音はそこに含まれず、ほどよい低さで、腹の底を落ち着かせてくれる。

 そこには緩やかな風が天井の方から下に向かって吹いていた。天井の近くに空気の入り口があるのだろう。

 モロボシは自分の状況を自覚していた。腕は後ろ手で縛られ、体はロープのようなものでぐるぐる巻きにされている。まるで蝶のまゆのような状態だ。体を動かすことは一寸たりとも不可能だった。

 誰かがおれをここに閉じ込めたんだ、とモロボシは思った。彼は心当たりを探したが、てんで見当がつかなかった。彼の周りにはカネをせびるとか、だまくらかすとか、よくないことに引きずり込むとか、そういう奴らはごまんといた。だが、こういうシックな監禁を好む奴は思いつかないのだ。

 ―テキの目的は何なんだろう?

 彼は思った。


38 闇、死


 だが、暗闇で過ごす時間は貴重だ。考えが自分のなかの深みへと落ちていくことになる。自分の暗闇への旅は、忘れていた記憶の味わいや影に隠れた重たい思念を解き放つきっかけを与えるものだ。

 モロボシの場合もそうだった。無数の少年時代の思い出が、隕石の大群のように振ってきたのだ。大木に登ったものの怖くなって降りられなくなったこと。海でおぼれて父親に助けられたこと。家の近くの雑木林で夜に迷子になってしまったこと…。

 それから風景も浮かんだ。夏の墓参りのとき、提灯のなかで点っていたろうそくの火の瞬き。窓の外でしんしんと積もっていく雪、岩にあたってはじけ飛ぶ小滝の水…無数のイメージが現れ、消えた。彼の故郷は雪の降る町だった。

 どうしてだろう。少年のころの気持ちがよみがえってきた。くやしさ、悲しみ、つらさ…。なぜかそんな感情のほうが鮮やかなのだった。その鮮やかさは歳をとった後にはもはや感じられない。それは子どもの時代特有のものだったんだな、とモロボシは深い喪失感を覚えた。

 だが、それだけじゃない。彼の考えは皮膚からこぼれていった。暗闇の素粒子と結びつき、やがてその暗闇のすべてに溶け出して広がっていった。

 その広がり方はとどまるところがなかった。それはどこまでもどこまでも広がっていき、山に覆いかぶさり、海を飲み込み、最後には宇宙に達した。彼は「自分のつながり」というものがそこまでの「広がり」を持っていると確信した。確信はみるみるうちに彼のなかで「事実」へと変わっていった。彼はその「つながり」のなかで、この世にあるものはすべて、互いに関係しながら存在しているんだ、と思った。たとえ自分が死んだとしても、つながりの網を伝い、いろいろなところに波紋が広がるだろう。それが自分が生きていることの証左なのだ。ならば、死とは近代の人間がそう意識するほど、悲劇的なものでもないのではないか。死とは終わりでも、始まりでもなく、現象だ。そう、死とは現象だ。

 彼は自分が無意識にうちに死を想定しはじめたことに気がついた。この暗闇のなかで、おれは死ぬのだろうか。そうかもしれない。あるいは、おれはもう死んでいるんじゃないのか。


39 誰とも知れずとんづら 


 天井から誰かが降ってきた。

 そいつは音もなく地面に着くと、無駄のそぎ落とされた動きでモロボシの首筋を叩いて気絶させた。

 いくばくか経った後、モロボシは目を覚ました。自分の体を拘束していたロープがなくなり、自由になっていることに気づいた。彼は立ち上がり、彼を閉じ込めている暗闇に目を凝らした。壁の一つに、違和感を感じた。彼はそれを手で触ってみると、壁だと思われたものは、単なる薄い紙だった。彼はそれを破いて外に出た。

 彼は日の光を受けて目を細めた。タイムマシンに乗ったかと思わせる、古くさい街の風景だった。監禁されていたのが、少し古ぼけた雑居ビルだと分かった。ビルは6階建てだが、入居者はいないようでがらんとしていた。

 だが、そこで彼は再び違和感を覚えた。彼が空けたはずの「紙の壁」の穴が消えていた。彼の判断は早かった。一目散に逃げ出したのだ。


40 まどろみ


 名前のないある日、クボタは安穏な睡眠におぼれていた。夢を見ていた。

 帆船が荒れた海に浮かんでいた。クボタはそれを岩陰から見ていた。夜の海を月明かりが照らした。船には二人の男が乗っている。老人と若い男だ。老人は大きな黒い石を海に落とした。石は一度沈み、浮かび、最後にまた沈んだ。それから老人と男は少し話す。男はおもむろに拳銃を取り出し、老人を撃った。老人は崩れるように黒い海に落ちていった。波が輪唱する音が次第に大きくなった。遠くに気球が見えた。その白い体は月の光の青白さを浴びていた。かごには誰かが乗っている。

 それは誰か? その人物は気球が作る影に隠れて、姿が見えなかった。だが、岩陰にいるクボタにはあることが分かるのだ。その人物はおぞましい何かを背負っているということが。それはものごとのあり方を歪めてしまう暴力的な力を持っているようだ。


41 ドアノブから感じる違和感


 眠りを携帯電話の着信がさえぎった。エイミちゃんがビデオ屋への来客を告げていた。彼は時計を見る。午後2時10分。完全な寝過ごしだった。今日は朝、碁会所でも行こうかと思っていたのに。

 クボタはエイミちゃんにせかされたにもかかわらず、悠長に食事をとった。だが、工場でとても効率的に大量生産されたインスタントコーヒーと、電子レンジで暖めるだけでいい即席弁当「TVディナー」を食って、とても辟易とした。代わり映えのしない、名前のない日が続く、そういうことを思い出させずにはいられない味だった。

 ラジオを聴くのが習慣だった。ニュース番組は客観性を装った、命令じみた情報を流布していた。ニュースを読み上げる女性アナウンサーの声は、プログラムされたコンピュータ・ボイスのようだった。そこには感情が起伏したり、思考がめぐらされたりした跡などどこにもない。彼女は命令されたとおり平板な声で話すのだ。

 クボタは身支度を整え、サンダルを突っかけた。出入り口のドアノブの手触りに違和感を感じた。彼の頭蓋骨のなかにさっきの夢がフラッシュバックした。老人が海に落ちていく光景、得体の知れぬ気球とその操縦士…。彼はこめかみを押さえて、その映像の奔流が過ぎ去るのを待った。肌という肌から汗がだらだらとこぼれ落ち、体中の筋肉が妙な重みを感じていた。

 ドアの向こうの外界は晴れ上がっていた。やはり違和感がある。荒野にはかんかん照りが注がれ、せみの輪唱がやかましかった。オートバイで防砂林の間の道を過ぎていくと、車上に涼しい風が吹いた。ああそうだった、夏だったよな、と彼は思った。


42 あやしい来客


 事務所のイケアのソファの上にいたのは、尻尾を踏んづけられたヌーのような、ちょっと興奮気味のモロボシだった。モロボシは相変わらず蛇行に蛇行を重ねた説明をやらかした。まるまる2時間。最後のほうなど、壁にかけられた時計が怒り出しそうだった。

 話のスジ自体は簡単だった。だが、彼が映画館で何者かに捕まり、監禁され、命からがら逃げ出すという分かりやすい話には、自分がいかにヒロイックかという脚色がこれでもかと塗ったくられたせいで、聞くに堪えなかった。それでも、クボタはとても忍耐強く情報を見極めて、大体を理解した。

 二人は映画の製作者を洗えば、おのずとソウに近づけるとにらんだ。脚本の裏側には映画の制作会社の名前と住所が記してあった。制作会社の名はダイナミックドラゴン・フィルム。なんとまあ怪しい名前じゃあないか。「いやあ、実にいいにおいがするなあ」とモロボシはにやにやした。彼らはその住所を頼りに、都市中心部の死角とも言うべき地域を訪れた。そこは開発の波から忘れられたような場所で、木造モルタルとかバラック建てが身を寄せ合うように建っていた。古い、古くさい街並みがあった。

 しかし、そこでモロボシが泡を食い始めた。その街の風景は、彼が命からがら逃げ出した、あの雑居ビルの地域のそれと完全に一致していたからだ。


43 肥沃な土壌


 歩を進めていくうちに、いよいよその住所がその雑居ビルと同じだと分かった。モロボシは「証明」をする。「そうだ。あのときもそうだった。向かいの家は塀に鉢植えを並べていて、朝顔が咲いていた」。確かに鉢植えには朝顔が咲いていた。「家の表札には『石木』とでかでかとあったぞ」。確かに石木とあった。「電信柱には、大黒歯科っていう看板がついていた」。確かにそうだった。

 だが、あるポイントが決定的に違った。それは雑居ビル自体は姿も形もなかったことだ。ビルがあるはずの場所は、赤茶けた土のさら地だった。ゆるい風がその上を気持ちよさそうに泳いでいたみみずやだんごむし、蟻、むかで。土の肥沃さがうかがえた。それをぶっそうな有刺鉄線がぐるりと囲んでいた。 


44 うそなの、本当なの、ダイナミックさん?


 土地の登記を調べると、土地はダイナミックドラゴン興産ダイナミックというあやしいカイシャが所有していることがわかった。ダイナミックは映画制作会社ダイナミックドラゴン・フィルムの親会社だった。それでは親会社を探ってやれとなった。だけど親会社は調べれば、調べるほどわけがわからなくなる、雲をつかむようなカイシャだった。ありていに言えば、そのカイシャにはまるで実態がない。

 2人はこういう結論に至った。「あの映画館でのできごとはダイナミックらへんがしかけた。ダイナミックはモロボシを捕らえて、自分らのアジトに連れ込んだ。モロボシをあともうちょっとで成敗できそうだったが、誰かが邪魔をした。そいつらは異変を感じて雑居ビルを隠して姿をくらました」

 それでモロボシ―クボタは大雨と拉致が起きるピンク映画館「お化け屋敷」に照準を切り替えた。映画館はダイナミックとグルにちがいない。


45 その男凶暴につき


 映画館はさも普通というご様子で営業しなすってた。館内は未曾有の集中豪雨に見舞われた雰囲気なんてみじんもなくて、むしろ、そろそろ店を売っちまおうかと考えている、地方の地下水汲み上げ用ポンプの商店主さながらのけだるさが漂っていた。カーペットは相変わらずベーコンのようにかりかりで、シートは真冬のツキノワグマの乾燥肌さながらにかさかさだ。映画「タクシードライバー」のクレイジーなタクシー運転手の雰囲気を漂わせる玄人たちが、将棋うちのような厳しい目つきでピンク映画のなかの混沌を覗き込んでいた。いつもの風景である。

 二人は甘いものに目のないチケット売りの40台のおばさんに、東京ばななを贈賄した。「某大手映画会社のものです。館長お会いできないでしょうか」と名を騙った。効果はてきめんだった。「ああそうですか、ようこそおこしなさりました」とおばさんはにこにこ笑い、トイレの真向かいにある事務所に二人を案内した。

 こうなればこっちのもんだ。彼らはおばさんを押しのけて、ドアをこじ開けると、その部屋にずかずかと押し入った。「この映画館を仕切っているのは誰だ? さっさと出てきやがれ!」とモロボシがせん抜きを片手にかざして叫んだ。

 きゃああああ、と吹っ飛ばされてしりもちをついたおばさんが、ひどく安っぽい叫び声を上げた。家政婦がらみのサスペンスで聞いたことのある声だった。


46 宇宙船の船内、ピンク映画館の片隅で


 しかし、部屋の空気はどうもちがった。

 部屋ははマッチ箱ほどの広さ。机が二つあって、何事にも関心を示さない50代の女事務員が手前で、腰を折り曲げて座っていた。彼女は腰痛に苦しみながら、失言を責め立てられた政治家の苦々しげな表情を浮かべて、恐ろしくゆっくりと書類を作っていた。一字を書き上げるのに、おそらく1分はかかっている。彼女は無音の宇宙飛行船のなかにいるのかもしれない。

 その奥に館長のおっさんがいた。おっさんはゴーストバスターズのような銀色のつなぎを着て、やわいキャスター付きの回転いすの上でふんぞり返って海軍将校が好みそうな細長い葉巻を吸っていた。

 おっさんもまた宇宙飛行士の類だった。机から立ち上がるまでに40秒ほどを要し、さらにあいさつを言うのに2分ほど思案を働かせた。「やあ…………………こんにちわ……」。………。そしてクボタとモロボシに歩み寄ろうとするのだが、その悠長さといったら、月面に降り立ったアームストロング船長そのものなのだった。

 おそらくその部屋には地球とはちがう重力が働いているのだろう。そんな空間にいきなり飛び込んだモロボシらの頭は、瞬く間におかしくなってしまった。


47 カモシカ氏大いに語らう

 びっくりだ。館長の顔はカモシカと瓜二つだった。二人はその顔をまじまじとみてみたが、どこからどうみてもカモシカだった。モロボシは「あんたカモシカが服を着ているみたいじゃないか」と冗談を言った。館長は「ああ、おれはカモシカっていう名前なんだよ」としれっと返してきたので、冗談か本当か分からなかった。が、とりあえず彼の名前はカモシカ氏でいこうとになった。カモシカ氏は事務所を出ると、それこそカモシカの足運びを髣髴とさせるきびきびとした速度で歩き出した。二人をタミル人がやっているカレー屋に誘った。

 カレー屋はこじんまりとしているが、そのなかに南アジアの雰囲気が詰まっていた。日本語がへたくそなタミル人が出すカレーはなかなかのもので、クボタとモロボシの敵意をほぐしてしまう。

 カモシカ氏は本当に早食いで、ものの3分で食後のチャイに辿り着いた。彼は葉巻をすいながら「ぼくは立ち退きには反対なんだ」と口火を切った。

 「ぼくはこの映画館を手放しませんよ。あんたら金融資本家はパチンコ屋だか、キャバレーだか、タワーマンションだかを作ろうって思ってるんでしょう。そういうのの方が、こんなぼろいピンク映画館よりも経済効率ってやつですか、そういうのに優れているとか、あんたらみたいな手合いはよくいいますよねえ」

 彼は煙を吐いて、足を組み直した。

 「あんた方はまあ仕事熱心で、ほとほと感心してるんですよねえ。

 ナントカっていうセンセイも味方に付けているようでこの前もそのセンセイから熱のこもった電話をいただきました。『キミに損はさせないぞ。キミは私を信じてくれたまえ、キミには損をさせないぞ』って熱弁されていたなあ。ちょっと小遣いもらうとそんなことをいうやつを、この銀河系の誰が信じるというんだね」

 彼は木のテーブルをこんこんこんと叩いた。温和そうなカモシカ顔には怒りがふつふつとたぎっている。

 「粗暴でどうしようもない若い衆も最近よく来てもらってます。上映室で酒盛りを始めたり、スクリーンの前に立ってべらんめえ口調でアイフォンで電話したり、客にいちゃもんつけてカネをせびったり、とまあやりたい放題ですなあ。しっかり教育してらっしゃるなあと、感心していたところですよ。

 お仕事熱心は、『日本人の美徳』って奴でしょ。結構。結構。素晴らしいですよ。でもね、わたしはこのピンク映画館が、街の要だと確信しているんです。だから、あたしゃ何をされてもここをそのままにしておきます。

 なぜそう確信しているのか。そこが大事なところです。

 ちょっと話は難しくなりますけど、まあ聞いてください。あなたみたいな剣呑な人にはちょっとむずかしいかもしれないけど」

 すると彼は葉巻を灰皿に押し付けて、身を乗り出して語り始めるじゃあないか。

 「この街にはいろんなものがあります。電柱、電線、上下水、道路、煙突、人間、動物、昆虫、樹木、花、地下、店、ビル。それから無数の人間が住んでいる。街っていうのは、人間が人間のためだけに造った環境だ。ほかの生物のことなど微塵も考えずに作った場所なんだ。それにもかかわらず、街には自然界と似ているところがあるんだ。

 それは街を形作るものが、それぞれつながりあっているということだ。それらは互いにつながり、微妙なバランスをかたち作っている。そのかたちは上下左右、見る角度をかえると、とてもちがうふうに見えるんだ。不思議だろう。

 そのバランスは常に揺らいでいるけど、均衡は保たれている。ぐらぐらしているけど盆の中の水には、『特別な配慮』が働いてこぼれない。そういうふうなんだ。

 でもね。この映画館をどかすとなると、その打撃はでかいですよ。引っ張られるようにいろんなものがぶっ倒れるんだろうな。それはまさしくドミノですよ。ばたばたばたと一気に共倒れになってしまうんだ。

 そしてしまいにゃ、盆がひっくり返り、水は失われちまう。そう、街から大切なものがふっと消えてしまうんだ。そういうものは何十年、何百年という時の流れのまどろみから生まれた。一度それをぶっ壊せば、向こう何十年はよみがえらない。そういうもんなんだ。

 だから、おれはどんな条件が来ても、この映画館をどかしやしないよ。場合に寄っちゃゲバ棒持ってバリケード封鎖やるよ。それからだな、丘の上のあんたらの事務所にガソリンを満載したタンクローリーで突っ込んでもいいなあ。いいか。この下郎ども。おれは自分が信じているものは、絶対に曲げないんだ!」


48 教えろ、カモシカやろう


 それは、すごい演説だった。歴史が記録せざるを得ない大演説だった。カモシカ氏はチャイをごくりと飲んでおかわりした。彼の目は細くて表情は薄いが、どうやら1979年のヴェスヴィオ火山さながら怒っているようだった。

 クボタはハイライトを吸った。モロボシはぽかんとしていた。二人ともしばらくの間話す言葉が見つからなかった。

 モロボシがなんとか話す。「カモシカ氏。最初に断るべきだったけど、おれたちはそのスジとはまったく関係がないんだよ。というか事情だって今知ったぐらいさ。おれらの用は別件なんだ。

 しかしだよ、おじさん。おれは猛烈に感動したよ。あんたは守るべきものに忠実だ。もうあんたを応援してやろうじゃないかと思ったね。あんたがやった演説は、チャップリンの『世紀の6分間』さながらだったよ。権力者が凍り付いて何もいえなくなる類のやつだ」

 すると、「ああ、そうなの」とカモシカ氏は肩すかしを喰らったふうだった。「で、お宅はなんなの?」。モロボシは自分に昨日起きたことを伝えた。カモシカ氏はやくざものを相手にしているという緊張から解き放たれたせいか、いやに洒脱だった。

 「それは簡単だよ。あんたはマヤクやってたんだろ。それでやばい夢見たんだ。あんたの顔見てて一発で分かったよ。火を見るより明らかだ。好きそうな顔しているよなあ。本当に好きで、好きで、好きでしょうがない。馬ににんじん、猫にかつおぶし、大リーガーにホームランって具合だなあ。おい、おっさん、あんた何歳だ? もういいトシだろうが。まっとうに暮らせよ。おふくろが墓石の下で泣いているよ」

 「うるせえこのやろう。おれのお袋は生きているぞ。しかも断じて、そんな怪しげなマヤクはやってない。若いときにやめたんだ」とモロボシは怒った。「いいか、おれがここに来たのはだなあ。『憎しみの惑星』のことで来たんだ。あのばかげた映画を作ったダイナミックドラゴン・フィルムって奴らが何者かってことと、あの姉の役をやっていた女が何もんかってことを、あんたに問いただしに来たんだ」


49 ベータマックスと亀と哄笑が呼んだものは?

 そのままモロボシはテーブルの上でスタート寸前の競泳選手の格好になった。彼はおもむろにカモシカ氏に指を突きつけた。その指は泡立て機のごとくぐるんぐるん回転していった。モロボシの目には怪しげなどろどろとした赤い光が灯った。「あんたには才能がある」。そう言った。なんということか。ぐるぐる回されている人指し指がいくつもに分身していき、かれの言葉がテープエコーのように響き渡った。

 「くだらんことは、よせ」

 カモシカ氏はその人指し指を鷲づかみにして、指を圧迫した。モロボシは悲鳴を上げて指を引っこ抜いた。カモシカ氏の目もまた、夜のふくろうのように光った。そのやさしげなカモシカ顔には苦渋が表れ、そして潮が引くように去っていった。彼はやはり洒脱にしゃべる。

 「おい乞食野郎。あんた、いいところを突いているよ。最高じゃないが、最善というところまでは行ったかな。まあがんばった、がんばった。ただ、あんたはさあ、ちょっくら、欲しがりすぎだと思うよ。だって、あんたはこう言うんだ。『すいましぇーん。知りたいこと全部、まるまる教えてくだせえ、お侍さん、すいましぇーん』ってね。こいつはまったく、都合がよすぎるんだい、サンピン。いいか、謙虚になれよ。おれが地球でおまえが月。おれが土星で、おまえがタイタン。おれが大リーガーでおまえがホームラン。

 だけど、キミの度胸に免じて、大出血大サービス赤字覚悟の決算セールしちゃうよ。ようし、じゃあ教えてあげちゃうよ。いいかい、よく聞いちゃいなよ。あの『憎しみの映画』ってのはだなあ。ありゃあ一つだけで終わりじゃないんだ。流れが大事なんだよ。つまりあれはだなあ、ある有名じゃない映画の影響をもろにうけているんだなあ。その映画ってのは、むかーし、むかーしあるところで、撮られたわけだ。それはベータマックスっていう時代遅れのビデオテープで、アンダーグラウンドで流布されたんだ。それは大半の人間には見向きもされず、それでも物好きな奴はそれをこよなくめでたのさ。記念碑的な作品なのであーる」

 ベータマックスで、流布…。ビデオ屋暦15年のクボタの頭に妙に引っかかるものがあった。

 くっくっくっく、とカモシカ氏は時計仕掛けのオレンジの主人公が浮かべる邪悪な笑顔で嗤った。

 「その映画は傑作なんだ。なんてったって亀がしゃべるんだからなあ」

 くっくっくっく、はっはっはっは、うわっはっはっは、ぎゃっはっはっは。びやーっはっはっは。彼はテーブルの上に乗って、そり返って大笑いした。狭い店が彼の笑い声でいっぱいになり、誰もが彼の狂気の沙汰をぼけっと眺めていた。まるで時間が止まったかのような瞬間があり、それから時間はまた普通に戻った。そのときクボタは大粒の水滴を手のひらに感じた。まさか。彼はまたたく間に確信した。そのまさかだ。雨が降っていた。そうだ、今度はカレー屋に雨が降っているんだ―。

 



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