薔薇の令嬢と腹黒紳士
咲き初める薄紅の薔薇が閉ざすのは、密やかに息づく罪の証だった。こんなところに、といった青年の驚く声と共に蔦を払いのけて少女は手を伸ばした。
隠された扉には少女とそれに近しい者しか開けられないよう細工してある。それ以外の者には触れる事すら出来ない代物だ。
「なんとも面倒なことをなさいましたね。ですが、それは正しい」
貴方のような麗しい方でしたら防犯上その方がよろしいでしょう、と。本気なのかよくわからない口調で青年は言った。
麗しいのは貴方でしょうと少女は半ば呆れつつ呟いた。なにせ背後の青年はそれこそ造物主が丹精こめて作り上げた彫像もかくやというほどの美形である。切れ長の瞳には男性すら虜にできるほどの色気をたたえて。
「癖のない真っ直ぐな金色の髪に濃い蒼の瞳。さぞやおもてになるんでしょうね」
「そうですねえ。貴方が私に引っ掛かってくれる程には整っていると申し上げましょうか。それにしても、おやおや。私のこの容姿を褒めてくださるのですか? ふふ、嬉しいですねえ。貴方のような方に気に入ってもらえるとは」
青年は微笑すると目の前の少女の緩やかに波打つ漆黒の髪に口づけを落とす。心底愛しくてならないといった風に。
第一少女とてこの青年の容姿をあげつらう必要などないのだ。零れんばかりに大きな緑の瞳と紅く色づいた唇はまさしく美少女といって差し支えないものなのだから。
「気に入ったなんて言ってないわよ。……貴方のような自信過剰な男は大嫌いだわ。だいたい、なんで私がこんな目に」
「――エヴァ」
背後からぞくりとするほどの低音で名前を――しかも愛称で呼ばれた少女は沈黙した。おとなしくなった彼女の首元を青年は満足そうに一撫でする。つつ、と細く長い指がたどったそれは、服従の証。
「言っておきますけどね! 私は貴方の下僕になったつもりなんてないんですからね」
「わかっていますよ。……愛しいエヴァンジェリン。できることならば私のこともリュシアン、と」
「絶対に嫌よ」
これ以上の会話は不毛なだけだと、少女はいささか乱暴に閉ざされていた扉を開ける。流れ込んでくるのはむせ返るほどの薔薇の香りだ。
幾重にも巡らされた薔薇の蔦をかいくぐると、少し開けた箇所へと出る。
「古城の地下にこのようなものがあろうとはね」
「もともとここは古城ではないわ。ちょっと眠りについている間にいつのまにか古城ってことになったみたいだけど」
「ほう。ちなみにどれくらい?」
「ざっと数百年ってところかしら。お父様が亡くなられてから、私達人前に出られなくなったから」
「……狩られる、からですね」
青年の言葉に少女は首をすくめて見せる。
「光が差し込むように作られたこの地下室は温室仕様になっていて、望めば幾らでも見つからずにここに篭っていられるわ。だけど、最近」
少女は中央に置かれてあった薔薇に埋もれた一角へと近寄る。それは、いうなれば薔薇の褥だろう。
「――この子の飢えがひどくて、それで仕方なく私が狩りをする羽目になって」
少女が覗き込むのと同時に薔薇の褥の主が覚醒する。そうして起き上がってふわりと甘い笑みを浮べた。――姉さま、おなかがすいたの、と。
「弟?」
「似てないと言いたいんでしょうけど。確かにこの子は貴方と同じ金髪で蒼い瞳で、私の黒髪とは似ても似つかないわ。けれど血筋的には間違ってないの。私はお父様と人との間のハーフで、この子はお父様の純然たる子供なのだから」
「――では」
少女の言葉を聞いて、青年は微笑する。そして当然のように膝をついて少年と少女を見上げた。
「ちょ、ちょっと何よ!?」
「――私のすべては貴方に捧げよう、エヴァンジェリン」
お断りよ!と大絶叫する少女を前に、金髪の青年は微笑を刻んだ。
その少女に会ったこと自体は偶然だった。
とある種族の中でも高位の貴族――しかもほぼ直系――である彼、リュシアンは飢えの為でもなくただ純粋に見学のつもりでバーを訪れたのだ。極上の容姿を持つ彼にとっては餌を探すことなど造作もないことだから、狩りをするつもりは毛頭なかった。
それなのに、極上の獲物は何も知らずにやってきた。
緩やかに波打つ黒髪は腰まで届くほどで、その瞳は零れ落ちてしまいそうなほどに大きい。だのに唇は少女というには妖艶すぎる色をしていた。
一見するとバーに来るには幼すぎる容姿ではあるが、身にまとうその色香は少女であることを裏切っていた。
鄙には稀な美形と、これは私の獲物だと周囲を一睨みして、リュシアンは少女の隣の席へと移動したのだ。
それからは甘い言葉をかけ、強いアルコールを甘みで隠したそれをさりげなく勧めて、少女が落ちるのを待った。
……普段の彼ならばこのような面倒な真似はしない。それどころか餌は待っていれば向こうから勝手に喰らいついてくるものだった。それをここまでさせる少女に、リュシアンは不思議なほどに惹かれた。
――餌としてではなく、この少女を側におきたい、と。
アルコールで判断力が鈍くなり、リュシアンにもたれかかってきた少女を支えながら、彼は秘に決心した。
酔いつぶれた少女を介抱するという名目で近くにあるホテルへと連れ込み、そっとその華奢な身体をベッドに横たえた。
――横たえたのだが。
「――ご苦労様、私の獲物さん」
酔って意識が朦朧としていたはずの少女の腕がリュシアンに絡みつく。思わず離れようとした身体を思いのほか強い力で拘束された。もしや、と思う間もない。
艶然と微笑する少女はリュシアンを引き寄せる。
「――いただきます」
え、とリュシアンが思ったのも束の間、少女の紅い唇は彼の首元へと埋まっていた。
――沈黙が、流れた。
思わぬことに微動だにできずにいるリュシアンと、嬉々として彼の首筋にその愛らしい牙を立てた少女。そのまま数秒が流れて、仕方なく彼は少女を引き剥がした。
「……なんで、どうして!?」
血を吸われたはずなのにまったく応えてもいないリュシアンを見て、驚愕する少女。彼はそんな少女に眩暈を覚えそうになりながら口を開いた。
「私も貴方と同族だからですよ、美しいお嬢さん」
「嘘だわ! だってそれならそれで貴方は私の下僕になるはずだもの! 下級であればあるほど高位には逆らえないはず!」
彼らの種族はすべてが高位貴族に優位にできている。下級の者達はその血を高位に吸われることで下僕となり、使役されるのだ。
「残念ながら私は少しばかり高位のため、多少血を吸われても使役されることはないようですよ」
「――高位ってだけじゃない……なにか強い力を持っているのね」
少女の呟きに彼は微笑んでみせる。彼ら種の頂点であり始祖であったかの方より分かれた3つの高貴なる家系、その中の1つが彼の家である。そしてまぎれもなく彼こそが直系なのだ。ついでに言えば、先祖がえりともおぼしき力までおまけについている。
「賢いお嬢さんは好きですよ。ですから、私にも、貴方を」
リュシアンは今度は彼のほうから少女を絡め取った。
「え、ちょっと、待って」
「――貴方の血を、私にください」
ベッドの上に彼女を優しく横たえて、彼はうっすらと微笑する。彼を謀った少女だけに、血を吸って自分の下僕に変えてしまうのもまた一興と考えたのだ。下僕とはいってもその血が強ければ強いほど意志を失うことはない。なにより強い彼の血を飲んだ状態で普通にしていられる少女を手放すつもりなど、もう彼にはなかったのだ。
――その血は甘美な毒薬だった。
「なんという甘露。……素敵ですね、お嬢さん」
脳髄を侵す甘い感覚に、リュシアンはうっとりと言葉を吐いた。彼が生きてきたこの数百年間色々と獲物を屠ったがこれほどまでの味には巡り合うことはなかった。
「……貴方は、ハーフなのですね。素晴らしい、これで一生餌に困ることもない」
「ちょっと! なに好き勝手に言ってるのよ」
じたばたともがきながら少女は言うが、もとよりリュシアンは放す気などない。人と彼ら種族とのハーフといえば彼らにとっては極上の餌を意味するのだ。血を飲んでも決して死ぬことはない上に、もしそれが高位であればあるほど自我を失わないのだから。
「……いいかげんにしてよね!」
もがいていた少女の渾身の一撃をリュシアンは頬にくらい、そのまま壁へと吹っ飛んだ。
「誰が貴方みたいな外道の下僕になるもんですか。私はそのへんの奴らと違って高貴なる存在なんですからね、おとといいらっしゃい!」
乱れた衣服を整え、言い捨てて去っていく少女を、どこかうっとりとした眼差しで見送るリュシアン。その目は「絶対に自分のものにしてみせる」という危ない光でいっぱいだった。
――それが一週間前の顛末である。
怠惰で荒んでいた高位貴族の継嗣であるリュシアンはそれから、それまでの自分が嘘であったかのように少女につきまといはじめた。なぜか少女は至急餌を必要としているようだったから自分に群がる餌を分け与えたりもして。
リュシアンの血を飲んだはずなのにいっこうになびかない少女だったが、餌には素直に感謝をする。その愛らしさに毎度やられてはついつい手出しをしてしまい鉄拳制裁をされるのだが、彼は幸せだった。
何より極上の獲物である。ついでに言えば、彼の血にも変化を見せない少女は伴侶にふさわしいという裏事情もあった。
ともかく少女をうまく囲い込みながら、ついに彼は名前を聞きだし、その住処へと潜入することに成功したのだ。
――そして話は冒頭に戻るのである。
「ねえ、姉さま。僕、お腹がすいたの」
天使のようにも見える巻き毛の少年はそういって少女にすがりつく。少女――3家筆頭令嬢のエヴァンジェリンはそっとその指を伸ばして褥を取り囲む薔薇に手を触れた。
その白い指先から玉のように盛り上がる血の滴を、少年は舐め取った。
「私はハーフだから人の食べるもので生きていけるんだけどね、この子はだめみたいで。しかもまだ幼いから、うっかり外に狩りにいって逆に狩られたらと思うと」
「ねえ、エヴァ」
少女の身体をふわりと後ろから抱きしめながらリュシアンは呟く。ここまで慣れさせるのには彼らしくもなく相当の時間をかけたのだが。
「私のところにおいでなさい。君にも、君の弟にも不自由はさせませんよ。それに私のところならわざわざ狩りをしなくても餌には事欠かないだろうし」
「でもそんなの、悪い」
「気にすることはないんです。ただ少し、時々でいいですから、貴方の血を私に分けてくだされば――」
腹黒い微笑を浮べてそう言えば、少女、エヴァンジェリンはぐぐぐ、と空いた片方の手を握り締める。すわ鉄拳か、とリュシアンは身構えるが、今度は飛んではこなかった。
「……ちょ、ちょっとは考えてあげてもいいわよ!」
覗き込んだ目元の縁が少しだけ紅くなっていることに気づくと、リュシアンは唇でさっとそれに触れた。動揺した少女が逃げようともがいても、決してそれを許さずに。
「――決して、逃がしませんよ。愛しいエヴァ」
この数日後。嫌という間もなく数少ない家財とついでに温室中を埋め尽くす薔薇ごと姉弟は、リュシアンの邸に保護という名の連行をされるのだが、それはまたのお話。