ふたりぼっち
「海、行こうか。」
菊池君は静かにそう言った。
『ふたりぼっち』
ゆっくりと進む車の中は、特に会話はなかった。菊池君の好きな歌手は、私にはよくわからない。ただ流れる英語が、耳に心地よくて、今は会話などいらない。
横を通り過ぎる車窓は、速くもなく、遅くもなく、少し現実味のない世界にいるようで。菊池君の横顔を盗み見ると、いつものような穏やかな顔ではなく、少しだけ強ばっていた。しかし眼鏡の奥の瞳には、窓から差し込む夕日が反射して、キラキラと光っている。
私は社会人となって1年半、忙しいと言われればそうなのだが、苦ではない。何の問題もない生活を送っていた。菊池君はそろそろ働いて4年半になるだろうか。なんだかんだ、とても仕事を楽しんでいるようだ。
私たちは出会ってからすでに4年が経とうとしている。特にこれといった思い出があったようにも、なかったようにも、そんなことはどうでもいいような気もする。喧嘩もしたし、恋人らしいデートもした。だけれどもそんな記憶はゆっくりと積み重なって、それぞれのことなんてはっきりとした記憶にない。たぶんこんなことを彼に言ったら、悲しむだろうから言わないのだけれど。
私たちがこの4年間で、何を分かり合えたのかはわからない。それぞれの趣味も結局は理解しあえなかった。一度は分かり合おうと努力したこともあったけれど、無駄な努力なのだと互いに気づいてしまった。菊池君は、菊池君の好きなことを好きなだけ。私は、私の好きなことを好きなだけ。そして互いの中で、互いの存在はゆっくりと薄くなっていった。
車が止まった。当たり前のように私は一人で車を降り、ゆっくりと海岸の方へと下りていく。浜辺には人影はなく、波の音が静かにそこに満ちていた。
私のブーツはゆっくりと砂に沈みながら、前へと私を運ぶ。いつだって私は打ち寄せる波に吸い寄せられていく。遠く後ろで、車のドアを閉める音がした。それでも私は決して後ろを振り向かない。
私たち二人は海が好きだ。でも二人の楽しみ方は違う。いつだってそうだ。私たちは同じ時間の中で、それぞれの人生を生きていた。私にはそれがいいことなのか、悪いことなのか、わからないけれど心地よかった。私も彼も、きっと二人でなくともやっていける。私には彼がいなくとも、彼には私がいなくとも、それなりに幸せにやっていける。私にはその自信がある。私たちはそんな関係性を、危うくもなく保ってきた。それ以上の関係を望むこともなければ、それ以下の関係を恐れることもなかった。
静かな足音が聞こえる。それでも私は振り返らない。菊池君が、今何を考えているのか、私にはいくら考えてもわからない。何故、おしゃべりな彼が、今日はとても無口なのか。何故、そんな真剣な顔で私を海へ誘ったのか。最近私に隠していることは、いったい何なのか。
「りょう、こっちを向いて。」
菊池君の声はすぐそこまで来ていた。それでも私は振り返ることができない。今、振り返ってしまったら、この穏やかで静かで、たまらないほど幸福な時間が、消えてしまいそうで。
「わかった、そのままでいいから、聞いてほしいことがあるんだ。僕は随分と勝手な人間だ。それで何度も君を傷つけたこともあった。君は強がりではなく、本当に強いから、僕は本当に君に救われていたんだ。僕にとって君はいてくれた方がずっといい。だけど君なしで生きられないほど、君に執着してはいない。いや、違うな。君を傷つけたいわけじゃないんだけど。おかしいな、いくら考えてもなんて言えばいいかわからなくって。この1週間、なんて言おうかずっと考えていたんだけど、いい言葉が浮かばなくて。うん、そうだ。僕は君が好きです。僕は君がいい。君の横が一番心地いいんだ。そう、僕は君がいい!」
菊池君の声はずっと必死で。何を言っているのか、ところどころよくわからなかったけれど、私の胸に突き刺さった。何が刺さったのか、それは言葉か、熱意か、愛なのか。ついに私はゆっくりと振り返った。
振り向いたら、菊池君の馬鹿みたいに赤い顔があった。
「りょう、僕と結婚してください!」
私は急にこみ上げてきた笑いに素直に従った。心の底から笑い続けた。だって、あまりに幸せだったから。
笑い続ける私を、不安そうに見つめる菊池君の手を強くひっぱった。そして力任せに抱きしめて、こぼれた涙を彼の胸に押し付けた。