2009年12月18日
オフィス街を歩く人々。その間を縫うように進む、一人の女性がいた。
「すいません!」
ハイヒールを履いているとは思えない程の速さで走っている、彼女の名前は西条 瑞穂だ。
瑞穂は今年の4月、IT企業に就職したが、まだ仕事に慣れないでいる。また、朝は昔から弱く、今の寒い時期は寝坊してしまうことがほとんどだ。そのため、瑞穂がこうして走るのは日常茶飯事だ。
その時、喫茶店から出てきた人とぶつかりそうになり、瑞穂は咄嗟に避けた。しかし、不安定なハイヒールでそんな無謀なことをしたため、瑞穂はそのまま転んでしまった。
もっとも、瑞穂がこうして転ぶことも日常茶飯事だ。
「最悪……」
膝を擦りむいたが、今は会社へ行くことを優先して、瑞穂はまた走り出した。
瑞穂は会社に着くと、タイムカードを入れた。そして、無意識のうちに「57」という分の数字だけを見て、安心したようにため息をついた。
この会社の始業時間は9時だ。8時57分なら、何とか間に合っている。そんなことを考えながら、瑞穂は自分のデスクに向かった。
「おはようございます」
「こんなに遅くなって、どうしたんだ?」
「え?」
先輩からの質問に、瑞穂は少し驚いてしまった。
確かに3分前ではあるが、瑞穂にとってはこれが普通だ。昨日も同じように、始業時間ギリギリに出勤した。それなのに、今日だけこんなことを言われるのは、疑問だった。
そこでふと、瑞穂は時計に目をやった。
「嘘……」
アナログ時計を見れば、一目瞭然だった。明らかに短針の位置が1時間ずれているのだ。つまり、今は9時57分ということになり、完全に遅刻だ。
「ごめんなさい!」
「いつもギリギリの時間に来るけど、しっかりしろ。学生気分が抜けてないんじゃないか?」
そんなことを言われ、瑞穂は返す言葉が見つからなかった。
勤務時間の辻褄を合わせるため、この日、瑞穂は1時間程残業してから会社を出た。不景気のためか、今は仕事がほとんどなく、自主学習の時間がほとんどだ。それは瑞穂にとって退屈なもので、いつも会社にいる時は時間の流れが遅いと感じている。
プログラミングができる女性は恰好良い。そんな訳のわからない憧れからIT企業を選んだが、今のところ、プログラミングの仕事を任されたことはない。それどころか運用と呼ばれる、システムを管理する仕事を任され、自分が望む開発の仕事は当分させてもらえそうにない状況だ。
学生時代、就職してから1年以内に辞める人がいるという話を聞いた時は、そんなことあるわけないと感じていた。しかし、今はその話を十分理解出来る気がした。正直なところ、瑞穂は仕事を辞めたいと思っている。
「あの、すいません」
その時、そんな声を掛けられ、瑞穂は足を止めた。
そこには、自分と同年代に見える男性がいた。
「……何か用ですか?」
直感的にナンパだろうと思い、瑞穂は無視をしようと思っていた。しかし、男性の顔が自分の好みだったため、思わず返事をしてしまった。
「えっと、こんなことを言うのはおかしいんですけど……」
男性は勢い良く頭を下げた。
「ごめんなさい! あなたが今日遅刻したのは僕のせいです!」
「え?」
瑞穂は意味がわからず、首を傾げた。
「別に私が寝坊しただけで……」
「違うんです。僕があなたの時間をもらったからなんです」
「……さっきから何を言っているの?」
ますます意味がわからなくなり、瑞穂は混乱してしまった。そして、このままでは何もわからないと判断すると、順番に整理していくことにした。
「あなたの名前、何?」
「あ、池斗です」
「私は瑞穂」
「知っています」
「え?」
自分の名前を知っているということに、瑞穂はまた混乱してしまった。
「あ、知らないです! 嘘です!」
池斗がそんな風に言い直したが、瑞穂は言い直した言葉の方が嘘に感じた。しかし、詮索してもしょうがないため、瑞穂は話を進めることにした。
「時間をもらったって言ったけど、どういうこと?」
こんなことを真剣に聞くのもおかしいと思ったが、少しの間、瑞穂は池斗の話を聞くことにした。
「僕がここに存在するためには、誰かから時間をもらわないといけないんです」
「え?」
「あ、でも、いつもは気付かれないようにもらっています」
瑞穂は既にほとんど理解出来ていないが、最後まで聞けば理解出来るかもしれないと淡い期待を持ちつつ、話を聞き続けた。
「何かに夢中になっている人や、ボーっとしている人なら、思ったより時間が過ぎていたって感じる程度なので……」
瑞穂自身、時間の流れを忘れることが時々あるが、それが全部このせいだとは到底思えなかった。
「昨夜は夢中になってギターを練習している人がいたので、その人から時間をもらいました」
「じゃあ、今朝は私から時間を奪ったってこと?」
「奪ったなんて言い方は……」
「私はあげたつもりなんてないし、奪ったってことでしょ? おかげで遅刻もしたし」
もっとも、数分の遅刻はよくしているため、池斗だけのせいとは言えない。しかし、今はそのことを無視して、池斗だけのせいと、責任転嫁した。
「あなたの時間をもらうつもりはなかったんです。ただ、走るあなたを避けられなくて……」
詳しい話を聞いたところ、瑞穂が人を避けるため、咄嗟に方向転換をしたことが原因らしい。その時、別の人から時間をもらおうとしていた池斗の狙いが逸れ、瑞穂から時間をもらってしまった。整理すると、そんな話だったが、最終的に信じられる話かというと、とても信じられなかった。
しかし、もし池斗の話が本当だと仮定した時、瑞穂はお願いしたいことがあった。
「そういうことなら、仕事中に時間を奪ってよ」
「はい?」
「最近、やることなくて長く感じているの。あなたが時間を奪えば、あっという間に時間が過ぎるんでしょ?」
そこで、瑞穂は明日の予定を思い出した。
「明日、システムの休日稼働だかで出勤なんだけど、やることはほとんどないの。だから、私の時間を奪ってよ」
「そんなことを言われても……」
「じゃあ、よろしくね」
そうして話を切り上げると、瑞穂は池斗に背を向けた。
「わかりました。明日、あなたの時間をもらいます」
そんな池斗の声が聞こえ、瑞穂は思わず振り返った。しかし、もうそこに池斗の姿はなかった。
「あれ?」
隠れられるような場所もなく、どうやって姿を消したのか疑問だったが、瑞穂は深く考えることなく、帰ることにした。




