「もう誰かのために生きるのは疲れました」そう伝えて聖女を辞めたら、溺愛されました
「セラフィナ様、新しい聖女様がお見えになりました。あなたの役目は終わりです」
淡々と告げられた言葉に、私は――安堵のため息をついた。
「(やっと……やっと終わるんだ)」
宰相ギルバートの使者は、私の反応を気にする様子もなく、続ける。
「明日の朝までに王城を出ていただきます。荷物は最小限に。護衛はつけません」
「分かりました」
私、セラフィナ・アルストは、エルデリア王国の聖女として五年間奉仕してきた。いや、「奉仕」という美しい言葉では足りない。酷使されてきた、というのが正しい。
朝は四時起床。祈りを捧げ、負傷した騎士の治癒。昼は結界の維持作業。夕方は貴族たちの些細な体調不良の治療。夜は魔物討伐に同行し、深夜に帰還。そしてまた四時間後には起床。
休日? そんなものはない。
食事? 立ったまま口に運ぶのがやっと。
感謝? 「聖女なんだから当然でしょう」という顔ばかり。
「(もう……疲れた)」
使者が去った後、私は小さな聖女の部屋を見渡した。質素なベッド、祈りの祭壇、そして山のような治療記録。この五年間、私はここで何をしていたんだろう。
いや、分かっている。都合よく使われていただけだ。
「(でも、もういい。これで自由になれる)」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、私は最小限の荷物を持って王城を出た。見送りに来たのは、新しい聖女アリシアだけだった。
「セラフィナ様……申し訳ございません」
十八歳の彼女は、涙目でそう言った。きっと善良な子なのだろう。でも、それは私には関係ない。
「気にしないで。あなたは頑張って」
それだけ告げて、私は王城の門をくぐった。振り返らなかった。振り返る理由がなかった。
「(これから、どうしよう)」
行く当てはない。でも、不思議と不安はなかった。むしろ、胸が軽い。
とりあえず、国境を越えよう。隣国ノルトヴァルトなら、エルデリアの影響は及ばない。そこで、普通の治癒師として暮らせばいい。
「(普通の……生活)」
その言葉が、こんなにも甘く響くなんて。
私は歩き続けた。王都から国境まで、徒歩で三日。魔法で移動することもできたが、もう魔力を無駄遣いしたくなかった。
一日目の夜、宿屋に泊まった。久しぶりに、誰にも起こされずに眠れる。それだけで涙が出そうになった。
二日目、森を抜ける道を選んだ。人目を避けたかった。「元聖女」と知られたら、また面倒なことになる。
そして三日目の夕方――。
「グルルル……」
低い唸り声が背後から聞こえた。振り返ると、巨大な魔物が木々の間から姿を現した。
「(まずい……)」
普段なら一瞬で倒せる相手だ。でも今の私には、ほとんど魔力が残っていない。五年間、休みなく魔法を使い続けた結果だ。
魔物が飛びかかってくる。私は咄嗟に防御魔法を展開したが――弱い。衝撃で地面に叩きつけられ、視界が揺れた。
「(ここで……終わるの?)」
いや、それは嫌だ。やっと自由になれたのに。
魔物が再び襲いかかろうとしたその時――。
「そこまでだ」
低く、凛とした男性の声。次の瞬間、黒い影が魔物に斬りかかり、一撃で仕留めた。
「大丈夫ですか?」
男性が私に手を差し伸べた。黒髪、灰色の瞳。精悍な顔立ちに、どこか優しさを感じる。
「あ……ありがとう、ございます」
その言葉を口にした途端、不思議と涙が溢れてきた。
「(なんで……泣いてるんだろう)」
きっと、誰かに「大丈夫ですか?」と心配されたのが、久しぶりすぎたからだ。
「怪我をしている。動けますか?」
「は、はい……」
立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。魔力切れと疲労が一気に襲ってきた。
「無理はしないでください」
男性は私を抱き上げた。
「え……」
「私の領地が近い。そこで手当てをしましょう」
優しい声だった。温かかった。
「(この人は……誰?)」
意識が遠のいていく中、私は彼の腕の中で眠りに落ちた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目を覚ますと、見知らぬ部屋だった。柔らかいベッド、清潔なシーツ、窓から差し込む優しい朝日。
「(ここは……?)」
「目が覚めましたか」
扉が開き、昨日の男性が入ってきた。
「あ……あの、ありがとうございました。助けていただいて」
「いえ。私はルーカス・ヴァルトハイム。ノルトヴァルトのこの辺境領を治めています」
辺境領主。なるほど、だからあの強さと落ち着きがあるのか。
「私はセラフィナと申します」
姓は言わなかった。アルスト家は、エルデリアではそれなりに知られた聖女の一族だ。
「セラフィナさん。あなたは……魔力が著しく消耗していました。長期間、無理をされていたようですね」
「……はい」
彼の観察眼の鋭さに、少し驚いた。
「事情は聞きません。でも、しばらくここで休んでいってください。急いで旅を続ける理由があるなら別ですが」
「いえ……特には」
「では、決まりです」
ルーカスは微笑んだ。それは、命令でも強制でもなく、ただの優しさだった。
「(この人は……本当に、ただ私を助けたいだけなの?)」
疑ってしまう自分が悲しい。でも、五年間で学んだ。人は、見返りなしに他人を助けたりしない。
「あの……お礼は必ずします。治癒魔法なら使えますので――」
「不要です」
ルーカスはきっぱりと言った。
「あなたには、休んでいただきたい。それだけです」
「……」
「食事を持ってきます。ゆっくり休んでください」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
一人になった私は、ベッドに横たわった。柔らかい。暖かい。そして――誰も、私に何かを要求してこない。
「(これが……普通の生活?)」
涙が止まらなかった。でも、それは悲しみの涙ではなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
数日が過ぎた。私はルーカスの館で、本当に何もせずに過ごしていた。
朝は好きな時間に起きる。食事は三食、しっかりと。誰も夜中に叩き起こしたりしない。
「(天国……)」
こんな当たり前のことが、私には新鮮だった。
ルーカスは忙しそうで、日中はほとんど領地の仕事をしている。でも夕食の時だけは、必ず一緒に食べてくれた。
「調子はどうですか?」
「はい、とても良いです。魔力も、かなり回復しました」
「それは良かった」
彼は本当に、それだけで満足そうだった。
「あの……ルーカス様」
「ルーカスで構いません」
「では……ルーカスさん。私、いつまでもここにいるわけには」
「なぜですか?」
彼は不思議そうに聞き返した。
「だって……お世話になるばかりで」
「私が望んでいることです」
「でも――」
「セラフィナさん」
ルーカスは真剣な目で私を見た。
「あなたは、誰かのために自分を削ることに慣れすぎている。でも、それは間違っています」
「……」
「あなたには、あなた自身のために生きる権利がある。休む権利がある。幸せになる権利がある」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「私は……そんな権利、ないと思ってました」
「なぜですか?」
「だって、聖女だから。みんなのために尽くすのが、当然だと」
「それは誰が決めたんですか?」
「……国が」
「国が間違っていたら?」
ルーカスの言葉に、私ははっとした。
「(そうだ……国が、間違っていたんだ)」
私は利用されていた。都合よく、消耗品のように。
「ルーカスさんは……なぜ、そんなに優しいんですか?」
「優しい? そんなつもりはありません」
彼は少し笑った。
「ただ、あなたを見ていると、昔の自分を思い出すんです」
「昔の……?」
「私も、辺境領主として国の都合のいい駒でした。危険な任務ばかり押し付けられて、感謝もされない。でもある時、気づいたんです。自分の人生は、自分で決めていいんだと」
「……」
「だから、あなたにも同じことを伝えたい。ここにいたいなら、いてください。去りたいなら、止めません。でも、どちらを選ぶにしても、それはあなた自身の意思で決めてほしい」
彼の言葉は、温かかった。
「私……ここに、いてもいいですか?」
「もちろんです」
ルーカスは微笑んだ。
「では、正式に。セラフィナさん、この領地の専属治癒師として、あなたを雇いたい。給料も出しますし、休日もあります。無理な仕事は一切させません」
「それは……」
「もちろん、断っても構いません。でも、私としては――あなたに、ここにいてほしい」
その言葉に、私の心は決まった。
「はい。お願いします」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから一ヶ月が過ぎた。
私は本当に、辺境領の治癒師として働いていた。でも「働く」というより「楽しんでいる」という方が正しい。
領民は皆、優しかった。「セラフィナさん」と親しみを込めて呼んでくれる。子供たちは、私に花を摘んできてくれる。
「セラフィナさん、これあげる!」
「ありがとう」
こんな些細なことが、嬉しい。
仕事も、過酷ではない。一日に数人の治療をするだけ。しかも、皆が「ありがとう」と言ってくれる。
「(これが……普通の仕事なんだ)」
そして何より、ルーカスがいつも気にかけてくれる。
「無理していませんか?」
「疲れたら、すぐに休んでください」
「今日の夕食は、あなたの好きな料理を用意させました」
彼の優しさは、計算ではない。本当に、私のことを心配してくれている。
「(この人は……本当に、いい人だ)」
そう思うと同時に、少しずつ、胸が温かくなっていくのを感じた。
ある日、私は領地の結界を見て回っていた。治癒師としての仕事以外に、結界の維持も手伝っている。これは私から申し出たことだ。
「(この領地を……守りたい)」
エルデリアでは、義務だった。でもここでは、自分の意思だ。
結界を強化しながら、ふと思った。
「(エルデリアの結界は……今、どうなってるんだろう)」
あの国の結界は、私が一人で維持していた。新しい聖女アリシアに、それができるとは思えない。
「(でも……もう、私には関係ない)」
そう思った時――。
「セラフィナ様!」
息を切らした使者が、館に駆け込んできた。エルデリアの紋章を身につけている。
「あなたは……」
「セラフィナ様、どうかお戻りください! 国が、国が大変なことに!」
使者は必死だった。
「結界が崩壊寸前なんです! 魔物が次々と侵入してきて、アリシア様では対処しきれません! どうか、お力を!」
「……」
予想通りだった。いや、予想以上に早く崩壊したのかもしれない。
「お願いします! 国民が苦しんでいます!」
「それは……お気の毒ですね」
私は冷静に答えた。
「でも、私はもうエルデリアの聖女ではありません」
「で、ですが!」
「宰相ギルバートは、私を『用済み』と言いました。護衛もつけず、感謝の言葉もなく、追放しました」
「それは……」
「今更、都合よく戻れと言われても、困ります」
使者は絶句した。
その時、ルーカスが部屋に入ってきた。
「セラフィナさん、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
私はルーカスに微笑んだ。
「この方は、もうお帰りになるところです」
「セラフィナ様!」
「申し訳ございませんが、私の答えは変わりません。アリシア様を信じて、頑張ってください」
使者は、諦めたように去っていった。
部屋に二人きりになると、ルーカスが優しく聞いた。
「後悔は?」
「ありません」
それは本心だった。
「あの国は、私を人として扱ってくれませんでした。でもここは違う。ルーカスさんも、領民の皆さんも、私を『セラフィナ』として見てくれる」
「……」
「だから、私はここにいます。ここが、私の居場所です」
ルーカスは、少しの間黙っていた。そして――。
「セラフィナさん」
「はい?」
「私は……あなたを守りたい」
その言葉に、心臓が跳ねた。
「あなたが笑っているのを見ると、嬉しい。あなたが幸せそうにしているのを見ると、安心する」
「ルーカスさん……」
「これは……恋、なのでしょうか」
彼は不器用に、でも真剣に言った。
「私は、あなたにここにいてほしい。専属治癒師としてではなく……私の、妻として」
「え……」
「突然で、驚かせてしまいましたか。でも、これが私の本心です」
私は、言葉が出なかった。
「(私を……妻に?)」
それは、考えたこともなかった未来だった。
「返事は急ぎません。ゆっくり考えて――」
「はい」
私は、自分の口から出た言葉に驚いた。
「はい?」
「はい……私も、ここにいたいです。ルーカスさんと、一緒に」
涙が溢れてきた。でも、それは喜びの涙だった。
「本当に?」
「はい。私……ルーカスさんが好きです」
その瞬間、ルーカスは私を抱きしめた。
「ありがとう。大切にします。一生、守ります」
「私も……ルーカスさんを、大切にします」
彼の腕の中で、私は初めて思った。
「(ああ……これが、幸せなんだ)」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
それから数ヶ月後。
私はルーカス・ヴァルトハイムの妻として、辺境領で暮らしている。
毎朝、彼と一緒に朝食を取る。領民の治療をし、子供たちと遊ぶ。夕方には領地の結界を見回り、夜はルーカスと夕食を共にする。
何気ない、でもかけがえのない日々。
「セラフィナ、今日も綺麗だ」
朝、ルーカスがそう言って額にキスをしてくれる。
「もう、恥ずかしいです」
「本当のことを言っているだけです」
彼は、本当に私を大切にしてくれる。溺愛、と言ってもいいくらいに。
「今日は早く帰ってきますから、一緒に散歩しましょう」
「はい、楽しみにしています」
エルデリア王国がどうなったか、時々噂を聞く。結局、新しい結界術師を雇ったらしい。でも、もう私には関係ない。
アリシアは頑張っているそうだ。彼女なりに、国を支えようとしている。それでいい。
私の人生は、もうあの国にはない。
ここに、ルーカスと共にある。
「セラフィナ様! お花摘んできました!」
子供たちが駆け寄ってくる。
「ありがとう。綺麗ね」
「セラフィナ様、大好き!」
「私も大好きよ」
こんな些細なやり取りが、愛おしい。
夕方、ルーカスが早めに帰ってきた。
「待たせました」
「いえ、私もちょうど終わったところです」
二人で領地を散歩する。夕日が、美しい。
「幸せですか?」
ルーカスが聞いた。
「はい。とても」
「それなら良かった」
彼は私の手を握った。
「私も、幸せです。あなたがいてくれるから」
「ルーカスさん……」
「これからも、ずっと一緒にいましょう」
「はい」
私たちは、ゆっくりと歩いた。
かつて、私は「聖女」として、誰かのために生きていた。でも今は違う。
私は「セラフィナ」として、自分のために、そして愛する人のために生きている。
それが、どれほど幸せなことか。
「(私は、やっと本当の意味で『生きる』ことを知った)」
夕日の中、ルーカスと手を繋いで歩きながら、私は心から思った。
これが、私の選んだ人生。
これが、私の幸せ。
そして――これからも、ずっと続いていく、私たちの物語。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




