火星にあったコーヒーショップについて
そういうわけで、火星には一軒のコーヒーショップがあるんだ。
正確には「地球文化保存地区5号」に設置された、アメリカ中西部式のダイナーってやつで、エプロンをしたロボットがコーヒーを注ぎ続けている。誰も飲まないけど。
どうしてかって?
そりゃ、地球人がもういないからさ。
人類はだいぶ前に絶滅した。正確な年はよく知られてない。
原因? それもどうでもいいって感じになってる。疫病? 核? AIの氾濫? いや、たぶん「全部ちょっとずつ」ってのが一番近い。
だけど火星にはこのコーヒーショップだけが、きれいに、壊れずに残ってる。週に一度、ゾルゴ星系の観光客が立ち寄って、「これは文化遺産である」というありがたい音声ガイドを聴きながら、黒くて苦い液体を恐る恐る眺めて帰っていく。
「なぜこの液体を好んだのか?」
ゾルゴ人は首をひねる。彼らに味覚はない。
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ところがある日、予想外のことが起きた。
コーヒーを飲むやつが現れたんだ。
そいつは人間だった。
いや、少なくとも自分ではそう言ってた。
「俺の名前はスティーヴ・マクニール。地球で最後の人類。生き残り。趣味:珈琲」
そう名乗った彼は、まるで映画の主人公のような仕草でカウンターに腰をおろし、熱いコーヒーをすすった。
「うん、酸味が足りない」
と彼は言った。ロボットは心なしかシュンとしたように見えた。
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彼は何日もそこにいた。
日記をつけたり、壁に落書きをしたり、時々泣いたり。
「最後の人間」としては、わりと退屈そうだった。
ある日、ゾルゴの観光バスが到着した。ガイドが言った。
「こちらが絶滅種の居住跡です。飲食行動の模擬実演が行われます」
スティーヴはニヤリと笑った。
「よう、演技じゃないぞ。オレは実在するんだ。魂もある。たぶんな」
ゾルゴ人は言った。
「君のような行動は、すでにコンピュータによって最適化されている。存在の再現は完了している」
「……ああ、つまり、俺はアトラクションってわけだ」
スティーヴは笑った。カップを掲げて言った。
「じゃあ乾杯だ。人類の愚かさと、それでも続いたコーヒーの味に」
彼が飲み干すと、ゾルゴ人たちは一斉に拍手をした。空気振動による模倣行動。感情はない。
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その後、スティーヴは二度と姿を現さなかった。
ただ、店の奥に「本日のおすすめ」として、手書きの紙が残されていた。
本日のおすすめ:現実逃避の一杯。人生はクソだが、コーヒーは熱い。
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それからずっと、コーヒーショップは火星にある。
ロボットは今でも誰かの来店を待っている。
ときどき窓の外を眺めて、誰もいない赤い大地に、何かが来るのを想像している。
そしてもちろん、誰も来ない。
そういうわけで、今も火星ではコーヒーが淹れられている。
それが希望なのか、無意味なのか、それは誰にもわからない。