憧れの魔女
帝国歴、一九〇〇年。
ノースランド帝国立第一新制大学、魔術院。
ここは帝国の未来を担う若人たちが集う場所。
期待と不安を胸に門をくぐる新入生の群れの中、やたらと肩身の狭そうな少女が一人。
彼女の名はニア。なぜこれほどまでに縮こまっているかというと、彼女はこの門をくぐるに値しない、というのが一つ。もう一つは、決して目立ってはいけないという、彼女のある特殊な事情に由来していた。
別に彼女の魔術師としての能力や家柄が不足しているだとかそういった意味ではない。そもそも、帝国は生まれだけで学歴が固定化されてしまうような古いシステムは採用していない。
では、彼女が正規の手段で在籍しているのかと問われると、これもまたノーである。
——産業スパイ。
ニアは共和国から密輸された、最小単位の軍事力なのである。
今回の任務は帝国大学への潜入、およびその内情視察。
技術力で帝国に劣る共和国は、少しでもノウハウを盗み出そうと必死らしい。それこそ、ニアのような若手を駆り出すくらいには。
少々具体性に欠ける任務内容も、現在の技術格差を鑑みると無理もないだろう。なんせ、革命後も大抵の研究職は帝国に留まったのだから。
軍事力の生産工場として教育の場に目を付けたのは中々良い着眼点だが、具体的に帝国から何を学ぶべきなのか、そこまでは頭でっかちの上層部にわかるはずもない、というのがニアの私見だ。あるいは固定観念に縛られないよう、若手のニアが選出されたのかもしれない。
とはいえ、今回に限って言えばニアほど適任な諜報員もいないだろう。
どれ程優れた変装を施そうとも、天然の十八歳になれるわけではない。
その点、ニアの容姿はどんな迷彩服よりも大学に溶け込む。訓練期間、任務経験の少なさゆえにに過剰な筋肉もついていない。他の諜報員ではこうは行かないだろう。
ともかくニアは大学に派遣された。——彼女の目論み通りに。
上層部には上層部の狙いがあるように、ニアにはニアの狙いがある。それも非常に個人的な感情によるものだ。
「ローズさん、いよいよ本物に会えるんだ……!」
ローズ。名家ムストルフ家の長女であり、帝国大学で最も優れた研究者と称される才女である。
その研究分野は多岐にわたるが、特に力を入れているのはゴーレム魔術、創造魔術といったところか。
端的に言って、ニアはローズの熱心なファンである。それも相当年季入りの。
非常に不純な動機で帝国に土足で侵入したうえで、ローズとお近づきになろうとしているのである。
(でもそんなこと言ったらスパイ行為自体が不純だもんね)
謎の論理で自身を正当化する。数多の訓練を乗り越えながらも、彼女に共和国への忠義などというものはない。厳しい日々を耐え抜いたのも、いずれ帝国でローズとお会いするため。
ここ数年、ニアの原動力は全くローズに関することばかりである。
ようやくここまで来た。これからは同じ学び舎の下にいられると思うと、にやけが止まらない。
……横の男子生徒に変なものを見る目で見られてしまった。訓練生からやり直した方が良いかもしれない。
入学式初日から気が緩んでいるようではいけない。身分の偽装に不備はないはずだが、そもそも不審がられないような行動を心がけなくては。
先輩のことを考えているうちに、いつの間にか入学式は終わっていたようである。新入生らは早くも友達作りに勤しんでいるようだが、ニアにとっては全く無意味なイベントだ。
早々に大広間から退出し、研究棟へと向かう。一刻も早く先輩のご尊顔を拝見しなくては。
当たり前のように、ローズが所属しているゼミも、その研究室の位置も把握している。
一度も通ったことのない廊下だが、迷うことなく目的地へ進む。潜入にあたり、上層部から校内マップを事前に確認しておくよう通達があったのだ。まあ、ニアはそれ以前に個人的に校舎の構造を調べ上げていたのだが。
扉もどきや迷い鏡などの凶悪なトラップも時折転がっているため、毎年一定数の新入生がヘマをして先輩方の厄介になるのが恒例らしい。
研究棟を難なく踏破し、ついに辿りつく。
「創造魔術ゼミ……ここだ」
緊張でドアノブを握る手が震える。いよいよだ。すぐ目の前に、手を伸ばせば届くところに、先輩が、憧れのあの人がいる——!
「し、失礼します!」
* * *
——結論から言えば、先輩はいなかった。というか研究室はがら空きであった。
本日は入学式で授業はなし。当然上級生は休みである。そんなことにすら思い至らないとは……我ながら浮かれすぎていたようだ。
「はあ。会いたかったなあ、ローズ先輩」
「——わたしになにか御用かな?」
致し方ない。今日のところは諦めて、
「え?」
——振り返ると、そこに夜を纏った魔女がいた。
世界を従えるような、いや世界自らが従うような。そのような英雄的資質を持つ人物は史上稀に見られるが、彼女はいずれ、彼らと肩を並べる偉人になるのだろう。
宝石の如きマゼンタの瞳からは、探求者としての計り知れない好奇心が伺える。其の目には全てが見透かされているかのようで、後ろめたい所のあるニアは思わず身構えてしまった。
「ロ、ローズ先輩、ですよね?」
「うん、わたしだけど」
なんとか動揺を押し隠し、『ニア』として、帝国大学の新入生として話しかける。自分はこれから、最も敬愛する人に嘘をつかなくてはならない。それが、あなたと同じ世界に生きる、唯一の術なのだから。
込み上げる罪悪感を飲み下し、竦む体を奮い立たせる。
「初めまして、ニアって言います。ええっと、先輩のファンっていうかなんて言うか、その、一目惚れです!!!!!!!!」
今日の十字架を、ニアは生涯抱えて生きていくことになるのだが、それはまた別の機会に。
* * *
——やってしまった。
長年想いを寄せていた相手を目の前にして、気持ちが昂ってしまったのは仕方がないことかもしれない。だがこれはあまりにも、そう、あまりにもあんまりだ。
まず一目惚れのファンってなんだよ。まるでにわかみたいじゃあないか、共和国に居ながら先輩の書いた論文は全部苦労して密輸入してちゃんと全部読んでた私がまるで、いや問題はそこじゃあない今私なんて——?!
無意味で無関係な思考ばかりが迸る。人間の適応機制の一つなのかもしれないと、謎の冷静さをもって分析している自分がいた。
ローズの方を窺うと、少し其の目が見開かれているように思われた。
「……驚いたな。まさか女性に告白されるとは」
思っていたよりも低い声をしている。かわいい。
「初めまして、ニア」
そうなのだ。初めましてなのだ。彼女からすれば私は突如特攻してきた変人女。きっと突き放されちゃうだろうな……いやまずはお友達から、とかいって誤魔化してくれるかもな……そっちの方が気まずい!
「悪い気持ちはしないが、我が国では同性愛は認められていないわけだし、そもそもわたしは君のことをまだあまり知らないのだから」
返す言葉もないとはこのことである。
やはりしくじった。客観的に見て今のお気持ち表明は『初対面の、しかも同性の謎の人物から向けられる好意』に他ならない。どう考えても完全に圧倒的不審者です、本当にありがとうございました。
いいんだ、先輩の近くに居られるならそれで。陰から先輩を見守るんだ……。あれ、それっていわゆるストーカーってやつじゃない?
ネガティブな思考が脳を支配し、どんどん小さくなっていくニアに、魔女は告げる。
「だからまずは、わたしの助手から始めてもらえないだろうか?」
「——はえ?」
存在しない器官から声が出たのかと思った。
「長いこと探していてね。メイドがいるから雑用は間に合っているんだが、書類の建前上必要だとかなんだとかでね。名前を借りるだけでいいとはいえ、学派の争いに利用されるのは面倒だ。見たところまだ一年生だろう? 学派の紋章も付けていない様子だし。それにファンというのなら、研究にある程度の理解はあるはずさ」
いまだオーバーヒート中の脳を必死に回転させ、関連情報を検索し始める。
助手。帝国大学の階級においては、講師、助教に次ぐ立ち位置である。博士課程の学院生が担当することもあると聞くが、修士課程を始める前に助手になった例などあるのだろうか。
ローズという女は、文明の進展した現代においてなお「魔女」と称される高位の魔術師であり、家柄も良いどころか、ムストルフ家以上の名家など皇族以外には存在しないと言っていい。むしろなぜ、そんなご令嬢に助手が今まで付いていなかったのかが不思議なくらいだが——
「是非! 是非お願いします!」
恋する乙女の前にあって、家柄など些細な問題である。
スパイとしてはどう考えても目立ちすぎる立ち位置だとか。
正直ローズの論文の内容の六割も理解できていないことだとか。
そんなのはどうでもいい。
ただ、其の手を取れること。それだけで、十分すぎる報酬なのだから。