第14話-2/10
当の本人が居なくなってしまったことで蒼太もここに残る意味はなくなったように思えたが、彼は月姫に連絡事項もあったためイマリを追うのはあきらめることにした。
「ではうちもお暇いたします」
少し間をおいてミライも用事が済んだと、この部屋を後にする。
二人はそれを黙って見送っていたが、扉が閉まってすぐに蒼太はすかさず詫びを入れるのだった。
「えっと…なんかごめん」
月姫は来客が去ったことで、テーブルに出していたお茶をお盆に乗せ、流し台へと運んでいく。
「別に、何も迷惑なんて掛かってませんよ。それよりまだお仕事中では?」
部屋の時計を見やると正午にはまだ早い時間、時計は午前10時30分を指そうとしていたところだ。
「ううん、それは終わった。ユカさんも手伝ってくれたしスキリングもうまく使えたし」
「え?もう?まだこんな時間なのに?」
蒼太が行っているアレテイア内での仕事は以前は月姫が担っていたため、どの程度の時間を要するかは把握している。
少なくとも正午を回るぐらいが妥当な線だが、圧倒的な時間の短縮に驚かざるを得なかった。
流し台に食器を置き、それらを洗い始める月姫。
彼女の邪魔をしないように蒼太は部屋の中を少しうろついて、彼女が仕事をしていたであろうデスクの上にある書類に目をやった。
収支の関係や、仕入れ、在庫表などISKの運用には欠かせない諸々の書類が並べられていた。
パソコンで入力したものをプリントアウトして、帳簿にまとめているようだが自分が入ったことで少しでも仕事の分担が出来、休める時間が増えたかと思っていたがそうでもなかったようだ。
「うん。ホントにかぐって仕事好きなんだな」
思わず心の声が蒼太の口から洩れてしまった。
食器を洗い終えた月姫は手を拭きながら蒼太の独り言を拾い上げ、彼に問いかけた。
「好きとは言えませんが…コーヒーでも淹れましょうか?」
返事を待たずして彼女はコーヒーメーカーのある方へ歩いている。
「助かる、甘えてもいいかな」
「ええ、そこに座って待っていてください」
月姫に促されるまま先ほどまで彼女が座っていたソファへと腰を下ろした。
つい今しがた迄ミライと対談していたこの席。
彼女たちが何を話していたのか、蒼太が気になったところで、月姫が手を動かしながらぽつりと話し始めた。
「心蕾さんの話しでは、伊鞠さんが来て私にそうちゃんを彼氏にしたいからと言うつもりだったみたいです」
「そ、そうなんだ…」
当初嫉妬心を確かめるためと言っていたイマリだったがそんなことを考えていたのかと蒼太は納得する。
結局何一つ言わず帰ってしまった彼女の心の内を探る方法は蒼太は持ち合わせていない。
「でも私は『別にそうちゃんの保護者でもないですし、
それは勝手になさってください。でもそうちゃんにはISKのキャストとの交際は認めないと伝えています』と言って、
伊鞠さんは『そうたがここのスタッフ辞めればいいよねって』って言い返し
その後少し揉めることになって結局そうちゃんがここを辞めるとか言い出すらしく…」
「え?そんな話になってたの?..でも俺言いそうだな、イマリも…で?」
いわれてすぐさまその光景が頭に浮かぶ。
月姫の説明通り、三人の言動も考えもその通り展開していくだろうと想像できた。
「その場は頭を冷やして冷静になるように言って、私がそうちゃんには一週間お休みしてもらう流れになってお話は終わるはずだったそうです」
コーヒー豆を挽いている馨しい香りが部屋に漂う。
ミルのうるさい音が止んだのを見計らって蒼太は月姫に返事をしていた。
「あは、あはは…なんか想像つくね、ミライさんの予知通りになりそうな…」
「だけど心蕾さんの用件は
『うちの姉妹には男性とお付き合いさせるわけにはいかへんさかい…
蒼太はんに危害を及ぼしたくなかったら伊鞠のことは忘れて、
今後彼女には近づかないと約束させとぉくれやす』って言われて」
慣れないイントネーションを真似しながら月姫がミライの台詞を蒼太に伝える。
面識が少ない蒼太がそれを似ているかどうかは判断できるものでもないが…
「危害って…なにをされるんだか」
時折、耳なじみのない言葉をさらりと言ってのけるミライには蒼太も少し恐怖感を感じていた。
水責めだの生き埋めだの日常生活では聞く単語ではない。
「『入院?長期入院の方がええやろか?』って怖い顔をしながら心蕾さんが呟いていましたよ。
さすがに私もそれは避けたかったので心蕾さんの言うことにはいと答えるしかなく…」
そしてミライの怖さは月姫も存知しているようで、最後は消え入るような言葉になってしまう。
「それを今からそうちゃんにお願いをするのと、ISKの昔のことについて知っておいてもらいた…」
用意していたポットからお湯を移しながら月姫は話を続けていた。
が、次の瞬間彼女が滅多としないミスを犯していた。
蒼太がその場を見ていなかったが、注いでいたお湯が飛び散り、ポットを持つ手にかかると反射的にそれを落してしまい床に落ちたそれは周囲に熱湯をぶちまけてしまった。
幸いにして体全体に浴びることはなかったが、右足首周辺に避けきれなかった熱湯がかかってしまう。
「熱っ!」
「大丈夫!?」
ソファにゆったりと腰を下ろしていた蒼太も慌てて立ち上がり、彼女の救助に当たることにした。
月姫も足を冷やすために近くに置いてあったバケツを手に取り、流し台でそこに水をため始めた。
「すぐに冷やせば…」
「大丈夫か?おっちょこちょいだなぁ。俺に危害が及ぶじゃなくてかぐにとばっちりがいったか?なんてな」
バケツに水が満ちるのを待って、それを床において熱湯を浴びた部分を浸すことにする。
対処が早かった分、火傷の痕が残るようなことはないかも知れないが、思わぬアクシデントに苦笑いを浮かべながら蒼太は、出続けていた水道の水を止めるために蛇口をひねった。
「えっ!?」
普通に水道を締めたはずだった…
だが、水道のハンドルが取れ、そこから噴水のように水が噴き出し、周囲を水浸しにしていく。
「なんで!?」
蒼太も力を込めすぎたとか、勢いをつけすぎたとか、別段何かした覚えはない。
水の勢いは強く、すぐさま蒼太も抜けたハンドル部分を手で塞ごうとするが、抜けた部分からより一層水が勢いよく周囲に散布されていく。
蒼太はもちろんのごとく、その場でしゃがみこみ足を冷やしていた月姫もすでに濡れ鼠状態になっていた。
あっという間に服からは水を絞れるほどびしょびしょになってしまっている。
「な、何か止める物をっ!」
バケツのふちに掛けていた雑巾が目に入り、それを使って蒼太はハンドル部分に覆いかぶせ、水の噴出を止めることに成功する。
周囲を見配るとフックにかかっていた輪ゴムが目に入り、それを使って雑巾をハンドルに固定させ、止水することが出来た。
「ごめんなさい!」
予想外のハプニングに月姫は平謝りするしかなかった。
「とりあえず…なんとかなったか…」
彼女の髪や服から滴り落ちる水を恨めしそうに眺めながら、蒼太は月姫の容態を見守っていた。
「びしょ濡れになったな…」
散々たるありさまは蒼太や月姫だけに限らずこの部屋全体に言えることだった。
かろうじてデスクの上の書類群が濡れていないのはせめてもの救いと言えよう。
「ごめんなさい、この部屋には着替えとかないから、取りにいかないと」
かろうじて季節が夏なのは幸いしたか、それでも空調の効いている部屋でびしょ濡れ状態では体が冷え切ってしまう。
「お、俺が行ってくるよ。衣裳部屋で適当に何か持ってきたらいいよな?」
「う、うん…」
蒼太の申し出に、素直に月姫は頷いた。
エアコンのリモコンはデスクの上にあることに気づくと蒼太はそれを手に取り、停止のボタンを押す。
「大丈夫?震えてるけど…俺が服持ってくるけどそれまで濡れた服は脱いでた方が良いと思うよ」
2度、3度と停止ボタンを押すがエアコンの反応はなかった。
それもそのはず、リモコンの液晶にはデジタルの数字は表示されていない。
その理由はいたって簡単なものだ、先ほどの水の噴射で大量の水を浴び、リモコンが故障してしまっていたからだ。
「そうする…」
水浸しの服を着ていては逆に体温を奪われることを月姫も理解していたようだ。
あまり肌を魅せたがらない彼女だが、今の状況下ではそんなことも言ってられないようで蒼太に背を向け、衣服を脱ぎ始めた。
奪われた体温を取り戻そうと身体は震えて熱を発生させようとする。
震えた唇、歯がガチガチ音を立てる程彼女の体温は急激に下がっていく。
「ったく、とんでもない災難だったな。笑い話にもならないよ、なんてな」
蒼太も軽口を叩きながら彼女の脱衣姿を見ないように背を向け、入り口の扉へと向かって行った。




