ブラッドの気持ち
ブラッドは、フィーナの兄アランの前に魔術契約の書類を広げた。
自邸で会うとフィーナに知られてしまうため、旧友の魔術契約士――魔術科の卒業資格とは別に国家資格も必要な特殊職だ――の事務所にアランを呼び出していた。
魔術契約士のハリーが条文を読み上げる。
「その一、ブラッド・エイプリル――以下エイプリル伯爵――に断りなく、フィーナ・エイプリル――以下エイプリル伯爵夫人――に会うことを禁じる。その二、エイプリル伯爵に断りなくエイプリル伯爵夫人に連絡することを禁じる。その三、エイプリル伯爵夫人の心身を脅かす、またそれを引き起こすような行動を禁じる。その四、エイプリル伯爵家との関わりを口外することを禁じる。その五、それらの行為を他者を通して行うことも禁じる」
向かいのソファに座ったアランは落ち着きなく、書類の上で視線を動かす。
「上記が守られない場合は、アラン・マーチの四肢に異常が生じる罰が与えられる。また、この契約は、返済が終わった場合や、ブラッド・エイプリルとフィーナ・エイプリルが離婚した場合も、変更なく継続されるものとする」
ブラッドは、アランがまとめた縁談の融資額よりも上乗せした額を提示した。必要があれば先方にも手を回すつもりだったが、縁談先とはアランが話をつけたようだ。担保代わりか無償の労働力か、そんな意味合いの縁談だったのだろう。――それはそれで腹が立つが、片が付いたのなら良いといえる。
もとより成人した大人の婚姻が、本人の意志なく成立することはない。アランがなんと言おうとフィーナが断れば話は終わりだったが、フィーナの性格では難しかったと思う。
フィーナには結婚を条件に融資を申し出たと伝えたが、本当は、ブラッドが条件にしたのはアランがフィーナと関わらないことだった。
ブラッドとフィーナの婚姻はすでに成立している。ここでアランが条件を飲まずに融資を断っても、フィーナはエイプリル伯爵夫人のままだ。
「ご質問はありますか?」
融資額や返済条件なども読み上げ、ハリーがアランに尋ねた。
「……ありません」
ここまで拘束力の強い魔術契約など結んだことがないのだろう。アランの声は少し震えていた。
「エイプリル伯爵は?」
「問題ない」
ブラッドが鷹揚にうなずくと、ハリーはそれぞれにサインを求めた。
最後にハリーが契約の魔術陣を描く。彼が呪文を唱えると陣が光り、契約が成立した。
何かあれば王立魔術院に連絡し、伯爵家や魔術院には連絡しないようにと重ねて伝え、アランを帰した。
「君が結婚するとはね。驚いたよ。いや、まずはおめでとう、だな」
一旦片付けたテーブルに、ハリーの秘書が改めてティーカップを並べた。ハリーは先ほどまでアランが座っていた席に座り直す。
アランがいる間は他人行儀の仕事の顔だったハリーだが、今は友人の顔だ。
「ありがとう」
純粋な祝福にブラッドは笑顔を返す。
「契約の件も、感謝する」
「いや、これは仕事だからね。――滅多にない強い契約だけれど、そんなに下種な人間なのかい?」
「うーん、彼がどうこうというよりは、私がフィーナを心配しているだけだな。彼女はすでに一度、家庭の事情で進路を変えざるを得ない状況に陥ったから。今回で二度目だ」
フィーナが断れないなら、彼女のところに話が届くより前に阻止すればいい。
「なるほどね」
ハリーはメガネの奥でにやりと笑う。
「愛情ってやつかい」
「そうだね……」
ハリーの言う愛が性的なものを含むなら、少し違うかもしれない。
自邸に帰ってフィーナがいることが、とても心地よく、手放せないだけだ。――それも愛と言えるだろう。
もし彼女が望んで結婚するために伯爵家を出るなら、とても寂しく感じるが、ブラッドは送り出せたと思う。
フィーナにはいつも幸せに微笑んでいてほしい。
「一番弟子だからかな。今のところ唯一の弟子だ」
エイプリル伯爵家の使用人は、ほとんど魔術師だ。魔術師なら当主と師弟契約を結ぶ。フィーナ以外はブラッドの祖父や父の弟子だ。独立して当然の実力があるが、皆、普通の使用人のように仕え続けてくれていた。もちろん、独立している弟子も多い。ブラッドは王立魔術院の仕事もあり、指導する時間が十分に取れないため、弟子の募集をしていなかった。――今後のことを考えたら、新たに弟子を取るか、一般の使用人を雇うか、悩ましいところだ。
フィーナを招く際、職業あっせん所にも「弟子」と申請したのだが何か手違いがあったのか、フィーナはメイドとして雇用されたと思っている。彼女の勘違いに気づいたのは、師弟契約を結んでしばらく経ったあとだ。他の使用人たちもおもしろがって教えなかったらしい。勘違いを正して、弟子は嫌だと言われても困るなと思って言い出せないうちに、そのまま三年経ってしまった。
「僕の魔術陣を起動できるのは、魔術院にも数人しかいない。彼女は優秀だよ」
不本意な結婚で失っていい才能ではない。
彼女が自分の魔術陣を起動させるときの真剣な横顔。魔術の指導をしているときのキラキラとした瞳。褒めたときに返ってくる柔らかな笑顔。
フィーナを思い出して微笑みを浮かべるブラッドに、ハリーは目を瞠る。
「今度、ぜひ紹介してくれよ」
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「ミック。これをジェシカに渡してくれるか」
ジェシカの研究室が実験中になっているのを見て、ブラッドは彼女の部下のミックに声をかけた。
見ても構わないという意味で「王城の庭園で発見された遺跡調査の日程だ」と教える。
庭園の大規模工事で地下に遺跡があることがわかった。迷路状になっているらしく、騎士団と魔術院で合同調査を行うことになったのだ。魔術院は、魔術陣・呪文研究課と古代魔術研究課から人員を出す。主任以上が中心となっており、ブラッドもジェシカもメンバーだった。
「騎士団の第二班が出るんすか。よりによって」
「ああ、遺跡を発見したのが彼らだからな」
第二班の班長は魔術師嫌いで有名だった。こちらの事情も考えず、高圧的に指示を出される可能性があり、今から億劫だ。
ミックは書類を読んで少し考え、
「俺も参加していいっすか」
「ああ、頼む」
偏屈ばかりの魔術師の中で、社交性のあるミックがいてくれるのは助かる。
うなずいたブラッドに、ミックは話題を変えた。
「そういえば、課長、結婚したんすよね? お相手はどんな方なんすか?」
「そうだな……。とても相性がいい」
ブラッドが答えると、周りの連中は聞き耳を立てていたのか、ばっと振り返った。そして、ブラッドが「魔力の、な」と付け加えると、皆「なんだ魔力か」と戻って行った。魔力の相性を考慮しない魔術師はいない。
「すっかり肩こりが治ったよ」
求婚に恐縮してなかなか顔を縦に振らなかったフィーナに譲歩した結果、ブラッドは毎晩肩を揉んでもらうことになった。
彼女がブラッドを癒そうと思って触れるせいか、普通に触れるときよりも魔力の交流がスムーズで、全身が気持ちいい。
昔に旅行先で温泉に浸かったことがあるが、そのときの感覚に似ている。
「肩こりっすか。課長、ジェシカさんと同じこと言ってますよ」
ミックは朗らかに笑う。
「ジェシカさんは、そのお礼であの指輪を贈ったらしいですよ」
「うーん、礼か……」
そういえば、結婚指輪も贈っていなかった。
ブラッドは顎をさすって考え込んだ。