魔術師メイドの仕事
エイプリル伯爵邸の書斎の魔道具は、普通の魔道具とは少し違う。
普通の魔道具は呪文の詠唱なしで魔術が起動する。そのため魔術陣はたいてい見えない場所に刻まれている。魔術師以外が使うことを想定して作られていた。
伯爵邸もほとんどの場所で普通の魔道具が使われている。しかし、書斎だけは全てブラッド手製の魔道具で、呪文を詠唱しないと起動しなかった。
書斎に入ってすぐ、フィーナは姿勢を正して直立する。背の高さを気にして普段は丸めがちな背中を、このときばかりはすっと伸ばす。
「知の泉、動の場。己を見極め、世界を見つめ。全てを正しく整えよう」
歌うように節をつけて呪文を唱える。腹の奥から声が広がる。少し低い声で、床を埋めるように。
天井に描かれた魔術陣が光り、部屋中のランプが灯る。次いで、暖炉に火が入った。カートに置きっぱなしになっていた本はふわふわと浮いて本棚に勝手に戻って行く。机や窓は磨いたように光り、棚のほこりも消えたはずだ。
書斎は一つの魔術陣で、掃除から片付け、灯りや温度の調節まで行ってしまう。もちろんそれぞれ個別に起動することもできる。
ブラッドが専門にしている圧縮魔術陣が使われた魔道具を起動できるのは、伯爵邸ではフィーナだけだ。
そのため、ブラッドが使用する前に書斎を整えるのはフィーナの仕事だった。
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フィーナの実家は地方都市に店舗を構える商家だ。競争相手が少ないからそれなりに成り立っているだけで、さほど大きくはなかった。
基礎学校で魔術の才能を見出されたフィーナは、王都の専門高等学校魔術科に奨学金で進んだ。成績も悪くなく、卒業後は王立魔術院が無理でも王都の大きな魔術師事務所には勤めることができそうだと思っていた矢先、母が急病で亡くなり、ショックで父も倒れてしまった。父の状態は悪く、ほとんど寝たきり。家業もあるため兄ひとりではどうにもならず、父の看護のためにフィーナは退学することになった。
父はそれから二年後に亡くなった。
専門高等学校は年齢制限があり、在学中でも二十歳を超えると退学させられる決まりだ。父が亡くなったときに二十歳だったフィーナは、再入学が叶わない。
家業は兄が回しており、従業員もいる。居場所のないフィーナは王都に働きに出ることにした。
滞在費が尽きる前に仕事が見つかるだろうかと心配しながら、王立の職業あっせん所に初めて出向いたその場で、フィーナは「指名の仕事がある」と言われた。
「専門高等学校魔術科に所属していたフィーナ・マーチという人が来たら紹介してほしいと、登録されている仕事です」
驚くフィーナに、あっせん所の職員はそう言った。
「職場はエイプリル伯爵の屋敷です。職種は……弟子……?」
「弟子?」
書類を読み上げながら職員は首を傾げる。フィーナも疑問形で繰り返した。
「……うーん、弟子というのはメイドの書き間違いでしょう。仕事内容は、『魔道具の手入れと管理、配膳などのメイド業務も兼ねる』――とあります。魔道具の掃除や配膳は一般的なメイドの仕事ですから」
「あ、はい。メイドですね」
職員は書類をフィーナに渡し、待遇などを説明してくれた。エイプリル伯爵が王立魔術院の魔術師だと知ったのはその書類でだ。
「いかがでしょう? 仕事内容に問題がなければ紹介状を用意します」
そんなわけでフィーナはエイプリル伯爵家の職を紹介してもらうことになった。
あっせん所で調整してもらった日程でフィーナは面接に赴いた。
老年の執事に案内されて、応接間でブラッドと顔を合わせる。
「やあ、よく来てくれたね」
ブラッドは気さくな笑顔でフィーナを迎えてくれた。握手を交わすと、ふわりと温かい不思議な感触がした。フィーナは目を瞬かせたけれど、ブラッドも驚いたようだ。
「おお! よかった。君と僕は魔力の相性がいいようだ」
ブラッドは紹介状や履歴書を確認する前に、テーブルに石板を乗せた。魔術陣用の石板だ。入学時に購入したものをフィーナは今でも持っているし、魔術の練習は欠かさなかった。
「小さな風を起こす初級魔術は覚えている?」
「はい! もちろんです」
「では、やってみてくれ」
執事が石板の横に水の小皿を置いた。
魔術科で最初に習う魔術だ。小皿の水に指を浸してから、一息で石板に魔術陣を描く。そしてフィーナは姿勢を正した。
「手のひらの花びら。小さな若葉。宙に浮かべよう」
魔術陣を光が走り、扇で仰ぐ程度の微風が起こった。水で描いた陣は消える。
「うむ。いいだろう」
ブラッドはうなずき、今度は自ら魔術陣を描いた。先ほどフィーナが描いたものと同じ魔術陣だ。
「これを起動させてくれ」
フィーナは先ほどより気を使って、同じ呪文を詠唱する。
他人が描いた魔術陣を起動させるのは難しい。そう思っていたのに、逆にいつもより力を使わずに魔術が発動した。そっと支えてもらったような感じだった。
「今のは……」
「僕と君の魔力の相性がいいからだね。相乗効果が出るんだ」
ちょうどよかった、とブラッドは笑顔を浮かべた。
「僕の書斎の魔道具は、呪文の詠唱が必要でね。僕が魔術陣を描いてるんだ。うちの魔術師は皆優秀なのに、書斎の魔道具は僕しか使えなくて困っていたんだ」
脇で見ていた執事が「ブラッド様が圧縮魔術陣など使うからですよ」と苦言を呈する。そうは言っても顔は笑顔だ。受けるブラッドも「僕はそれが専門だからね」と笑う。主人と使用人の関係が良い職場のようで、フィーナは安心した。
「君ならきっと僕の魔術陣も起動できるから、書斎が任せられそうだ」
「それは……採用ということでしょうか」
フィーナは恐る恐る尋ねる。ブラッドはまだ履歴書も開いていない。
ブラッドは「その通りだ」とうなずき、
「魔術科の二学年で君が提出した論文を読んだよ。『新しい魔術文字の可能性について』――画期的だと思った。僕の研究分野にも活かせそうだし、魔道具にも応用できる」
過大な評価にフィーナは震える。
「いえ! 論文なんてものじゃなくて、あれは授業のレポートです。どうして伯爵はあれをお読みになったのですか?」
「教授に薦められたんだ。君の卒業時にはスカウトに行こうと思っていた。でもやめてしまったと聞いてね」
「……はい。家庭の事情で……」
「君の個人情報は退学時に破棄されていたし、そもそも学校は教えてくれないからね。あっせん所に手を回しておいてよかった」
フィーナは感激した。メイドとしてだけれど、期待に応えなくてはならないと決意する。
あっせん所で聞いた仕事内容について、魔道具の管理がメイド業務と別の扱いなのが疑問だったのだが、ここまでの間ですっかりフィーナの頭から抜け落ちていた。
「うちは宮廷魔術師が始祖で、代々魔術師の家なんだ。初代からの伝統で契約は紙ではなく魔術で行うんだよ」
ブラッドは石板に魔術陣を描いた。伯爵家独自の陣なのか古代魔術文字も使われており、フィーナには読み切れなかった。
「手を」
端的に促されて、フィーナはブラッドの手に自分のそれを重ねる。
「魔術でつながる縁。風にのって時を越えて届く花びら。伝えよう。つなげよう。新たな子どもを迎えよう」
初めて聞く呪文は、ブラッドの低い声で浪々と響いた。魔術陣が光ると、ブラッドに握られた手が熱を持つ。魔力が二人の間を行き来するのがわかった。風が石板から吹き抜け、窓ガラスが軽く音を立てた。風は一瞬で収まり、微かな甘い香りが残った。
ブラッドはフィーナの手をぎゅっと握り直すと、穏やかに微笑んだ。
「さあ、これで君もうちの一員だ」
――それから三年。
ブラッドの見立て通り圧縮魔術陣も少々の練習で起動できるようになったフィーナは、彼の助手のようなことも行っていた。ブラッドの研究を手伝ったり、彼が職場から持ち帰った資料を整理したり。時には意見を求められることもあった。
ブラッドはフィーナがわからないことは丁寧に教えてくれる。魔術科で習い損ねたことも、それ以上の応用魔術も、フィーナはブラッドから手ほどきを受けた。
魔力の相性が良いせいもあるのか、ブラッドの側は心地よく、このままずっとここで働くことができたらいいのに、とフィーナは願っていたのだった。
そしていつのまにか、淡い恋心も抱くようになっていた。