僕と東条くん/朝日くんと冬彦くん/東条くんと星さん
七.
光沢がある黒のCX5に二人と一つの死体は乗っていた。
東条くんは運転席に座って片手でハンドルをきりながら、器用にラジオをいじくっている。自分のスマホにブルートゥースでラジオを接続して、そこから好きなプレイリストを始めた。最初に流れてきたのは彼が先ほどヴァイオリンで演奏してくれたフライミートゥザムーン。その2008年リマスター版だ。フランク・シナトラの声が比較的クリアに聞こえつつも、もうすでに十年以上の時が容易に流れた時代では本家本元に劣らず古く聞こえる。
夜闇を切り裂くヘッドライトが山林を切り開いていく。タイヤの駆動音とシナトラの落ち着いた声が交じり合い、窓をたたく風の音ととのセッションで疲れた体を眠りの世界に誘ってくる。フロントガラスから見える景色はヘッドライトの猛烈なビームに照らされてようやく姿を見せる樹皮の毛羽立つ杉の樹木ばかり。コンクリートの車道の整備も全く行われていないから罅と苔に覆われているのが当たり前で、人工物と自然が互いに生存領域を侵食し合っている。こんな林道には照らしてくれる街灯のようなものはなく、辛うじてガードレールについた反射板だけが僕たちの北極星として道を案内してくれる。しかし、そんなガードレールには蛭や蜘蛛の巣が張っている。
シナトラ以外は誰も声を上げなかった。そんな静寂に水を差したくはなかったが、旧友との初ドライブで、しかも助手席にまで座らせてもらって無言を貫くというのは状況がどうであれいたたまれなくなってきた。
「車、運転できるんだね」
「技術的には」
僕が無粋に免許は? なんて分かり切った文句をつけるのを予期してか、東条くんは不愛想にそう答えた。
「兄山さんに車の扱いを教えてもらった。神社の東側に住んでた車の整備師さん。これも兄山さんの車、キーは失踪する前に隠し場所を教えてもらってたんだ」
「兄山さんね。冬彦くんとの話でもその名前は出たな。失踪したとは言うけど、どうして失踪したんだか」
「さぁ、それは兄山さんのみぞ知るだろう」
「君が知らないことがこの世にあるとはね」
「幾らでもある」
僕たちの間にもう一度、沈黙が走った。
シナトラの声ももう響かずアウトロの夢のようなリズムが耳の奥を掴む。
僕は東条くんが怖かった。夜のヴェールとヘッドライトの残光のコントラストの中で鋭く光る眼が怖かった。
昔から僕は東条くんの底知れない才能や利他的な教示を理解できなくて、それが怖かった。
彼とは友達だけど、時折見える月の裏面のような冷たくて見覚えのない部分が見えるたびに僕は薄ら笑うしかなかった。
今日もそうだ。ずっと笑っているしかない。どうして冬彦くんを殺してしまったのか聞くことはできない。聞いてしまったら彼の口元に隠された冷たい牙に喉笛を掻き切られてしまう確信があったからだ。
そうして僕が心の内でまごついている間に東条くんはおもむろに酔夢を語りだした。
「一度こうしてドライブがしてみたかった。昔からマシーンが駆動する姿を見るのが好きだった。でも、この村だと粘土を捏ねるようなことばかりで、精密機械なんて弄る職業もない。だから、楽器を作ってみたかったんだ。結局楽器は作れなくて絃だけができたわけだが」
意外な暴露だった。
彼がそんなメカメカしいものが好きだったなんて。だから自動車を独学で運転できるようになったのだろう。
それもまた月の裏に隠された僕の知らない部分だった。
彼はやっぱり僕にとって月のような人なのかもしれない。フライミー・トゥ・ザ・ムーンを演奏してもらったせいかもしれないが、僕はずっと彼の理知的で冷静な部分ばかり見ていて、そして何でもできてしまうような才能人であることにとても距離をどこか後ろ暗く感じていた。
でも、怯えるほどのことばかりが隠されているわけでもない気がしている。人を殺したような人であるのに。
曲がり角に差し掛かったらしく、僕の銃身は外側に引っ張られる。車体に食らいつくように僕はわき腹に力を入れた。
「どうして冬彦くんを殺したんだよ」
僕はナイフを持つようにシートベルトを両手で握りしめながら絞り出すように尋ねた。
「肩の力抜けよ。優しい運転してんだからな。だいたいそれも仕方ないことだったんだ。赤松だって納得しているし、お前がそう躍起になって腸を煮やすことじゃない。赤松の――兄の方、朝日を殺そうとしていたからその前に俺が冬彦を殺したんだ」
僕はそれを聞いた途端に、バックミラーの中に冬彦が後部座席に座っている様子を幻視した。にこりともせずに寧ろ恨めしそうな表情で僕を見ている。
お前も殺してやりたかったのに、とでも言いたげに。
「冬彦くんが、まさか、そんな」
「冬彦は兄が変わっていくのが耐えられなかったんだ。お前には分からないだろう。信じていた人の内側がやがて流れてしまって、そこに抜け殻しか残らなくなる恐怖が」
東条くんはやけに実感の籠った声でそう言った。僕と彼の間にある透明の分厚い壁をその言葉一つで簡単に可視化させられてしまった。
僕たちの間には決定的に理解できない根本の差があるが、それとも関係なく純粋に経験の差が物語っているようだった。
それでも、夢野さんの話を聞き、本音を吐露できるようになった僕に歯ほんの少しだけ東条くんの言っている意味が分かる気がした。
ある日突然家族が虫に成る、その嫌悪感。
ある日突然伴侶がセメントに成る、その無力感。
人が全く姿を変えてしまうということに僕たち村の人間はおそれを為すことはなかった。誰もが陶器や楽器、或いは人形にあつらえなおされることが当たり前でそれを夢見ていたから。だけれど、その分僕たちは他者が変容してしまうことを酷く恐れていた。形が変わらないままその中身だけがそっくり自分とは全く違う何かになっている他者が現れることを根源的に恐怖していたのだ。
冬彦くんはそんなものを僕との最初で最後の会話の中に感じていたのだろうか。
僕の嘘に隠された自分とは全く違う精神性を彼は瞬時に聞き分けていた。そして、僕と自分の兄を重ねていた。あの時に彼はピアノとともに歩み方を変えてしまった自分の兄を殺そうと画策してしまったのではないだろうか。
だとするならば、僕が――
バックミラーの中にはもう誰もいなかった。冬彦の死体はトランクに詰められている。ブルーシートなんかに包まれることなく、それこそ物として扱われていた。人の形を留めているのに、東条くんの扱いはまるでアイスボックスを運ぶかのような無機質な態度だった。
「分かるよ。自分が当たり前のように思っていた人が全く違う精神性を持って現れたらきっと驚くだろうし、とても寂しく思うんだろうなって。でも、それがまるっきり悪いかまでは分からない。うん、いや、聞いた話は散々なものばかりだし、君もこんな感じだけどさ。でも、話し合いたいよ。分かり合いたいよ。怖いからって友達からも離れたらどこに行けばいいか僕には分からないよ」
「本来人はそうあるべきだろう。人として成長し続けるべきだ。流れる流水が如く。人の関係もまたそうだろう。精神が変化する前に死んで形を整えて貰おうなんて土台、破綻した信仰基盤だった。呪いと言って差し支えない」
だんだんと坂道に入ってきた。神社が近づいてくる。あぁ、僕たちのドライブは意外にも神様が試練を与えるようなこともなく、スムーズに終わっていきそうだった。眠くなるように心配のない運転がずっと続いているのが逆に緊張を誘う。
「というわけでこの村を破壊する」
僕は思わず東条くんの方に上半身を向けて、口をあんぐりと開けた。
「は? どうしてそんな話になるんだい?」
「冬彦を殺したから俺はどうあれこの村なりの裁きを受けることになる。もう朝日のピアニストになる夢を手伝うことはできなくなる。それどころか、朝日がとばっちりを喰って兄弟もろとも窯で焼かれて灰にされるかもしれない。だったらもう村を壊した方が速いかなと」
「ねぇ、僕は死体を埋めに行こうという話だったからついてきた、もとい話を聞いていたんだよ? それがどうして村を破壊する話にまで発展するんだよ」
「もう花火を分解して作った爆弾は作ってある。それでこの村の基盤となっている望遠神社を爆破し、この村の制度を根本から破壊する」
「手際がよすぎるんじゃないの? 冬彦くんが朝日を襲ったのって偶然なんだろ? そこから手際よく花火で爆弾作ってる時間なんてどう考えても無かったはずなのに、そんなもんこの車に積んであるってことは前々からテロを計画していたってことじゃんか」
「まぁ、いずれこんな日が来てもいいように準備はしていただけ。まさか、本当に使う日が来るとは正直俺も思っていなかった。いやほんと」
東条くんはしらばっくれたように何度も頷いた。
ついでにハンドルも切って、アクセルを踏む足にも力を入れる。僕の体がぐんとシートに押さえつけられて、車の方も「まぁ、話しだけでも聞きなよ」と僕に脅迫してくる。月夜に照らされた青々とした樹海がこの後、もしかしたら飛び火によって灰の海になるかもしれないと思うとこめかみのあたりを鋭い痛みが襲った。低気圧よりもストレスの方が頭痛を起こさせやすいタイプだったかもしれない。
「村を破壊するなんて止めなよ。きっと星さんだって君のことを心配するに違いない。こんな村でも僕たち仲良く遊んできたじゃないか。僕と真昼、赤松くんと星さんが君の傍にいるよ。夏美ちゃんだってさ。だからまだ一緒にいようじゃないか、この村にいてくれよ。そのためなら僕も冬彦くんのことはなかったことにするからさ」
車中はタイヤとコンクリートが摩耗し合う鈍い振動音が響き渡っていた。僕は身振り手振りを混ぜ合わせて話すから体の軸が右に左に揺れる。東条くんは全くぶれない。背もたれに体を全部預けて、ハンドルを握る手は力を籠めすぎずちょうどいい塩梅をしている。
いきなり街灯があるレーンに出た。
彼の顔から陰りが消える。
あぁ、僕が恐ろしかったのはその曇りない表情だ。
それから東条くんは片手間に車内ラジオから流れてきていたフランク・シナトラを止めた。
「星は死んだ」
彼の低い声がこめかみのあたりを銃弾のように飛んでいった。耳にキーンという金属を引き延ばしたような音がし、その間何もかもが遠くに行ってしまうような状態が続いた。自分だけが宇宙に放り出されたみたいな。
瞬間、小学生のときの記憶が映画のフィルムのようにずらーっと流れていく。僕や真昼よりも東条くんと一緒にいた彼女。彼女と彼がずっと幸せそうにしているのを傍で茶化していた僕ら。その風景がセピア色になり、やがてモノクロになって動かなくなった。
僕は自分の頬を一度張った。
「なぜ、彼女まで……なんでそんな嬉しそうにしてるんだ」
星は死んだ。
その言葉が僕の中にあった大切なものをいともたやすく、そして致命的に破壊した。
しかしながら弓を引いた男は弔意を見せることもなく、前を向いて口角を上げている。それは最後に見た夢野さんの表情とすこしだけ似ているような気もしたが、しかし確実に充足した者の匂いを発していた。
悲愴とともに歩むことを選んだ人間の顔だった。
「彼女は俺を選んでくれたんだ。俺の絃になることを選んでくれたんだ」
恍惚とした声音で揺蕩うようにそう言った。
フロントガラスにまるで星さんがいるみたいに彼は食い入るように上体を起こした。
「選んでくれた?」
「あぁ、彼女は去年の冬ごろからもう彼女じゃなくなってたんだ。水仙を飾るようなか細い首をした白磁の花瓶に成りたいと零していた。陶芸家の真宮寺を家に招いて、死ぬ前と後の手引きを受けてすらいた。俺のことなんて忘れて、もう思うがままに後は死ぬだけだったのに。彼女は呪いに抗って、俺を愛してくれたんだ」
熱病に侵された病人のように東条くんはうわごとを零していた。その話がどこまで本当かは分からないけど、話しによればこういうことだった。
二人はやはりいつかのタイミングで交際し、そして今に至るまで円満に過ごしていたのだ。東条君の告白に、星さんがさりげなくあの懐かしい奥ゆかし気な返答方法で答えていた。
しかし、時は過ぎ幾億の思い出が星をちりばめた天の川銀河のように堆積しても、この村の呪いは外宇宙的な神秘を含んでいるのか二人の間に暗雲を掛けていく。
まるで思い出なんて存在しなかったように、ある日突然星さんは彼を突き放すように成りついにこのようなことを口走ったという。
「ごめんなさい。私もう壊れてしまいました。あなたのことが分からないんです。あなたと真昼くん、赤松くん、みんな確かに違っていますのに、一度目を離したら今まで話していたのが誰だったのか分からなくなってしまうんです。だから、多分私壊れてしまったんです。頭に穴が開いてしまったんです。だからもうこの形ではいられません。聞いてくださいますか? あなたは……私の愛した方でしょう? 私花瓶になります。毎夜夢見た白磁の花瓶になってみせます。だから、さようなら。一時の別れですが、気を悪くなさらないで。どうか、お幸せに……」
去年の冬ごろまで保っていた正気は春の芽吹きとともに押し流されて、星さんは完全に人の顔も形も見分けられなくなっていた。彼女が愛した東条くんが一体『どれ』なのか分からなくなっていた。
それでも、最後にそうやって告げたらしい。
僕たちが遊んだ夕暮れの望遠神社で。
「ねぇ、でも、最後に階段を一緒に降りていただけますか?」
小さなつぼみのような手を彼に預けてあの階段を彼女は小さく小さく降りていく。その一歩が進むたびにつぼみを隠していた花弁がぽとりと落ちていく。東条君と星さんの積み上げてきた星々の体積が宇宙の波にさらわれるように、どんどんと失われていった。
けれども、階段の中腹あたりで星さんは唐突に足を滑らせた。咄嗟の反射神経で東条君は星さんの細く雪の結晶のような手を掴むことができたが、星さんの体に引きずられていく。何分足元が悪かった。
「大丈夫か!?」
望遠神社の階段は余りにも急で降りるときは細心の注意を払っていなければならない。その時の星さんだって全てがふわふわしていたわけではなかった。むしろその時だけが一番正気を保っていたと言っても過言ではない。
「はやく、脚に力を入れて、立ち上がるんだっ!」
「……ねぇ、手を放してくださる」
「何を言ってるんだ、こんなときに!」
「アナタが手を放してくれたら、私は花瓶になんてならずに済むんです」
「何を、行っているんだ……」
「あなたのことを好きなまま死にたいんです。私、東条くんのことが好きなまま死にたいんです。だから、手を放して。このまま死なせて」
東条くんはギリギリまで手を離さなかった。
夕日が沈むときまで離しはしなかった。
でも、夜が来て、星さんが笑って、後は夜の波にのまれるように、手と手が宙を舞って、彼女がダルマのように転がって、死が訪れた。
「俺は彼女を花瓶にしてやることはしなかった。彼女は最後に呪いに抗ったんだ。彼女の成るべき姿を俺にゆだねてくれた。だから、俺もそうしたのさ。彼女の腸を引きずり出して、炭酸カルシウムをまぶしたり石灰で洗ったりして、ガットを作ったんだ。いい音色だっただろう?」
僕は黙ったまま頷いた。
因習に塗れた村だろうと、北極星は高く北を指していた。
さぁ、かの神社だ。