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僕と東条くん


六.


 気がついたころにはもう誰もいなくなっていた。

 舞台上にも、客席にも、もう誰も人はいない。

 夢野さんも夢の如く消えてしまった。

 真昼や夏美ちゃん、冬彦くんももう先に帰ってしまっただろうか。

 僕は肩を回した後に、大きく伸びをした。


「随分と熟睡してたな。このまま起きてこないかと思ったのに」


 僕が頭をのけぞらせると逆さまの視界の中、東条くんが立っていた。

 肩が内向きに巻くことなく水平に伸びていて、背筋もピンと糸でつられているかのように伸びている。その立ち姿は幼少期から見ていて心地良いものがあったが、思春期に入ってから男性的な特徴が突出していくとともに更に女好きしそうな躯体になっていった。今では老いも若いも女性が皆東条くんが通り過ぎた後を振り返らないことはない。しかし、遊びなれた感じはせず依然として狩人のようである。犬ならばドーベルマンが近い気がする。

 そんな彼に少し責められるような視線を投げかけられると身が縮こまった。


「月の光が思いのほか気持ちよくて」

「そうか。月の光を始まりの曲にしたのは赤松の希望だったけれど、こうなるならやっぱり最初は違う曲の方が良かったかもしれない」

「いやいや、悪かったよ。でも、これは赤松くんと他の演奏者たちのための発表会でしょ。だったら彼らの意志の通りにやる方が価値あることだと思うよ」

「熟睡していた分際でよくもまぁ」

「悪かったって。それよりどうして東条くんは残っているの? 撤収の準備?」

「それはおおかた終わった。後は眠っている観客を起こすだけだった。どうせなら、俺の演奏も聞いてもらおうと思って」


 東条くんが演奏を?

 ピアノが弾けそうな風格はあるし、赤松くんの友人なら彼から手法を教えてもらってても不思議ではないけれど、僕の中では東条くんはピアノを弾くような人じゃなかった。赤松くんがピアノ一筋という完成した性格をしている一方で、東条くんは一貫した趣味趣向のようなものがあるとは感じなかったからだ。

 彼の澄ました顔とキレのいい狩人のような目は威圧的だけれど、真昼のような問題児ともちゃんと交流を図ってくれる社交家の一面もある。社交家で、かつ人の援助に徹するような人だ。だから今回の発表会のセッティングにも彼が関わっている。彼は手伝ってほしい人のために働く人で、指先を大事にするようなピアノをするような人物ではなかった。もっと言えば、赤松くんが趣味人であるのに対して東条くんは仕事人だった。その対称性が二人を互いに補い合い、互いに心地よい距離感を保てる由縁なのかもしれない。

 彼は颯爽と階段を降りていくと壇上に登り、楽器ケースの中から一本のヴァイオリンを取り出した。


「ヴァイオリン弾けるんだ……」

「え? 何だって?」

「ヴァイオリン! 弾けたんだね!」


 東条くんは僕が声を張ったのを滑稽に思ったのか口角を上げて、答えた。


「弾けるように練習したんだ。この世に二つとない素敵なガットを作ったから、それにふさわしい曲が弾けるようにね」

「何を奏でるの?」

「フライミー・トゥ・ザ・ムーン。フランク・シナトラ」

「ヴァイオリン向きの曲じゃないんじゃないの? よく知らないけれど」

「確かにな。じゃあ、代案あるか?」

「木星とか」

「弾いたことがない。そもそも一曲しか覚えてないからな」

「なんで代案出させたかなぁ」

「今度弾いてやろうと思って」


 彼は悪戯げに笑った。

 東条くんがこんなにも肩の荷を下ろして笑っているのを見ると今日の演奏会が成功したのがよほどうれしかったように見える。まぁ、赤松くんとの仲だ。彼の成功を自分のことのように喜んでいるのだろう。


「俺は言葉の響きが好きなんだ。昔聞いたときは歌詞を理解できなかったけど、それでもシナトラが情熱的に言うin other wordsは意味も分からず口ずさんだ。きっとこのガットにもよく馴染む」


 彼はそう言って弓を取った。コンサートの終わり。誰もいなくなったこの広すぎる会場で彼がゆっくりとガットに弓を乗せる。絃の白さが遠くから見てもよくわかる。彼はガットを自分で作ったんだと言ったんだっけ。ヴァイオリンの絃の素材は馬の尻尾の毛を使っているんだっけ。いや、それは弓の方だ。

 彼が子供をあやすような緩慢とした動きに、呼吸と腕の筋肉の収縮、膨張を合わせて一体化したリズムを含ませると、人の作った音の中で最も清い音が細く長く垂れこめる。まるで一往復絃を擦るたびに金の絹を生み出しているかのようだ。

 僕は洋楽を聞いたことが無かった。フライミートゥザムーンもよく知らない。

 私を月まで連れていって。そんな言葉を掛けるような相手がいるとしたらどんな人だろう。

ヴァイオリンは悲しみを拭うゆったりとした曲調を誇張する。石橋の上から夜の小川を二人で見ている。染みる寒さの空風が吹いて、二人は身を寄せ合う。雨なんかもぽつぽつと降ってきたら二人は傘の下一つの世界にくるまれる。街灯の光が川の水面に反射して、キラキラと揺蕩い、雨が予想もつかないリズムを生んで更に煌めきをおもしろおかしく砕き散らせる。その中にひときわ大きな月の朧が霧に紛れて現れる。そして、隣にいる彼女が言うんだ。くすりと笑って「私をあの月まで連れていって」雨音の中、誰にも聞こえないように孤立した橋の上で。

 そんな情景を夢想した。そこにいるのは東条くんと星さんだ。彼らがピッタリなんだ。あぁ、そういえば今日は星さんの顔を見なかった。赤松くんの旧知であればみんな今日の発表会には来るだろうに。体調を崩していなければいいのだけれど。

 僕は見えざる月と演奏者たちの行く末を夢見つつ、彼の弓さばきに見惚れ、曲の耳心地の良さに聞き惚れた。


「どうだった?」

「最高だよ。星さんも聴いていればきっと一番のファンになっただろう」


 彼の顔に陰りが浮かび、そして綻んだ。

 僕に一礼をした後に「なぁ、神社に久しぶりにいかないか?」と言った。

 時刻はもう月が出始めているころだろう。

 男女がどこかの夜空を見上げて、或いは水面の月を見下ろして fly me to the moonと愛を呟いているかもしれない。僕は了承した。そして、夜の遅くを共に出歩ける友人がいることに感謝した。


「良かった。手伝ってほしかったことがあったんだ」

「手伝ってほしかったこと? なんでもできる君が僕なんかに手伝いを所望するなんて珍しいね」

「友達だろ?」

「もちろん。君が望む限り」

「ありがとう」


 東条くんはヴァイオリンケースを肩にかけて、客席まで登ってきた。それから僕の後ろの席に回り込んだ。なんだか言いようもない緊張感が走ったあと、いつも通りの口調で彼はこういった。


「死体を埋めるのを手伝ってほしい」


 僕の席の後ろには、赤松冬彦くんの絞殺死体が通路に横たわっていた。





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