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僕と夢野さん/夢野さんと夏子さん

四.


 コンサートホールの座席というのは総じてワインレッドで、フカフカであることが義務付けられている。

 僕は映画館などにもあるこのような席が好きだった。だけれども、緊張感は止まなかった。身体の調律がどこか噛み合わず弾けた音を立てることができない。ドレミファソラシドの秩序立った音階が今、僕の体の中で腐りながら傾いた廃屋のように死にかけていた。

落ち着きを図るために足を組んだり、腕を組んだりしてしまう。

 僕の右隣にはかつて真宮寺の娘が連れていた余所者の男が座っていたのだ。

 首を落として文庫本を集中して読んでいる。完全に一人の世界を紙面上と視点の間に強固に作り上げていた。

 横顔を見ると少しやつれている風であったが、おおむねあの時望遠神社でみたときと全く変わっていないようだった。しかし、僕が肉体的に変わっていったように、きっとこの人は精神的に変わっていったに違いない。夏子さんのことは折り合いがついているだろうか。きっと僕たちの村は余所者には恐ろしい場所に映っているに違い。しかし、そうであるならば、どうしてこの男はここにいるのだろうか。それはこの村に滞在しているのはなぜかという意味でもあるし、このコンサートホールにいるのもなぜかという意味でもある。僕はこの男の存在がむず痒くまた地面以外からの引力を感じるように、鳥肌が立つようであるから、いてもたってもいられない。話しかけるべきか。どうか。

 左目でちらりとみやるがやっぱり男は文字の世界を神のように見下ろしていた。神という者がいるならばきっと僕たちは文字のような存在なのだろうな、と思った。


「楽しみですね。コンサート」


 僕は思い切って話しかけてみた。

 文庫本に築かれた文字の国は視点を失ったから、一瞬にして蜃気楼のように煙となって消え失せた。

 男は驚いた様子でもなく、若者から声を掛けられたことを不思議に思いつつも、普通に話し出した。


「えぇ、楽しみです。村の一大イベントだと、知り合いから聞いたので」


 男は高校生相手にも物腰柔らかく、丁寧な態度を自然と出してきた。

 知り合い――真宮寺の娘のことだろうか?

 やっぱり数年前のあの情景がフラッシュバックする。幽玄に富んだ望遠神社の急で苔むした階段と神木周りに置かれた無数の骨壺。役目を失って横倒しにされた墓石たちの墓場。そのすべやかな表面を滑空する夕景の太陽。彼が割った夏美の壺。

 すべてがあの夕焼けに結び付く。太陽だけが変わらず描くあの世界。あのときに見かけた今生再び会うこともなかったはずの人が自分の隣に座っている。もし今を逃したらこの人物が何者なのか、彼と壺の間に何があったのかを知る機会は今度こそ永遠に失われるだろう。

 だから、やはり、僕は聞かねばならないと思った。言うと決めた。


「僕、昔あなたを見たことがあるんです」

「昔に? どこでだろうか……私は君に覚えがなくて」

「あなたは昔、望遠神社であなたの大切な人の壺を割っていましたよね」


 青年はそのときやつれた顔がよりやつれた気がした。大きく驚いて、まるであのときの境内に歩んでいた頃に戻ったようだった。彼の精神も僕の精神も望遠神社の中にひきこまれたのだ。

 彼は数秒、逡巡して、それからあの時みせなかったはずの僕の姿を思い描いたらしい。見られていたのか、となすすべもなく悲しそうに笑って見せた。


「こんなこと本当は聞くべきじゃないって思ったんですけど、どうしてもこうして隣り合って座ったことに意味があると思ってしまって」

「そう、か。見られていたんだ。いや、良かった。あれをした時誰かに見られている気がしていたんだ。それが夏子か、神様か、ずっと怖かったんだ。君が見ていてくれたんだね」


 男はとても安心したように息を吐いた。


「私は夢野新祐。あの頃は大学生をしたいたけれど、今は真宮寺さんのところで陶芸の訓練生をしているんだ。今日も彼女の勧めでここに来てね」


 夢野さんの声音は木綿のスカーフのように風になびく優しい声をしていた。しかし、そこに宿る生命力は撓んでいて、張りがない。

 真宮寺家が余所者を受け入れてしかもそれを陶芸の弟子として取るというのは驚きであった。陶芸はこの村の埋葬文化の根源部分に絡み合った表裏一体の技術。他の地域でやられている民芸品としての陶芸とは一線を画すいわば宗教的行為の一つであってそれを余所者に教えているというのは一つセンセーショナルな事実である。しかし、僕は話を進めてもらうためにあえてそのことには触れずに流した。

 そこからは夢野さんと壺に成り果てた夏子さんとのことを教えてもらった。僕が思っていたように夢野さんと夏子さんは恋人同士であったのだという。夏子さんのことを語る夢野さんの口調は優しさもありつつ、幾分か活気に満ちていた。スノードームの煌めく雪が舞うさまにうっとりしながら見つめているように、彼は夏子さんのことを話す時とても幸せそうで、それでいて努めて隠すようにとても悲しそうだった。

 夢野さんが夏子さんに出会ったのはこの村からは地方を一つ越えた先にある大都市の大学であったという。学科は違えど同じ学部に所属していた二人は同じ授業を偶に受けることで顔見知りになり、カヤックサークルで一緒になった。そのサークルでは男女ペアで一つのカヤックに乗って海や川で遊ぶのが定番で二人は顔見知りだからということで最初にペアを作った。意外にも誘ったのは夢野さんからだったそうだ。その時の夏子さんの印象はどことなく朧げで、遠く水平線の果てを見据えているようだったという。ただそんな風に儚げに見えたのは後にも先にもあのときだけだったとも。夢野さんが後部席でパドルで漕ぎ進めるエンジンの役割をし、夏子さんが操舵手として荒波も河川の急流も巧みにさばいていった。彼女には自然の中にあるるつぼのような流れを汲み取る能力に長けていたのだ。大自然を駆る小さな船の風雅な船長だ。

 一人乗りのカヤックに乗り込んでチームに分かれ、海上のゴールにボールを入れ合うカヌーポロでは夏子さんのパドルはペンギンのヒレのように縦横無尽に水を裂き、時にシャチのように水を相手に掛けたりもする悪戯なラフプレーもしたりしていた。男も女もみんな夏子さんのパドルとカヤックの動かし方には一目置いていた。どうしてか夏子さんは夢野さんと一セットで考えられていた節があったらしく、それらしい色恋沙汰に二人が他の人と発展することはなく、寧ろ既に夢野さんと付き合っていると思われていたぐらいだったそうだ。

 そう周りに噂されて夏子さんはまんざらでもなかったらしく、夢野さんに船上で愛を囁いたという。他のカヤックたちが遠くに小さく見えるほどの遠洋で、波に揺られ、太陽の影と水面の煌めきに重なって。


「私、夢野くんといると生きててよかったと思えたの。ねぇ、だからこれからしばらく一緒にいてくれないかしら。私の欠けた部分を補ってくれないかしら」


 夢野さんは心細げにそう言ったんだという。普段の彼女は夏の海の化身で、海の全てが彼女の味方になっているのに、その告白ばかりは波の音が攫おうと躍起になっていたし、今にもカヤックをひっくり返そうとするような波もあった。それでも、夢野さんはそれを了承した。心から嬉しく思ったそうだ。


「良かった。断られたらこのままあなたを海に突き落とすところだったわ」


 その時波よりも海の深淵の青さに夢野さんは震えたらしい。

 端的に言えば彼らは愛し合っていた。夢野さんもこれまでの人生をどこか自らの役割を見出せず不完全で空虚なものだと思っていたし、夏子さんもまた自らが言うところの欠けた部分に気持ちを落としていたが、夢野さんをあてがって孤独を埋め幸福を手に入れたのだ。

二人はお互いに欠けた部分を補え合える存在だった。穴の開いた船をパテやダクトテープで直すみたいに、それは完全への回帰ではないけれども、不完全が新しい形を得るのには良い解だった。

 夏子さんはビールを飲むと直ぐにへべれけになってしまうタイプの人で、夢野さんはよく介抱したという。いつも明るく、元気な彼女が酔うと言葉の周りが遅くなっていつもカヤックで下る激流の川から清流のような穏健な性格に変わるのを他のサークルメンバーたちは面白がっていた。それでも、夏子さんが本音を漏らすのは決まって夢野さんに家まで連れ帰られているときだった。夢野さんが最後に彼女の言葉を聞いたのもそんな宵深い寂しき夜の端でのことだった。


「私は欠けているの」

「欠けている?」

「船に穴が開いているのが私って話、前にしたでしょ?」

「あぁ、私をコルク栓に例えてその穴に嵌めて沈むのを食い止めてるって言ったやつ」

「そう。新祐くんは小回りが利くってこと。私のこと後ろから見てるから船の扱いだって上手くなってきてるし……」

「お褒めの言葉は要らないよ。私の話じゃないだろう」

「あー……私は、生まれた時から心のうちで思ってたの。これは私なんかじゃない。こんな姿嫌だって」

「夏子の姿は、綺麗だよ」

「そういうんじゃないの。もっと、こう自分は男性で生まれるべきだったのに、みたいな。生まれてくる体を間違えたみたいな感覚よ」

「生まれてくる体を間違えた……君がトランスジェンダーやレズビアン、場合によっては神や鬼の類であっても君のことを急に嫌いになって離れていったりしないよ。君が言いたいのはもっと別のことなんだろうけど、つまり、私は変わらず君のことを愛している」

「私もよ。私もあなたのことを愛している。例え形がどんなに変わろうとも。でもね、どうしても最近この違和感が消えないの。もしかしたら私はいつか壊れてしまうんじゃないかって怖いの。あなたのことが愛せなくなってしまう日が来るんじゃないかって。そんなの私って言えるかしら」

「悪い夢だよ。夏子、それは君が派手に酔っぱらってるせいで見ている虚無を纏った空論でしかないさ。明日になってみればそんなの万が一の可能性すらないって気づいて君はまたカヤックに乗るんだ。その瞳で波を見て、パドル一本で船を調教して、飛沫を上げる。僕が後ろで君を支えるよ。どこまで遠くに行こうか」

「ねぇ、あなたは私が夏子じゃなくなっても愛してくれる? あなたにとって私ってどこまで私なのかしら。この肉体? この心? 愛? それとも」

「君は君だよ。君を何かに切り分けて考えるなんて私にはできない。今僕の背に乗って体温が上がっていて、手に豆ができているのが君の形だよ」

「あなたも熱いわ。ねぇ、家に帰ったら私に歯磨きをさせてね。それからキスをして。こんな悪い夢の末尾に光が差すみたいに」

「約束するよ。朝には二日酔いのためにシジミの味噌汁も作るから、今日はおやすみ」


 それが二人の最後の会話となった。

 夢野さんが起きた頃には、まるで波にさらわれてしまったように忽然と夏子さんは消えてしまった。カヤックで彼女が波にさらわれることなんて全くなかったのに、夢野さんは簡単に思い浮かべることができた。振り返りもせずに浜辺から海の方に歩んでいってしまう夏子さんの姿を。

 サークルのメンバーも彼女の大学友達もあたって捜索を試みたが、足取りは全く掴めなかった。これが彼女の言っていた「壊れてしまう」なのだろう。いつかは昨日だったのだ。夢野さんは彼女を探しに出かけた。サークルで周った河川も、海もひたすらに彼女の残り香を探しに行った。彼は記憶力が良いらしく、彼女との思い出は一つ余さず事細かに覚えているんだと、そんな執念深さをもってとうとう夢野さんはとあることを思い出す。それは夏子さんの故郷、そう、僕たちの村、岩楠村のことだった。後はとんとん拍子で村まで行くと、真宮寺の娘が第一村人として現れ彼女の居場所に心当たりがあると言い、後は全てあの日見た通りのことが起こった。そして、それから夢野さんは一度都会に戻って文芸誌を扱う出版社に就職したそうだが、なんだかその有様か生き様にとても違和感を覚えた。何万文字もの膨大な記事を描くたびにその筆先に彼女への思いがこびりつきそうで、時折その雑誌のテーマにないことまで書いてしまいそうになるときがあったという。パソコンに両手を置いて、静かな空間で文字をうち始めると脳裏にあの海が、あの急流が、カヤックがぽつりと浮かんでいるのだ。流されて座礁し、操舵手を失ったカヤックがパドルをしまったまま波に下半身を浸している。その幻影を見るたびに手が止まって仕事にならなかった。どうして、という言葉が頭の中で渦巻いていて、それが悲しみと困惑と怒りと坩堝に混ざるようにかわるがわる声音を変えてハウリングする。そのたびに文章が乱れた。まるで彼女への忘れられない思いがインクとなって滲み出ているかのようだったという。

 夢野さんは結局三年前再びこの村に来た。秘境の河川を紹介するというページを任された夢野さんは真っ先岩楠村へと向かう衝動に駆られた。河川の特集だというのに、秘境という言葉がまるでこの村を指しているように思えたそうだ。河川よりもあの壺の、幽玄に富みし望遠神社に再びいかねばならないという使命感、それが夢野さんを突き動かしたが、またしても村に着いて最初にあったのは真宮寺の娘だったという。


「お久しぶりですね。夢野さん、待っていましたよ」

「あの時はお世話になりました、真宮寺さん。それにしても、待っていたとは? まさか私は壺にはなりませんよ」

「えぇ、知ってますよ。あなたはこの村の人間じゃありませんから。それがあなたと夏子さんの違いであり、それゆえに二人が補い合えた理由でしょう」

「今日は河川の取材で来ただけです。私ももう大学生じゃない。今は雑誌を書くライターですよ」

「河川なんてこの村じゃなくてもいいじゃありませんか。私に嘘を吐いたって無駄なんですよ。私は人の本当の形が見えているんです。だから、陶芸を任されているんですもの」

「嘘なんて」

「ねぇ、それならあなたに陶芸をお教えします」

「私に、陶芸を?」

「ただの陶芸じゃありませんよ。岩楠の陶芸です。もし習得すれば、あなたの手で夏子さんの形を作り直せますよ」

「夏子の形を作り直す。そんなことしたところで。それに、夏子もそんなこと望んでいはしないでしょう」

「いえ、そちらの方が夏子さんも喜ばれるはずです。夢野さんに形を完成させてもらった方がよっぽどいい。岩楠の陶芸は元々神の骨壺を作って弔うために始まりました。夏子さんにとってあなたは神だったでしょう」

「違うんですよ。私にとって夏子が神だった」

「夏子さんにとっても夢野さんが神だった。あなたは夏子さんを完全な形にする資格がある」

「完全な形っていったい何なんですか。夏子は夏子だ。私には、あのとき彼女を壊した私に何の資格があるというんだ。何が彼女をああまでして……」

「……呪いですよ。最初にあったときに言いませんでしたっけ。えぇ、陶芸とは呪いを取り去ってもらうことなのですよ。不具の子の呪いを」

「呪いなんてあるわけがない。そんなの迷信だ! 夏子は迷信に殺されたんです! だいたい呪いだっていうなら、夏子はどうして呪われなくちゃいけないんですか。あんなに心優しい人が、神に呪われる道理があってたまるか!」

「まぁ、すごい剣幕。そんなに知りたいのならやはり教えてあげましょう。この村の、蛭子の呪いを。だから、私と一緒に来なさい。岩楠の陶芸家の弟子に成りなさい」


 そうして夢野さんはこの村に根づく不具の呪いを知るために、真宮寺に弟子入りを果たしたのだという。それが三年前のことだったのだと。小さな村ではないが、それでも僕たちは三年間もの間お互いの姿も影も見たことはなかった。もしかしたら夢野さんの方はどこかで僕のことを見ていたかもしれないが、やはり気づくことはない。

 これはめぐりあわせなのだろうか。夢野さんには夏子さんがいた。僕にとってその位置にいる人は夏美ちゃんなのだろうか。夏子と夏美。二つの夏。どちらの夏も熱気があり、祝祭の花として咲いていて、人が蜜蜂のように集まっていく。そして、夢野さんも僕もその中にたまたまいた一匹でしかない。そんなリンクがあるせいで僕はずっと夢野さんを自分に重ねてしまうのだ。もし、いつか夏美ちゃんがどうしようもなく欠けてしまっていると感じてしまったとき、僕は彼女のその不完全さを埋めてあげることはできるだろうか。僕はあの時から全く変わっていない。雨の降る日にビニール傘を差し出して隣を歩いていたあの頃は、まだ世界は真球で夏美ちゃんも完璧だった。やがてその完璧が崩れたとき、僕は傘よりも大きなものを差し出せるだろうか。


「世界っていうのは本当に恐ろしい。私たちは未知に常に触れ合っている。いつも親しくしていた人の中に信じられない理があったとき、私たちは初めてその人のことを何も知らなかったんだと知るんだ。それはその人の秘密であり、世界の秘密でもあるんだ。ねぇ、君、君には秘密はあるかい? 私はここに来る前とは比べられないほど秘密を知ってしまったんだ。世界の未知を未知のままただ存在を知っていること、その存在理由を知らないこと、誰に向かって解き明かすこともないことというのは酷く恐怖を感じるものだよ。夜の砂漠を一人で歩み、その間に幾つもの猛獣の光る餓えた眼に晒されているような気分さ。だから、今日君に話せてよかったと思う。君があの時私が夏子を割るところを見ていてくれてよかったと思う。いずれ私も壺になるよ。真宮寺さんは私の壺のセンスを認めてくれているけど、私にはこの埋葬文化を理解できていない。しかしながら、不理解のままだけれど、私は夏子と同じに成りたくなってしまったんだ。あの時割った夏子の壺に私の遺灰を混ぜ込んで、今度こそ彼女の傍にいたいと衝動的に思ってしまったんだ。あぁ、今なら彼女の気持ちが分かるよ。そこに自由な意志なんて介在していない、これがただの衝動であることが分かる。死が二人を別つことすらできないような合一に憧れてしまうんだ」


 夢野さんは夢うつつにそう言った。あんまりにも座りこんだ座席のクッションがふわふわでリラックスしすぎたんだ。彼は頭の中に閉じ込めていた秘密も、不安も、犯されてしまった理性でなお抑え込んでいた狂気も、全て表に出してしまった。

 その表情は恍惚としていた。絶望した人間がすべてに諦めをつけて自暴自棄の幸福を得たような最後の瞬間の希望。その眼には夏子さんの姿が映っている。天界で完全な姿となって舞う夏子さんが夢野さんに微笑みかけている。今はこのコンサートホールの宙に浮かんでいるのだろう。天使のような羽を広げて、スポットライトを浴び、しんしんと降ってくる埃を白羽に変えて、本当に神聖な光を放っているんだ。少なくとも夢野さんはその姿を見ていたし、僕もその思いを通して想像していた。

ふいに天使の姿の夏子さんが僕の視界の中にも一瞬フラッシュを焚くように映る。その姿はまさしく神々しい。しかし、顔は見たことが無かったのに鮮明なイメージとしてくっきりと見えた。あの眼の色を、鼻筋を、整った精悍な眉毛の感じを僕は知っている。

 天使は夏子さんであり、夏美ちゃんだった。

 その微笑みに僕も笑顔が引きつる。


「僕にも秘密はありますよ」

「それは、聞いてもいいのかな」

「えぇ」


 僕はその時あらゆるしがらみから解き放たれていた。ただ目の前に映る仮初の姿と偽りのテーゼを抱えた天使にほぼ演技に没頭するように告解した。そこからは欲求や、衝動や、その他あらゆる外因性のものは省かれていた。聞こえてくるブザー音が僕の言葉を邪魔することはない。真球の脳の中で発された真に嘘のない言葉だった。全てが虚妄と幻と嘘と欺瞞と逃避と微睡みでできたこのホールの中でこの言葉だけが人生でただ一つ吐いた最も自己の真実に近い言葉だった。


「僕は子供のころから鐘に成りたいと常々公言してきました。みんな色んな鐘を思い浮かべます。除夜の鐘、夕方に鳴らす鐘、教会の鐘。夢野さんは鐘と言えばどんな鐘を思い浮かべますか?」

「鐘か……そういえば、船にも鐘があったな。サークルで船の博物館に行ったことがあったんだ。そこで沈没船から引き揚げられた緑青の鐘を見たよ。船鐘というんだ。船鐘を八回鳴らす。それは死んだ船乗りを弔う合図さ」

「船鐘、弔いの鐘。夢野さんは鳴らしましたか」

「鳴らしてはいないな。心の中でも、弔ていない。私はあのカヤックの上でまだ彼女のことを夢見ているよ……君は立派な鐘になるといいよ。弔いの鐘でなくても、自ら鳴って大切な人に存在を知らせる鐘になるといい」


 夢野さんは心の底から鼓舞してくれた。

 だからこそ、僕は一瞬、本当のことを言うのを躊躇いそうになるかと思った。しかし、意志は全く揺らがなかった。もはやその告解は決まり事だったのだ。躊躇いなどという人間の機微すらも影響はなかった。


「周りに合わせるために成りたいものがあるというフリをしてきました。それが僕の秘密なんです。僕は、鐘に成りたくなんかない。何かに成りたいなんて今まで一度も思ったことがないんです」

「そうか……打ち明けてくれて、ありがとう」


 夢野さんは優しい顔をしていた。本当に疲れ切って、魂を摩耗しきった人なのに最後には責めるようなことを微塵も想起させなかった。それがとてもありがたく手、優しくて、辛かった。

でも、僕はもう見返すことはなかった。夢野さんとの会話もこれで最後かもしれない。僕たちの青春は疾走する。一度過ぎ去った時を取り戻すことはできない。ましてやり直すことも。ただ前に進んでいくしかない。そこにはほんのひとつまみの嘘が必要だ。走り続ける意味を嘘だとしても夢見続けられるように。

 客席を照らしていた照明がゆっくりと萎んでいき、会場は闇に包まれる。飛び回っていた天使ももうその羽の幻影だけを振りまいて光のない世界から消え去ってしまった。後には喝采が起こるのだ。

 タキシード姿の赤松くんが背筋を正しておもむろに壇上に登場する。その眼は観客席を見据えていた。しかし、誰か一人を見ているわけではない。彼の世界とはすっぱりと切り離された僕らの世界をただの闇として見ている。彼の瞳には何も映っていない。その何も映さない瞳が恭しい一礼と共に伏せられ、そして中央に鎮座していたグランドピアノに向けられる。そのときはじめて彼の瞳は光を知るのだろう。


 ピアニストだけが座ることを許された黒革の背もたれのない席に座って、赤松くんは白鍵に指を触れ合わせた。ここからでもよく見える。彼とピアノが一体となって呼吸しているのが。

 始まりはドビュッシーで『月の光』から。

なんとも悲壮感の漂う始まりだ。


 けれども、僕らの終幕にはぴったりだった。






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