僕と冬彦くん
三.
数年に渡って僕たちは望遠神社でだるまさんが転んだや鬼ごっこをして遊び続けた。
運がいいのか悪いのかあの急で滑りそうな石段で僕たちが転んだことは高校に上がった今でもない。
僕たちの遊び場になって数年たつがあの神社はいつもと変わらずある。まるで千年前から時間が流れていないように。
この村には小学校も中学校も高校も一つずつしかなく、全部ひとまとめの一貫校だ。だから未だに夏美ちゃんとも会う。もとより田舎はコミュニティが狭いから、村の外に出なければ嫌でも顔を突き合わせる。
真昼は高校に上がっても友達が少ない。
でも、できないわけじゃなかった。
一校しかないといっても二クラス作れるくらいの人数がいるのだ。
しかし、高校生になると小学生とは違った暴力性が顔を覗かせる。真昼はまたどこか壁に空いた排水溝で生きる湿ったヒルのように窮屈そうに体を捩って学校をやり過ごしていた。
数年の間に僕の喉はゴルフボールでも飲み込んだみたいに硬く膨れ、声は昔よりも低くなった。背丈はずんと伸びてき始めたし、これから成長期に入ると膝の痛みが告げている。嬉しくないことに顔にニキビができると痒いし恥ずかしいしで近づかれるのが嫌になった。手足も伸びてきたけれど、肉づきが悪く、なんだか蛇人間みたいだ。頭の中の成長はどうだろう。掛け算割り算を超えて二次関数なんかも解けるようになった。判別式なんていう難しい英字と数字の組み合わせも今はドライバーでねじを外すみたいに簡単に使える。これは成長なのだろう。僕は嬉しさや恥ずかしさよりも困惑が勝っていた。自分がまるで尖塔に括りつけられた板の上に立っているような気分になるのだ。いつでも足元を見張っていないとそのうちに立っている板がみしりと音を立て、すぐさま割れて奈落に落っこちてしまうような、そんな突拍子もない不安が嵐のように吹き荒れている。頭の中ではそうなのに身体の方は昔よりも重く、硬くなった。
高校二年生に上がった春のことだった。例年よりも気候が暖かく、学校前の桜並木は入学式当日だというのにもう殆ど葉桜だった。親御さんたちの「花がないと寂しいわね」とか「葉桜っていうのも青々としてよい」とかそんな他愛もない話を聞いていると去年の自分の幻影がどこかにいるのではないかと探したくなった。少し前まで自分が新入生だったのにいつの間にか先輩と呼ばれる立場になってしまったことは驚きもあり恐怖でもある。校門の前には稚魚と親魚が混然一体となった群れを作っている。親と子、大人と子供、世代を超えて硬く結びつくこのカオスが見れるのはこの時期だけで、まるで自然の定めのようだ。珊瑚が産卵する新月の夜、メスのカニが海辺に大量に現れ胸の卵を海に投じる夜。そういう決められた明るい夜。ここもまた子供が漕ぎ出す夜海なのだ。葉桜がサワサワと風に揺れる。
新一年生には赤松くんの弟も入学するようなのだ。この村で生まれたら兄弟は離れることは中々できない。それで兄弟同士の中がすこぶるよくなることもあれば、逆に過干渉になりすぎて仲がこじれることもあるらしい。赤松くん兄弟はどうなのだろう。まだ僕は赤松くんの弟にはあったことすらない。兄の方とは違って音楽はやっておらず、バスケをやっているとは聞いている。ピアノばかりやっている深窓の令息たる兄を見た後でバスケをやっている弟の姿をそっくりそのまま兄の姿で考えると才腕で巧みにボールを操る技巧派なのかと勝手にイメージしてしまう。バスケで飛び跳ねていることが影響しているのか身長は既に兄を超えているらしく、中一にして170近いのだとか。それでよく兄の方が恨み言を呟いているのを聞いたことがある。
その弟に今日会うのだ。
「すみません。遅れました」
校門で僕が待っていると赤松くんの弟――冬彦くんがやってきた。初めて見る姿のはずなのに、やはりどこか見覚えがあるような気がした。僕よりも上背のある体をしているが運動によって鍛えられたばねのような筋肉がバランスの良い肉体へと締め上げている。上級生だと言われてもなんなく信じてしまいそうだが、しっかりと見開いたその双眸は青々としていて幼さをまだ秘めている。
「いや、丁度良かったよ。行こうか」
冬彦くんが僕と一緒に会場に行くことになったのはある意味成り行きで村の音楽鑑賞会に行きなれていない僕のエスコート役を買って出てくれたらしい。赤松くんのピアノはずっと学校の中でしか聞いたことがなかったが、今回の発表会は赤松くん含めた数人だけの独奏会であるらしく、それで大きな会場を借りたというのだ。赤松くんのピアノの腕はちょっとした村の噂となっていて今回の発表会には多くの村民が聞きに来るらしい。僕たちは観客の好奇の視線飛び交う渦中で赤松くんの緊張をほぐす星となっていればいいらしい。彼なりにロマンティックな言葉でそう誘われた。
「お兄さんは元気かい?」
「ははは、嫌になるほどですよ。あの人ってほら、あったかくなるとテンション高くなってくるんで」
「なんだか冬眠から目覚めた熊みたいだ」
「熊ですよ。熊。あの人グランドピアノを引きずって運ぶことできますからね」
「あのピアノを弾くための手で?」
「ピアノを弾くためなら兄はなんでもするんです。普段はハキハキしてますけど、ピアノのことになると声が低くなるんですよ」
そこから冬彦くんは少し上の方を見た。今日は雲が多いから何か面白い形の雲でも見つけたのだろうか。
でもそこから彼とは歯車の噛み合いが滑りだしたような感覚があった。
「兄は、ピアノのことになると人が変わるんです」
冬彦くんは僕よりも大股で歩く。僕が若干前傾姿勢で追っていることに気が付いていないのか、歩を緩めようとはしない。腕時計で時間を確認するが発表会にはまだ五十分くらいある。ついたころでも三十分前くらいだ。
「兄はピアノの白鍵になりたいと言っているらしいですが、実際のところそれが本当に満足する形だとは俺には思えないのです。学校の練習用ピアノに組み込まれたとしてそれで満足するはずがない。あの人には腕の良し悪しが分かってしまっていて、自分と同じレベルの弾き方を要求しているはずなのに」
冬彦くんはなんだか独り言みたいにぼろぼろと言葉を零した。ピアノの白鍵になりたいというのは赤松くんの小学生以来の夢だ。だが、確かに言われてみれば彼の夢はそう、冬彦くんが言っているような練習用ピアノの一部になることを夢見ているわけではないだろう。それでも、成りたいものは成りたいものでしかないのではなかろうか。
「きっと赤松くんは赤松くんが弾くピアノに成りたいんだよ。変な話だけど」
「えぇ、変な話です。叶わぬ夢です。兄は真剣に成りたいものを見つけなければなりません。この村の人間は成りたいものを見つけられなければ、永遠に違和感に苛まれるんですよ。この『形』は『私』ではないって。兄山さんのことを覚えていらっしゃるでしょう」
「あぁ、発狂した末に失踪したとか。あれは本当なんだろうか。本当に何かに成ることを拒んだことが理由なんだろうか。あの人のことは良く知らないけれど、そうだったら恐ろしいな」
「そんなのは兄山さんしかわかりません。でも、同じような事件は村の記録にたくさん残っています」
「何にも成らずにいた結果狂って獣になってしまったものたちの記録か。君はそんなのまで読み込んで、ちょっと心配しすぎなんじゃないかな?」
「そんなことありません。兄は白鍵になることの矛盾にまだ気づいていないんだと思います。俺はこのまま気づかせずにいるべきか、指摘して本当に成りたいものを探すように促すべきか、分からないのです」
冬彦くんが角を左に曲がると西日が彼の目を照りつけた。僕も目を細めたが、その一瞬、あの境内の夕景が記憶に帰ってきた。
べきこそ死ぬべき言葉だよな。
「何も君が思い悩む必要なんてないよ、冬彦くん。君のお兄さんは聡明で、僕なんかよりうん十倍頭がいい。僕でさえ成りたいものが見つかったんだ。君のお兄さんが真に成りたいものなんてとっくに彼には見つかっているかもしれないよ」
「先輩の、成りたいものはなんですか」
西日が視界を覆いつくす。脳の中の無辺無数の電気信号たちが全て大きな光で塗りつぶされる。信号機の赤い一つ目がトン、トンと点滅しているのが目の中に飛び込む。それでも僕は遠くから、海も山も空も超えた彼方から、重くなるあの響きを幻聴した。聞こえてきたものを僕は振り絞って僕は冬彦くんに伝える。彼の目を捉え、西日すらも跳ねのけて。
「鐘だよ。鐘になるのさ。どこまでも、いつまでも、僕の響きが届くように願って」
冬彦くんは歩を止めた。そして、しばらく僕の瞳をじっと見据えていた。それは夏美ちゃんに僕が成りたいものを伝えた時のような雄大でたゆんだ大きな時間の隔たりがあった。それからその歪みはシャボン玉が弾けるようにしていっきに現実を引き戻す。
「鐘、あの、チャペルの鐘ですか」
「チャペルの鐘。うん、そうだね。時報よりグッと近いニュアンスだ」
「……あなたも間違ってますよ。あなたも兄とおんなじだ。いや、あんたの方が質が悪い」
「どうしてだい?」
「あんたの成りたいは嘘だからだ。俺たちの成りたいと根本的に違う」
彼はこの世ならざるようなものを見たように眉を顰め、目を細めた。
「そして、兄も違うんだ……」
やがて視界に移った汚物を清めるかのように西日に向き直り、じっと見つめていた。眼の奥にある虚像を焼き尽くすように。そうであるとして、彼には何が見えているのだろう。僕と彼らでは何が違うのだろう。僕も西日を見据えてみるがとても見続けられるものではない。影になって曳かれた稜線と烏たちの飛ぶ姿、村の家々を影としてとらえるばかりだ。何も虚像は浮かんでこない。真実の影ばかりが太陽の前に晒されているばかりだ。
その後、会場の席に着くまで僕たちの間で会話はなかった。そして、これが冬彦くんと話した最初で最後の機会だった。