僕と真昼/東条くんと星さん/余所者と陶芸家/ある男と女の壺
二.
六月の汗ばむ季節によく真昼と望遠神社に行った。
幽玄に富み、和紙の上に描かれた水墨画のような廃れた神社。石段は太古より人々が昇り続けた証を誇示するように凹型に擦り切れていた。雨上がりに登ると枯れ葉と動物の死の匂いが混ざり、朝日と竹の涼やかな匂いに蒸し返される。登り切ってすぐのところに鼠色の鳥居が待ち構えている。拝殿までの一直線の間に赤茶色のご神木が堅く天に突き刺す槍のように何本も聳えていて、木々の根元に陶芸品や傀儡子が使うようなエビス人形が静置されている。
望遠神社がこの村の信仰基盤であり、神を抑える場所であり、死者を弔う場所である。無数の死者が奉納されているがゆえに呼び声も木の葉の擦れる音の間に境内の至る所で囁かれる。朝霧の粒の隙間から、天地の僅かな隙間から。
エビス様に由来するような神様がいると聞いたことがある。または海の外から来たものとか、もっと眉唾なのだと空の外から来たとか。隕石を神様とする神社は存在しないことはないらしい。
階段を登りやすいように手すりをつけたりは全くせず、登っている途中で『運よく』滑落事故でも起きてくれればいいと思っているのだろう。死が成ることの始まりだから。
「こんなにぴちぴちで可能性に満ちているのに、どうして大人は俺たちに『何に成りたい?』って形を定めようとするんだろうな?」
真昼はシニカルに笑った。
僕は口をつぐんだ。
小学生の男の子にしては早熟な物言いをするから、先生や大人は困っている。
真昼はいつも一人でいる。夏美ちゃんとは大違いだけど、誰かと話さないわけではない。僕とも話す。赤松くんと東条くんと話しているところを見たのは少ない。東条くんが真昼と話していたのは彼が説教をしているときだけだった。
真昼は答えを出すのが好きで、死や神や夢なんかの曖昧なものが嫌いだ。だけど神社に来る。信仰のためなんて毛頭なく、遊び場として。
「グリコしようじゃん?」
「もう登りきっちゃったじゃないか」
「なんだよ。じゃあ、何して遊ぶ?」
「二人だけだとなぁ。スマホ持ってきたから東条くんと赤松くんも呼ぼうよ」
真昼は少し嫌そうな顔をした。
それからもっと嫌そうな顔をして、おえッとジェスチャーをした。
「いいじゃん、グリコでさぁ。わざわざさぁ」
僕は構わず東条くんと赤松くんにラインをした。
東条くんは二つ返事で了承してくれたけれど、赤松くんはピアノのレッスンがあるからと断られてしまった。遊ぶなら二人よりも三人の方が遊びの幅は広がるけれど、僕は赤松くんの代わりに東条くんと仲のいい星さんにダメ元で連絡してみた。
「赤松も東条もツマラナイだろ。アイツらは成りたいものが決まってるんだ。赤松はピアノの白鍵で、東条はヴァイオリンの絃に成りたいんだ。な、ツマラナイだろ?」
「人の夢にケチばっかりつけてるから皆に煙たがられるんだよ。ほら、こないだふもとの兄山さんにも怒られたでしょ」
「車の整備ばっかりやってて何が楽しいんだって聞いてやっただけだぜ。あんなに好きなら車になっちまえばいいのに」
「車は難しいんじゃない?」
「難しいから諦めるのかよ。つまんねぇの。だからツマラナイものにしかなれないんだ」
「じゃあ、真昼にとって面白いのってどんなのなのさ」
「そりゃあ、宇宙だろ」
「宇宙?」
「宇宙に俺は成ってみたい」
「宇宙飛行士じゃなくて? ていうか、行ってみたいとかでもなく」
「宇宙に行ったって言っても、地球と月の間の僅かな部分だけで、後は月に足跡つけてるだけだろ。そんなの面白くもなんともない。砂場でも足跡なんてつけれるしな。宇宙に成りたいんだ」
「無理だよ。陶芸家は粘土をこねて形を変えることはできても、形を失くすことはできないんだ。君の成りたいものって不可能ってことだろ」
「だから、ツマラナイんだ。既に形あるものになることにどれほどの意味があるのか。壺に成って完全な環にでもなったつもりかね、コイツらは」
真昼はそう言って短く鼻から抜けるみたいに笑った。それから壺の一つをつま先で軽く小突いた。
真昼の瞳はキレがある。肌は色白くて柔らかく、青緑の静脈がカンナで削ったような薄い肌の下に透けている。髪の毛の一本一本が柔らかな絹のようにまとまっていて、洞窟の闇のように暗く黒い髪をしている。
真昼は氷魚真昼という。根は暗いし、いつも誰かと意見を違えている。だからみんな真蛭と呼ぶ。森と蛇道の境目のコンクリ壁に落ち葉とともに張りついているような黄色い蛭。それを揶揄してみんな呼び分けている。同じ読み方だけれど、子供たちは非常に耳がいいから些細な文字の呼び分けもできるし、もちろん聞き取れる。真昼は別にその呼び分けを聞いても、嫌な顔一つすることはない。
「だって、蛭ってカッコいいだろ?」
真昼の瞳は傷がたくさんつけられた硝子のようだ。海辺に落ち上げられた硝子片が優しい丸みを帯びているように、真昼の瞳は誰か譲りの優しさを宿していた。しかし、彼の瞳は鋭さも内包している。ガラスの破片は人の指をスパッと切ってしまう。瞳がガラスでできているなら、真昼の身体全体はビスクドールみたいな陶磁器だ。白く、柔らかく、妙に冷たい。僕は真昼がビスクドールに成れればいいのにと思う。顔立ちは中性的で身長も低くて、口から皮肉が飛び交う前は大人も子供も真昼のことが大好きだったのだ。その可愛らしい体躯に触れて、穢して、だから硝子は海の砂に揉まれたように濁ったのか?
いつから彼の体にはひびが入ってしまったのだろう。
東条くんと星さんはザックザックと一緒に階段を上ってきた。境内に上がるころには太陽の傾きが険しくなりつつあって、海の方から夕焼けが立ち上りかけていた。翠緑の海が魚の銀鱗のような光を散らして優しく凪いでいる。五時の放送がなるまでは僕たちの時間なのだ。子供たちの放課後は神事の時間と同じくらい厳かで重要だ。
「じゃあ、だるまさんがころんだやろうぜ」
真昼が提案した。
おおむね誰も反対することはなかった。鬼ごっこだと星さんがこの中で一番脚が遅いから彼女がずっと鬼になりかねないし、かくれんぼだと東条くんが永遠と見つからないことがあったからだ。
まずは東条くんが鬼役を買ってでた。
灰色の大小さまざまな陶器が半分ほど埋まっているご神木の前に立って顔を伏せる。
「俺たちは今だるまさんになったんだ。気をつけろ、腕も足もないから転んだら死を待つしかなくなるぞぅ。――そう思うとなんだか退屈な遊びだけど」
「舌より足を動かしなよ。もっと速く歩かないと僕が先を越してしまうよ」
「えー、チーム戦だろ?」
「チーム戦じゃないよ。誰が最初に鬼をタッチできるかさ。お友達じゃないんだよ」
「何かに成りたがるお前たちがお友達にはなりたくないのか」
「お友達は成りたいものじゃないから。勝手になってしまうものだろう? 僕たちが何かに成りたいのは殆ど使命のようなものだと思ってるよ」
「使命! 嫌な言葉使うなよ。結局のところお前たちは何かに成ることを救いだと思っているのさ。人を全うすることを諦めるだけのくせに」
「救いなんて求めてないって。ていうか何から救われるの? ダルマ? カルマ?」
だるまさんが――転んだッ!
静寂と東条くんのねめっつける視線が僕たちの会話を別つ。星さんも北極星のように動かない。僕たちの話は聞こえていただろうか。しばらく東条くんは動かなかった。びゅうと風が吹くと境内の砂が待って右目を鋭く痛ませた。咄嗟に目をぎゅっとつぶったが、左目でじっと東条くんのことを見つめた。
東条くんは僕たち三人のことを今に動くと思っているのだろう。蜘蛛か蛇が獲物に噛みつくタイミングをじっとこらえて身構えるように動じない。僕たちはまったく眼が合わなかった。じっと一点を見つめているらしいから、東条くんはきっと星さんを見ているのだ。星さんのことを今に狩り殺そうと待っているのだ。それは殺意なのか?
だーるーまー……
「なぁ、お前は何に成りたいんだよ? つまらない大人に成って聞いてやるよ」
「僕は鐘に成りたいんだ」
「鐘? なんだよ、時報じゃねえか」
……さーんーがー
「別に夕焼け小焼けの代わりをするつもりはない。鐘の鳴るのと時報じゃ意味が違うよ」
「そうか。俺にはおんなじにしか聞きこえないけど。まぁ、でも、そもそも――」
こーろーんー……
「お前も何にも成れないのがこの話のオチなんだろ?」
だっ!
力強い声に星さんは驚いて、ぐらりとよろめいてしまった。それを狩人の目で見ていた鬼が近づいてきて、彼女の手を強く握りしめて神木へと連れて行ってしまった。囚われになってしまった星さんは為されるがまま、手を繋いだまま困ったように東条くんの方を見あげる。東条くんは何も言わない。そして、星さんも何も言わない。
その二人の間でどんなコミュニケーションがあったか分からないが、星さんはふいに彼から目を逸らしてそれからぎゅっと彼の手を握り返した。
東条くんは微笑んだのも束の間、すぐさまいつも通りクールな睨み顔をした。
「星のこと好きすぎだろアイツ」
「声が大きいよ」
「なんであんな顔した後にこっち睨めるんだよ」
「だから声が大きいってば」
いつの間にか構図は東条くんと星さん、僕と真昼の対立構図になっていた。思えば真昼と東条くんは二人は因縁の強いやつらだ。東条くんはいつも真昼のおふざけを諫めるポジションに納まっていて、傍から見ていると二人は兄弟のようにも見えた時もあった。だるまさんが転んだを通して暗に二人は戦い合っているのだろう。真昼はいつも怒られていて負けている。東条くんはいつも注意する側で先手をとって攻撃したりはしない。二人にとってはここが伸び伸びと争える場所のようだった。境内の中、微かに香る雨土の匂い。遊びの中で彼らは正々堂々と戦っているようだった。
だるまさんが転んだは白熱し、真昼が鬼になり、星さんが鬼になり、僕が鬼になり、また東条くんが鬼になった。僕たちはなんどもダルマとなって転ばされコロコロと転がった。
ちょうど休憩をしているときとある男女が望遠神社の岩の鳥居をくぐった。女性の方は背にまで黒い艶やかな神を垂らし、牡丹の花が似合いそうな和風美人だった。ついてきた男の方はあの急階段を上ったせいで息が上がっており、身体がほっそりとした色白だった。ほっそりしている割に脚は頑健らしく、下駄でこの石段を上ったようだった。
「あれって陶芸家の、真宮寺の娘と……余所者だ」
「余所者なんて珍しいね」
真宮寺家の娘の手先はまるで海月のようにすべやかで瑞々しく、堅いものを握りしめたことがなさそうな手をしている。小学生ながらに彼女の手で体を捏ねられて壺に変えられたとしても、幸福なのだろうと思った。望遠神社の至る所にキノコ型の蓋付き壺が置かれているが、がそれらのほとんどが真宮寺家によって作られたものだ。それらは骨壺である。
無を抱く福の骨壺。
望遠神社の伝説では、海から船に乗せられて流れ着いた子供を神様として祀ったがすぐに亡くなってしまい、その骨を砕いて泥に混ぜ、仏像にした、とか。或いは神様の亡骸を村長の骨壺に一緒に納めた、とかどうとか。色々ある伝説に倣ってこの岩楠村では人々の遺体は火葬された後に神を納めるための壺とする風習が根付いている。神の為の骨壺なら完全な姿だろうと思って多くはそんな壺を目指して衝動のまま死んでいく。詳しい風習や伝承の話を僕は知らない、語り継ぐ大人たちは自らも別の物に成る衝動を堪えきれず人であることを止めてしまう。うちの両親も、いつかは。しかし、そんな小難しい話はあまり深く考えない。なぜならば、小学生だから。
でも、知らないことを知りたい気持ちはある。
「ねぇ、ちょっとついていってみようよ」
「なんで。ゴシップか?」
「違うよ。ちょっとした好奇心」
「大差ないね。どうなっても知らないぞ」
そう言いつつ真昼は僕の後ろについてきた。
彼女たちが行く方角にはかつて墓地だった跡地があり、幾つか神木の根元に埋まっているような物とは大きさの違う巨大な骨壺が転がっているのだ。あれには墓地がまだ機能していた時代にその墓石の下に納められていた人々の灰が入れられている。或いは自らが神に近づくために骨壺の中身に成ろうとした人物の成れ果てが入っている、らしい。
僕たちは気づかれないように木の影に隠れながら、二人の後を追った。東条くんと星さんは何やら込み入った話をしていたので誘うに誘えなかった。
しばらく歩いていると墓石が横倒しにされて等間隔に並べられた場所に出る。数百年の時を経てその表面は苔むしつつも夕暮れの空から降ってきたオレンジ色の光を吸っている。もうそこに刻まれていた名前も風化して消えさった。
真宮寺の娘が男の方にこう言った。
「アナタの恋人さんはこちらにいらっしゃいます。ほら、あの壺です」
そう言って彼女がしなやかな白い指を真正面に投げ出すと、男は迷いもなく一歩行くごとに崩れるみたいになりながら一つの小さな壺の前にへたり込んだ。その瞬間に落ち葉が舞い、男の頬を枯れ葉が撫でる。
「これが……夏子、ですか……」
生気のない声が湿気を含んだ風に吹き飛ばされる。壺の表面を触るか触らないかのギリギリまで男は手を伸ばし、やがて膝の上にだらりと置いた。
「しょうがなかったのです。この村に生まれたからには皆今の姿に満足できない。そういう呪いなのですよ」
真宮寺の娘は座り込んで虚脱した男の肩に手を置いて励ますような、誘い込むような調子でそう言った。
「呪いですか……夏子はこうなって幸せだったのでしょうか」
「少なくとも、もう不具であることに思い悩むことはありません。この村に殺されたとお思いになるかもしれませんが、こうなることを選択したのは彼女の意志であり、村の習わしは直接的には関係ないのです。村に強いられたわけではない、彼女の選んだ道です」
彼女は当然のことを告げる。男は夏子と呼ばれる壺を前にして魂を失ったように反応を返すことはなかった。それこそ人形になってしまったかのように。
あの男と夏子の間に何があったのかなんて僕は知りもしないが、きっとあの男には何故彼女が壺の形をしているのか分からないことだろう。その課程は遺体が燃やされ灰となり、灰が捏ねられ壺になった。それだけだが、どうして彼女が壺に成りたがったのか、変わりたかったのかなんてまったく分かりもしないだろう。ひょっとすると同郷の僕すら分かりえないのかもしれない。衝動は理由なく、ゆえに理解しがたい。
真昼と僕はじっと二人の様子を見ていた。僕たちは同じような表情をしていただろう。お互いに見合わずともそれはなんとなく分かるような気がした。けれども、お互いの心の底にあるものは決定的に違っているとも分かっていた。最終的に出力される表情こそ同じだけれども、その根底にある過程は全く違うのだ。真昼は無になりたいのだ。何の形も、いくらの量もない無に。僕は鐘に成りたいのだ。この村に適した形に。それこそが根本の決定的に違う部分だ。
これが真宮寺の娘の言うところのこの村の呪いなのだろう。死にたくもあり、同時に生きたくもある。しかし、なんとなく僕たちはこの姿を正しい姿とは思えない。小学生はまだ幼虫みたいなものだけれど、これが高校生や大学生くらいになるときっと蛹ぐらいになるかもしれない。そのときにきっと夢見てしまうのだ。美しい蝶になって羽ばたく夢を。自らの形が定まらぬうちにそんな蝶を幻視してしまえば、今の姿が無性に悍ましいような気がしてくる。骨も、皮も、肉も、全て蝶には程遠いから。夏子と呼ばれる人物もまたそんな風に思ったのではないだろうか。
男はしばらく黙って顔を伏せていたが、ようやく顔を上げた。
「この壺は持って帰ってもよろしいでしょうか。こんな雨風に晒されていたら彼女が割れてしまいます」
「それは遺族の方に聞いていただかないと。でも、割れたら私がまた粘土に戻して焼き直しますよ。割れた骨壺を作り直すのがわたくしどもの役目ですので」
「では……では、せめて彼女の一部が欲しく」
「それなら、はい。いまここで割られると良いでしょう。小さな一片くらいだったら、作り直すときに支障はありませんから」
男はその時になってようやく顔を上げて足腰を立たせた。真宮寺の娘は背に夕景を背負って、妖気を増して立っている。まるでこの神社の巫女のように。
男は壺の夏子を手に取った。その滑らかで生の骨のように白い表面を大事そうに親指でなぞり、それから口をぎゅっと結んで、そのまま近くの墓石の上に落とした。その様子は互いに固く握り合った手をするりとほどいてしまうような悲哀に満ちたものだった。しかし、ただ裏切りでもなく、決別でもない。愛したもののために罪を犯す復讐のようだった。夏子は無言で男の手から落ちてパリンと一瞬の悲鳴を上げた。十数の欠片になった彼女を男はいまだ悲しげに見下ろしていた。やはり中身は虚空。壺の中に神様も、内容物もない。そして、彼は一つ小さな破片を拾い上げると胸に抱いてそれから大事そうに持ってきていた斜めがけの鞄の中にティッシュにくるんで入れた。きっとこれから夏子は彼と一緒に過ごすだろう。また不完全な体で。それが幸か不幸かはもう夏子にすら分からない。
真宮寺の娘は残った数十片の欠片を一つの一に集めると、男を先に見送ることに決めて、また二人で望遠神社の急な階段を降りていった。
僕たちは一部始終を見ていたが、結局気づかれることはなかった。それから今見たことについてはまるで話さず、また東条くんと星さんのいる境内に戻ってきた。
星さんが次は隠れ鬼をやりましょうといったから僕たちはそうすることにした。
最初に鬼になったのは僕だった。