34-3(ディートリヒ)
「それでは、……始めますね」
女神にそう宣言し、ディートリヒは一度アウレリアの方へと視線を向けた後、自らの前に伸びる影へと向き直った。四方からの灯りのため、それほど濃くはない影。しかし、確かにそこにあるもの。
地に膝をつき、手を伸ばす。影の上に描くのは、闇魔法を使う者たちがまず最初に学ぶ、最も初歩的な闇魔法。座標も何もない、ただそこにある空間同士を繋ぐだけの魔法である。
魔王を封じたのもまた、この初歩的な闇魔法だった。一番初めに習うため、あまり意味がないと思っている者も多いが、決してそうではない。魔力の使い方を知らない者でも使えるほど、魔力が伝わりやすい魔法ということなのだ。特に闇魔法は、火や風などの他の属性の魔法と比べて、攻撃にそのまま使用するわけではない。威力ではなく、操作の技術こそがものを言う魔法である。
魔力を使うことに慣れていない魔法使いでさえ使える闇魔法を、魔力の扱いに長けた魔法使いが使えば、どんなに強大な力を持つ相手でも、その空間を越えさせることが出来るということだ。
小手先の闇魔法では、魔力の伝達が上手くいかずに、空間を渡り切る前に破られる可能性があった。だからこそ魔王を、最も簡単な闇魔法で、最も身近な自らの影へと封じたのである。
「……解放しますね」
初歩的、という言葉の通り、とても簡単な魔法陣を影の上に魔力で描く。僅かに藍色の輝く、闇色の魔法陣。顔を向ければ、女神は穏やかに微笑んだまま、深く頷いていた。
もう一度、肩越しにアウレリアの位置を確認する。いざとなれば、すぐに逃げ出すことを考えて、ディートリヒはその指先から、ゆっくりと魔力を流し込んだ。
じわり、じわりと魔法陣の端から、徐々に闇色に染まっていく。ぼんやりとしていたはずの自分の影。描いた魔法陣の形に添って、丸く、真っ黒に変わっていって。
その全てが闇色になった瞬間、低い唸り声が聞こえた。自分の頭の中でいつも聞こえていたその声は、しかしいつものように頭の中で響いているわけではない。
泉の間を震わせるように、低い声が響き渡っていた。
『アウレリア様! 何事ですか!? ご無事ですか!?』
重苦しい声は部屋の外にまで聞こえたらしく、扉の向こうから慌てたようなクラウスの声が響く。アウレリアがぱっとそちらを振り返って、「大丈夫です、クラウス卿!」と、大きな声で返すのを視界の隅で捉える。意識を戻せば、自らの影へと続く魔法陣は、しっかりと作動したままだった。
〈……ゲオルク?〉
魔法が作動したまま、しかしそこからは何も現れず。おそるおそるというように、女神がそう呟く。ディートリヒの夢の中でも聞いた名前。おそらく、魔王の、いや男神の名前なのだろう。
唐突に、唸り声が止む。不思議なほどに何の音もなく、数拍の間が空いて。
それもまた、急な出来事だった。
〈……レオノーレ〉
呟くような声が聞こえたかと思うと、ディートリヒの影の中、闇に染まった魔法陣から、にゅっと誰かの手が現れた。真っ青にほど近い、抜けるような白の肌。それが魔法陣の端を掴んだかと思うと、飛び上がるようにして人影が現れる。
真っ白な長髪に、真っ赤な両の眼。今のディートリヒとよく似た色合いのその男は、真っ黒な布を身体に纏うだけの、粗末な身形をしていた。粗末であるはずなのに、どこか高貴さを感じられる、不思議な装いを。
〈レオノーレ〉
影から現れた男は、そう静かに呟く。切れ長の目に、通った鼻筋。彫りの深い、男らしい端正さを持つ、美しい男だった。
男はただ真っ直ぐに、女神を見ていた。女神のように泉の水面に立つのではなく、泉の端、豪奢なタイルの上に立ったまま。
〈お久しぶりです。ゲオルク〉
そう、女神が言い、微笑んでいた。
〈とても長い時間、眠っていましたね。正確には、眠らされていたわけですが。……私のことを、覚えていますか?〉
小さく首を傾げ、女神が問う。背後から、その表情は分からなかったけれど。ゲオルクと呼ばれたその男は、静かに頷いていた。〈もちろん、覚えている〉と、男は静かに応えた。
〈我の最愛。我の最も大事なもの。忘れるくらいならば、我はきっと、眠ることなどなかっただろう。……それが出来なかったからこそ、我はあやつらに眠らされたのだから〉
そう言った男の声は、苦い嘲笑の色を纏っていた。
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